第26話 衝動、君を穢しきれない雪

雪は、夕暮れとともに止んでいた。 木々のざわめきも落ち着き、夜の静けさが少しずつ世界を包み込んでいく。 焚き火の明かりがちらちらと揺れ、ルードの横顔をぼんやりと照らしていた。 ルードの指先が、どこかぎこちなくピアスをいじっているのが見えた。 (……私、少しはルードの力になれたかな) 力を使って、ルードの傷を治すことができた。 ルードは納得してたかわからないけど。 でも、少しでも役に立てた気がした。 それでも、弓の腕もまだまだで。 “戦える”なんて言えるには程遠い。 (このままじゃ、また足手まといになるかもしれない) 焚き火の赤が揺れている。 ルードの横顔を見ながら、胸の奥で不安がじわりと膨らんだ。 (……私にも、もっとできることがあったら) ふと、思い出す。 契約――その言葉と、意味。 『身体を重ねることで、魔力を流し込む』 (ルードとなら……大丈夫な気がする) 力を制御できるようになれば、私も――ルードを守れるのかもしれない。 少しだけ迷いながら、紙と筆を手に取る。 焚き火の音だけが、静かに、夜に溶けていた。 ◇ エレナシアの筆が、迷いながらも紙の上を滑る。 『大事な話がある』 そう書かれた紙を差し出すときの彼女は、どこか意を決したような表情をしていた。 「……なんだよ、改まって」 その様子に、ルードも思わず姿勢を正す。 エレナシアは一つ呼吸を整えると、もう一度筆を走らせた。 『私と契約してほしい』 「……は?」 思った以上に間の抜けた声が漏れる。 一瞬、自分の目を疑った。 ……今、何を見せられた? 契約。 それは彼女の力を制御するための、唯一の手段。 ルードは、その理屈をとうに理解していた。 「……冗談、だろ」 ようやく絞り出せたのは、その一言だけだった。 だがエレナシアは、静かに、はっきりと首を振る。 『本気で言ってる』 その字は力強く、決意のようなものが滲んでいた。 冗談を言うタイプではないことは、最初からわかっていた。 (本気で……?) あまりに予想外すぎて、頭がくらくらする。 思わず体が反応しそうになるのを、理性で必死に抑え込んだ。 冗談じゃないなら、どういうつもりでこんなことを……? 「契約が何かって……お前が説明してくれただろ」 エレナシアは一瞬だけ間を置いて、こくんと頷く。 「わかってて、言ってんのか?」 恐る恐る聞く。 もし、すべて理解した上で言っているのだとしたら―― エレナシアは少しだけ目を伏せ、また筆を走らせた。 『……ルードに迷惑、かけたくない』 唇を噛みながら、そっと紙を差し出す。 (……ああ、そうか) 理解してしまった。 いや、知ってた。 わかってた。 ここ最近の彼女の様子を見ていれば、嫌でも気づく。 彼女は、ルードと対等であろうとしている。 武器を持ちたいと言い、傷を癒そうとした。 できることを、自分の手で成し遂げようとしている。 その延長線上にあるのが、今の提案だった。 「……お前がそんなこと、気にする必要はねぇよ」 冷静に言ったつもりだったが、思ったよりも声が低くなる。 「第一、契約以前に……そういうのは……」 毅然とした態度をとろうとすればするほど、語尾が弱くなる。 「……そういうこと、するの。嫌じゃねえのか」 エレナシアは少しきょとんとした顔をしたあと、筆を動かす。 『ルードなら、嫌じゃない』 「っ……」 即答だった。 だけど――この返事を、楽観的に受け取れるほど、ルードは単純じゃない。 (深く考えてねぇだけだ……) 『嫌じゃない』は、『したい』じゃない。 エレナシアのことが好きで、欲しくて仕方がなかったとしても―― 彼女が自分に向けている感情は、きっとそういう類のものじゃない。 それがわかっている以上、たとえ許されたとしても、受け入れるべきじゃない。 「嫌じゃないからいいってもんじゃねえだろ」 抑えつけるように、短く言い切った。 「よく考えてから言えよ、そういうことは」 「……じゃないと、俺だけが……」 口をつぐむ。 言えなかった。言わなかった。 エレナシアの肩が微かに揺れた。 胸の奥の熱が、妙にまとわりつく。 (……ダメだ) (これ以上、この話を続けたら、確実に冷静でいられない) 「……」 微かな物音がした。 瞬間、ルードは反射的に剣を抜く。 