第28話 ネコは気まぐれに残り香を纏う
どれくらい走ったか、もうわからなくなったころだった。
視界の端に、雪を被った大きな岩が見えた。
ルードは速度を落とし、その陰まで駆け抜ける。
「……ここだ」
エレナシアを岩陰へ押しやるようにして隠し、自分もその前に立つ。
荒い呼吸を無理やり抑え込みながら、耳と鼻の感覚を研ぎ澄ませた。
今のところ、追ってくる気配はない。
(……一旦は、撒いたか)
膝に手をつき、白い息を吐き出す。
さっきまで握っていた手は冷たく、指先はかすかに震えていた。
「悪い。ちょっと無理させたな」
そう言いながら、ルードは岩にもたれかかる。
(護衛まで動き出してるってことは、向こうも本気だってことだ)
グレイルは「王族絡みだ」と言った。さっきの少女は「裏ルートで入手した」と言った。
(だったら、どっちが“表”なんだ)
視線を横へ向けると、エレナシアがちらりとこちらを窺っていた。
彼女は、ゆっくりと鞄から紙と筆を取り出した。
さらさらという筆の音が岩陰に響く。
『シリウスの言ってたこと……』
一度そこで手を止め、筆先が宙をさまよう。
やがて、ためらいながら続きを綴った。
『私を自由にするって、どういう意味だったのかな?』
胸の奥が、じり、と熱を帯びる。
(……あいつの言葉なんか)
気にするな、と即答したかった。
「さぁな。王族の考えることなんて、わかんねえよ」
ルードは視線をそらし、吐き捨てるように言った。
目の前に、王族そのものがいることは、ひとまず棚に上げたまま。
(王族の考えること、ね……)
さっきの金髪の男の顔が、嫌でも脳裏によみがえる。
淡々とした物言い。まっすぐな視線。逃げ場を塞ぐような問いかけ。
『君たちが一緒にいるのは、彼女の意志なの?』
そして――。
『関係あるよ。だって僕は君の——』
あそこで、雪を踏む音に遮られた。
(あいつ、あの先に何を言うつもりだった?俺の……何なんだ)
そこまで考えて、ルードは首を振る。
(……バカバカしい)
さっき聞いた声が、どこかで重なりかけている。
(……いや、気のせいだ)
ルードは空を見上げた。
(どっちにしろ――もう居場所は割れた)
今さら森の中をうろついたところで、時間の問題だ。
(……逃げりゃいい、って話じゃなくなってきたな)
エレナシアの視線が、ためらいがちにこちらへ寄ってくる。
(こいつを一人にしたら、その隙に連れていかれる)
護衛の連中がいい奴らかどうかなんて、どうでもいい。
(せめて“今”のルールくらいは知っとかねえと)
自分がどういう罪で売られているのか。誰が、何のために。
そして、エレナシアが、外でどう扱われているのか。
「……街に、出る」
ぽつりと、ルードは呟いた。
エレナシアが、わずかに肩を震わせる。
「少し情報を集めるだけだ。長居はしねえ」
そう言って、彼は自分に言い聞かせるように続けた。
「手配の話も、城の動きも……どこまで表に出てるか、一回見ときたい。逃げるにしても、交渉するとしても、今みたいに“何も知りません”じゃ話にならねえ」
エレナシアは、一拍おいてから指先を伸ばしかけた。
ルードが、その指を掴む。
「……安心しろ。お前を一人にはしない」
自分でも意識するより早く、言葉が口をついて出る。
「お前のことは、俺が守る」
何か書こうとしたエレナシアの手が止まり、ほんの少し目を見開いた。
(……あ?)
沈黙が、妙に長く感じられた。
(俺、今すげぇ恥ずかしいこと言ったか……?)
それでも掴んだ手だけは離せなかった。
「今日はここで野営する。情報収集はそれからだ」
露骨に話を切り替え、ルードは立ち上がる。
「……手、冷えてるぞ」
そう言って、エレナシアの指先を軽く握ってから手を離した。
◇
空気はひんやりとしていた。
焚き火の前で、ルードが目を閉じていた。
眠っていないのは、知っていた。
エレナシアは身を起こして、乱れた髪を整える。
バレッタを留め直そうとして、手が空を撫でた。
(……あれ?)
心臓がきゅっと縮んだ。
周りを見渡す。
(……あ)
地面にバレッタが落ちていた。
小さく息を吐いて、バレッタをそっと手に取る。
髪につけようとすると、金具が噛み合わない。
金属が触れ合う音だけが何度も鳴る。
(壊れてる)
バレッタを手にしたまま、動けなくなった。
「……どうした?」
ルードがこちらを見ていた。
エレナシアは少しだけ躊躇いながら、無言でバレッタをルードに見せた。
「壊れたのか」
その言葉に、胸のあたりがちくりとした。
目の奥がじわじわ熱くなって、咄嗟に下を向く。
「ん……?」
ルードが、覗き込むように見てくる。
「……なんで泣きそうな顔してんだよ」
泣いてないと書きたかったけれど、紙も筆も遠かった。
「これくらいなら直せる」
そう言って、エレナシアが持っていたバレッタを手に取る。
思わず、ルードの顔を見る。
ルードは片手でバレッタを持ち、金具を確かめていた。
「これがないと、お前のこと見つけられないからな」
そう言って、かすかに微笑んだ。
その顔を見た瞬間、胸が疼く。
「直すのはあとだ。今は、お前が持っとけよ」
ルードはバレッタをエレナシアの手に戻した。
「そろそろ出発するぞ。その髪でいいのか?」
ルードが立ち上がる。
エレナシアは慌てて髪を両手で押さえた。
◇
ルードは、エレナシアとともに裏道を選び、目立たないように移動した。
人通りの少ない道を選び、フードを深くかぶる。
喧騒の中、二人は酒場の前で足を止めた。
ルードは一瞥し、扉を押し開ける。
すぐに、酒と料理の匂いが鼻をついた。
店内は賑わっている。
長いカウンターに並ぶ酒瓶、酔っ払った男たちの笑い声。
気を抜くわけにはいかない。
――が、その瞬間。
「えぇ~、もぉ、しょうがないなぁ♡」
やたら甘えたような、耳に残る声。
ひときわ高めのトーンで、妙に馴染み深い。
(……ん?)