「……誰だ」 空気が、変わる。 焚き火の灯りがわずかに揺らぎ、夜の闇が深まる。 気配。 誰かが、この場所を探っている。 エレナシアも、それに気づいたのか弓を強く握る。 ――契約どころではない。 ルードは静かに剣を構え、気配を探った。 雪を踏みしめる音が、静寂の中に落ちた。 まるでずっとそこにいたかのような、違和感のない足音。 「……久しぶりだね、エレナシア」 静かに、それでいて妙に耳に残る声。 ルードは剣を構えながら、その気配の方へ鋭く目を向けた。 焚き火の向こう、雪の闇に溶けるようにして、一人の男が立っていた。 ◇ 夜の白に映える、黄金の髪。 月光を受けた碧い瞳が、静かに揺れる。 穏やかで、どこか余裕のある微笑―― まるで最初からそこにいたかのような、自然な佇まい。 エレナシアは、目を見開く。 (……まさか) 胸の奥がざわついた。 記憶のどこかに引っかかる面影。 でも、それは曖昧で、遠い。 「……覚えてる?」 男が、やわらかく微笑む。 「月明かりの下で、本を読んであげた夜のこと」 ――その言葉で、糸がつながる。 夜が怖かった幼い頃。 震える彼の手を引いていた日々。 優しく本を読み上げる、あの声。 胸の奥に、しまっていた名前が浮かび上がる。 (……シリウス?) エレナシアは、筆を握ったまま固まっていた。 目の前の男は、昔の彼とはあまりにも違って見える。 でも確かに、そこにあるのは―― 幼い頃、ただ一人の「ともだち」だったあの人の、面影だった。 ◇ 「シリウス、本ばっかり読んでないで、もっと外で遊ぼうよ!」 「……だって、本の方が楽しいんだもん」 森で見つけた果実を分け合い、夜になると、小さな明かりの下で彼が本を読んでくれる。 冒険譚や騎士物語、薬草学、そして──料理の本。 「シリウスって、本当に本が好きなんだね」 「うん」 シリウスは素直に頷く。 「読んでると、世界がどんどん広がっていく感じがするんだ」 妾腹と第一王女。 立場は違えど、どちらも王家の都合で生かされているに過ぎなかった。 互いにそれを、幼いながらに理解していた。 この世界で、自分たちは“選ばれた”わけじゃない。 ただ、必要だから残された存在なのだと。 彼も、自分も。 王族という名の鳥籠に飼われた、飛べない鳥に過ぎない。 美しい羽を持っていても、空へ放たれる日は来ない。 だからこそ―― 彼の声は、やさしかった。 静かで、穏やかで、眠る前に聞くと安心するような声。 「エレナシアも、早く文字を読めるようにならないとね」 シリウスがからかうように言えば、エレナシアはぷくりと頬を膨らませた。 「……だって、読めないんだもん」 「書くことはできるのに、変だよね」 不思議そうな顔でシリウスが言う。 「でも、いいの。読めなくて」 「シリウスが読んでくれるから」 そしてシリウスは、少しだけ照れたように笑った。 だけど―― (……本当にあの、シリウスなの?) 何かが。 あの頃のシリウスと、この男の間には、決定的な違いがある。 毎日のように一緒にいたのに。 ――あの日。 野盗に襲われ、力が暴走した日を境にぱったりと姿を見せなくなった。 最初のうちは、彼がどこで何をしているのか、考えることもあった。 けれど―― (……そんな余裕は、なかった) 喋ることも、感情を表に出すことも許されない日々。 ただ静かに、言われた通りにするしかなかった。 ――沈黙を守らなければならない。 ――決して、感情を揺らしてはならない。 それが、自分に課された「罰」だった。 そうしているうちに、いつしか彼のことを思い出すことも少なくなっていった。 (……でも) 忘れていたはずなのに―― 今、こうして目の前に現れた彼は、あの日のシリウスと同じ瞳をしていた。 ◇ 『……シリウス、なの?』 彼女の震える文字に、ルードの眉がぴくりと動いた。 その名前――どこかで聞いた覚えがある。 以前エレナシアが言っていた。 力のことを知っているのは、直系の王族と、数人の側近。 そして――シリウス。 (……じゃあ、こいつが?) なぜ今さら現れた? 城の手の者なのか、それとも別の意図か。 いずれにしろ、信用に値する要素は一つもなかった。 ルードは一歩、エレナシアの前へ出る。 冷たい空気を裂くように低く問う。 「……何の用だ」 金髪の男は、淡く微笑んだまま、まるで当然のことのように問い返す。 「……君こそ、彼女をどうするつもりなの?」 その言葉に、ルードの眉間がわずかに寄る。 「……どういう意味だ」 「君たちが一緒にいるのは、彼女の意志なの?」 シリウスの視線が、まっすぐにルードを射抜いた。 淡々とした声音なのに、逃げ道を許さない直球だった。 ルードの呼吸が、ほんの一瞬だけ止まる。 反論はできる。しかし“即答できない”という事実が、胸の奥をかすめた。 エレナシアは、微動だにしない。 ルードは苛立ちに舌を打つ。 「……それがお前になんの関係があるんだ」 一瞬、金色のまつげが揺れた。 そしてシリウスは、ごく自然な調子で言いかける。 「関係あるよ。だって僕は君の——」 その言葉が途切れた。 雪を踏みしめる音が、会話を断ち切る。 「あー……もう始まってる感じ?」 低く響く声が、夜の静寂を切り裂いた。 どこか気だるげでありながらも、妙に耳に残る落ち着いた声音。 ルードが反射的にそちらを睨むと、木々の間から2つの影が現れた。 青みがかった銀髪の男が、ゆるりと肩をすくめながら片手をポケットに突っ込んでいる。 その隣、ピンクがかった髪の少女が、静かに進み出た。 「エレナシア様。王城へ戻っていただきます」 「私たちは、エレナシア様を王城まで護衛するよう命じられています」 澄んだ声が、夜の闇に響いた。 その声音は、どこか透き通っていて芯があり、まるで剣のように鋭い。 (……王城?) 鋭いヘーゼルの瞳が、冷静にこちらを見据えている。 少女の手には細身のレイピアが握られていた。 (……くそ。今になって、ようやくか。しかもこのタイミングで) ルードが警戒を強めた瞬間、青銀の男が気楽そうに肩をすくめた。 「誘拐犯は一人って話だったんだけどな」 片手をポケットに突っ込んだまま、まるで状況を楽しむかのような表情だ。 「君たちは、王族直属の……」 「……えーっと、どちら様? 俺たちのこと知ってる感じ?」 青銀の男が言った瞬間、隣の少女がはっと目を見開いた。 「せ、先輩! 失礼ですよ!」 「リゼットの知り合い?」 「王族の血を引く方ですよ。呼び方には気をつけてください」 少女――リゼットは慌てて頭を下げ、金髪の男へ向き直った。 「シリウス様、部下の非礼をお許しください」 「部下って……まぁ間違っちゃいないけどさ……」 (……王族直属の護衛に、王族そのものだと……?) (だが、一緒に来た様子じゃない) 青銀の男とシリウスは初対面同士のようだ。 ならば、どういう指揮系統でここに現れたのか。 考えがまとまる前に、シリウスが静かに息をついた。 「……とうとう、動き出したんだね」 その声音は、覚悟とも諦観ともつかない。 意味深すぎて、逆にルードには理解できなかった。 リゼットがシリウスへ鋭い視線を向ける。 「私たちは王太子殿下の命により、ここに来ています」 「無礼を承知でお伺いしますが……あなたはなぜ、ここに?」 青銀の男が「おいおい」とでも言いたげに目を細めるが、 リゼットの緊張は解けない。 ルードは、三人の間に走る微妙な空気をひたすら観察する。 (……こいつら、“仲間同士”じゃねぇな) なら都合がいい。 混乱している今こそ、逃げ道がつくれる。 (森の縁まで下がれれば……あとはやりようがある) エレナシアの手をそっと引こうとした瞬間。 「……おっと、これからが本題だってのに、どこ行くんだ?」 青銀の男が軽く声を上げた。 気づかれた。ルードの足がわずかに止まる。 その隙に、二人は一斉に武器を構えた。 リゼットもレイピアを抜き、月光が刃に反射する。 逃走の目は、ひとまず潰えた。 「黒髪に、琥珀の瞳……」 リゼットが静かに、しかし研ぎ澄まされた視線でルードを見据える。 「裏ルートで入手した情報と一致しています。あなたが——王女に似た人物を連れまわしていると」 ルードは舌打ちを堪えた。 「……まさか、こんな子供だとは思いませんでしたが」 その言葉に、ルードの眉がひくりと動いた。 エレナシアが、かすかに身を縮める。 「自分のやっていることが、どれほどのことかわかっているのですか?」 責めるというより、冷静な確認。 けれど、それが余計に癇に障った。 「武器を捨ててください。