ルードの足が、思わず止まる。
「今回は特別サービスだからぁ、ちゃんと今度はお返ししてよねぇ?」
(……最悪だ)
その声を聞いた瞬間、無意識のうちに指先が耳元へと伸びる。
ピアスの細いチェーンに触れた瞬間、わずかに金属が揺れた。
ルードは小さく舌打ちすると、その手を乱暴に下ろす。
視線の先、カウンターの奥。
見覚えのある赤毛が、男たちに酒を注ぎながら、妙に媚びた笑みを浮かべている。
片手で髪をくるくる弄りながら、客の肩をポンと叩く仕草までしている。
「……ミリィ」
すると、赤毛の少女がパッと顔を上げる。
「んん? んんんん~!? ルード!?」
彼女の表情が一瞬で輝き、赤い髪が弾むように揺れた。
「えっ、嘘でしょ!? なんでこんなとこに!? 久しぶりじゃーん!!」
嬉しそうに声を上げるミリィ。
(……嫌な予感しかしねぇ)
短くため息をつき、額に手を当てた。
ミリィはぱたぱたと駆け寄ってきて、にやりと笑った。
「どこで何してるのかと思ったら……こんなとこにいたんだ」
ルードがうんざりした顔を向けると、彼女は肩をすくめる。
「アタシは酒場で強制労働中~。ツケ溜めすぎてさ♡」
「……だろうな」
軽口を交わしたあと、ミリィの視線がルードの隣へ流れた。
さっきまでの調子が一転し、探るような色を帯びる。
「へぇ……まだ一緒にいるんだ?」
「……だったら何だよ」
低く返しながら、ルードの指先がふと耳へ伸びる。
無意識の癖のように、軟骨のピアスをいじっていた。
「前は“仕事”でしょ? でも今は……なんか違って見えるんだよねぇ」
ミリィは楽しげに口角を上げ、その耳元をひょいと弾いた。
「……っていうかさ、まだ外してないんだ。アタシが開けてあげたやつ♡」
ルードは眉間に皺を寄せ、触れられた場所を指で弾き返す。
「……別に意味はねぇ」
「そぉお? だったら余計に面白いじゃん……ねぇ、エレナシアちゃん?」
エレナシアの指先がかすかに震えた。
ミリィの唇が愉快そうに弧を描く。
「まぁそれはさておき、さ? アンタ、今どんな状況か分かってる?」
ルードの指がピクリと動く。
「ルード、アンタ……お尋ね者になってんじゃ~ん♡」
場の空気が一瞬で変わった。
ルードはミリィをじっと睨んだ。
彼女は満足げに微笑むだけで、悪びれる様子もない。
「……もう知ってたのか」
「そりゃねぇ?アタシの情報網を甘く見ないでよ♪」
その態度に、ルードは歯を噛みしめた。
「まさかぁ? 依頼すっぽかしたとか?」
「……」
短く息を吐く。答えはしない。
「……お前、何か知ってるのか?」
「何かって、何が?」
ミリィがわざとらしく笑顔を作る。
「アンタがどーしてもってんなら教えてあげてもいいけど?」
ミリィは、くるくると指で髪を弄びながら、ゆるく微笑んでいる。
「ルードの指名手配の噂、結構広まってるよ? “凄腕の賞金稼ぎが女を連れて逃げた”ってね」
「……」
「で?本当のところどうなの? マジで依頼すっぽかしたの?」
ルードは答えなかった。
喉がわずかに動いたが、声は出ない。
ミリィはおどけた調子で続けた。
「じゃ、聞き方かえよっか? その子、まだ“荷物”のまま?」
心臓を殴られたような感覚。
反射的に否定しようとして――息が詰まった。
ミリィは、くすっと笑って肩をすくめた。
「……答えないんだ」
ルードは奥歯を噛みしめ、視線を逸らす。
(違う……荷物なんかじゃねぇ……)
だが、言えなかった。
依頼を放り出したことも、彼女を特別な存在として傍に置いていることも。
口を閉ざすことしかできない。
視線の端で、エレナシアが小さく身じろぎした。
筆を握る指が震えているのが見えた。
けれど、紙に触れたまま――何も書かない。
どう言えばいい。何を言えば――。
「ま、いいけど♪」
ミリィは軽い声を残し、ひらひらと手を振った。
「それよりさ? アンタ、本当にこのままでいいの?」
ルードは黙って睨み返す。
ミリィは愉快そうに目を細め、くるりと踵を返した。
「困ったら助けてあげてもいいよ? タダで、とは言わないけどね♡」
そう言い残し、彼女はひらひらと手を振り、再び給仕に戻っていった。
エレナシアは顔を伏せたまま、何も書かない。
酒場の喧騒が、妙に遠く響いていた。