素直に王女を引き渡せば——」 リゼットが一歩踏み込み、鋭く言い放つ。 「極刑は免れるかもしれませんよ」 その言葉が落ちた瞬間、ルードの内側で何かがきしんだ。 (……クソが) 低い息とともに、声が漏れる。 「うるせえな……」 同時に柄へ伸ばした指に力が入る。 その瞬間だった。 ふわり、と温い感触がルードの手首を押さえた。 掴むのでも、引くのでもない。 まるで「動かないで」と言うように、はっきりと力がこもっていた。 エレナシアの細い指が、ルードの手首を押さえ込んでいる。 (……エレナシア?) 振り返ると、彼女は真っ直ぐにルードを見ていた。 怯えているようには見えない。ただ、必死に——止めていた。 剣を抜けば、不利なのはルードだとわかっている。 それだけじゃない。誰も傷つけてほしくないという、真っすぐな拒絶。 その目に射抜かれて、ルードの呼吸が一つ止まった。 柄を握る指が、わずかに力を緩める。 リゼットはそのやり取りを見ていたが、冷静なままだった。 ただし、わずかに目を細める。 雪を踏むような静かな音を立てて、エレナシアが筆を動かした。 『私は王城には戻らない』 たった一行。 それだけなのに、空気が変わった。 ルードは息を呑んだ。 隣で、シリウスがかすかに揺らいだのがわかる。 リゼットも青銀の男も、ほんの一瞬だけ動きを止めた。 なぜ。 その問いが、全員の胸に浮かんだのがわかる。 理由を求めたくなる言葉だった。 けれど誰も、口には出さなかった。 出せなかった。 その沈黙には、ただ拒絶だけではない、もっと深いものがあった。 ルードは、エレナシアの横顔を見る。 ふるえていない。 ただまっすぐに前を見ている。 誰も触れられない、触れてはいけない沈黙が、辺りを覆った。 重たい沈黙を破ったのは、シリウスだった。 「……僕は君を王城に連れ戻すために来たわけじゃないよ」 静かに、しかし確信を持つ声音。 エレナシアがわずかに眉を寄せる。 ルードは聞き間違いかと思い、シリウスを睨んだ。 「僕がここに来た理由は——君を自由にするため」 (……は?) 自由? 何を言っているのか、理解が追いつかない。 エレナシアも戸惑ったようにシリウスを見た。 その隙間に、張りつめた声が差し込む。 「……待ってください」 リゼットが一歩前へ出た。 背筋はまっすぐで、職務による緊張が滲んでいる。 「私たちの目的はエレナシア様を王城にお戻しすることです」 「シリウス様が異なる目的でこの場におられるのなら……たとえ王族であろうと、捨て置けません」 シリウスはリゼットに視線を向けた。 微笑みは消えないが、瞳の奥に静かな冷たさが宿る。 「……君たちは知っているの?」 その問いに、リゼットの肩がぴくりと揺れた。 「エレナシアが……王城でどんな扱いを受けていたか」 雪明かりの中、空気がさらに張りつめた。 ルードは心臓が跳ねるのを感じる。 エレナシアは、息をするのも忘れたように動かない。 「……それは、どういう意味ですか?」 リゼットが怪訝な表情で聞き返す。 その時だった。 「……待て。誰か来る」 青銀の男が顔を上げる。 (まだ増えるのかよ……) ルードは思わずエレナシアの前へ半歩出て、庇う構えをとった。 雪明かりの向こうから、ゆっくりと影が近づいてくる。 深い藍色のドレス――夜そのもののような佇まいの少女。 白い素肌と赤い瞳が、異様なほど静かに浮かび上がっていた。 「シリウス。話は終わった?」 淡々とした声。 感情が読み取れず、ただ“そこにある”声。 シリウスは軽く振り返り、曖昧に笑う。 「……今日は結論が出ないみたいだ」 「そう」 その一言に感情の揺れはない。 シリウスはエレナシアへ視線を向ける。 「エレナシア。次に会うときに、君の“本当の気持ち”を聞かせて」 エレナシアの指先がわずかに震えた。 立ち去ろうとしたシリウスを、リゼットが鋭く呼び止めた。 「まだ話は終わっていません!」 レイピアを握り直し、一歩踏み出す。 その瞬間、藍色の少女の瞳が、ふっと細められた。 赤い光が、炎ではなく脈動のように揺れる。 次いで――風が、逆流した。 雪がふわりと浮き、重力を忘れたように舞い上がる。 森の空気そのものがざわりと震え、肌を刺すような圧が広がった。 (……なんだ、この感じ) 魔法ではない。 けれど、ただの風とも違う。 どこかで―― (……似てる。誰かの……どこかで……) 脳裏に、あの夜がよぎる。 空気が膨らみ、弾け、世界が揺らいだ感触。 (……エレナシアの力と、同じ?) 思い当たった瞬間、胸の奥がざわりと反応した。 「──ッ!」 リゼットが反応するより早く、青銀の男が彼女を抱え込んで地面へ伏せる。 直後、二人のすぐ頭上を、荒れ狂う突風が薙いだ。 木々が唸り、雪が白煙のように巻き上がる。 ただの風ではない。 “力”の奔流だ。 ルードの呼吸が、一瞬止まった。 思考を挟むより早く、シリウスが短く声を投げた。 「行こう、イザベル」 「うん」 ふたりの姿は、夜の中へ吸い込まれるように掻き消えた。 残ったのは足跡と、かすかな熱の残滓だけ。 ルードは、その一瞬の隙を逃さなかった。 (今だ――!) 魔力の風がまだ渦巻く中、ルードはエレナシアの手を強く握る。 「行くぞ!」 エレナシアは迷わず頷き、ルードに引かれるまま雪道へ踏み出す。 冷えた空気が、二人の身体を切り裂くように流れた。 背後で、リゼットの怒声が震え混じりに響く。 「待ちなさい!!」 だが魔力の余波がまだ残る中では、追撃はすぐには不可能だった。 二人の姿は、闇の中へ溶け込むように消えていく。 ◇  荒れ狂っていた風が、嘘みたいに静まっていく。  巻き上がっていた雪も、ゆっくりと重力を思い出したように地面へ落ちた。 「……逃げられちまったな」  雪を払って立ち上がりながら、レイヴンがぼそりと呟く。  彼のの視線は、森の奥へと伸びる足跡を淡々と追っていた。 「すみませんでした……」  リゼットは唇を噛みしめ、レイピアを握る指に力を込める。 「今回の任務、いきなり取りこぼしましたね」 「相手が悪かった、ってことで勘弁してもらおうぜ」  レイヴンは肩をすくめる。  さっき頭上をかすめた“あの風”を思い出し、内心でぞっとする。 「こっちが動く前に、向こうが一枚上手だった。あの金髪と、その隣の“何か”は、今の俺たちじゃ正面からやり合える相手じゃない」 「それでも……」  リゼットは視線を落とした。  雪の上には、三方向に散る足跡が残っている。ひとつはシリウスたち。もうひとつは、黒髪の男とエレナシア。  リゼットは、ふと目を細めた。 「……やっぱり、おかしいですよね」 「どこからどこまでの話だ?」 「全部です」  短く吐き出すように言って、レイピアの切っ先をそっと下ろす。 「私たちが受けた話では、エレナシア様は“誘拐”されたはずでした。  王女を連れ去った男がいる、と。だから、私はてっきり……」  もっと乱暴に扱われていると思っていた。 「けれど実際には、拘束もされていませんでした。  あの方は、はっきりと『王城には戻らない』と書かれた」  そこで、リゼットの声が一瞬だけ揺れる。 「昔は、普通にお話しされていたんです。  ご挨拶程度ですけど、ちゃんと声を聞いたことがある。なのに……」  疑問が、胸の奥にひっかかったまま離れない。 「それに」  リゼットは顔を上げ、森の闇を睨む。 「あの黒髪の男。あれが“誘拐犯”だと情報は受けていましたが」 「ああ」 「……“被害者と加害者”には見えませんでした」  魔力の風が吹き荒れる直前、エレナシアの前へと半歩出た黒髪の背中。  その姿が、脳裏に焼き付いて離れない。 「同意」  レイヴンはあっさりと頷く。 「むしろ、こっちが悪役みたいだったよな?」 「……先輩」 「悪かったって」  軽く手を振りながらも、レイヴンの目は真面目だ。 「もう一つ、おかしいところがあります」  リゼットは小さく息を吸った。 「シリウス様です」  名前を口にした途端、空気が少し重くなる。 「上からは“王女をお連れしろ”とだけ。 細かい事情は伏せられていましたが、少なくとも城に戻すのが前提のはずでした」  けれど――。 「さきほどのシリウス様は、『自由にするために来た』とおっしゃった。 エレナシア様が城でどんな扱いを受けていたか、私たちに問うような言い方までしていました」 「別の目的で動いてる、ってことか」  レイヴンは短くまとめる。 「命令を出してる連中と、金髪の王族様。 そこに、誘拐犯とエレナシア様。やってることがバラバラだな」 「はい」  リゼットは短く相槌を打つ。 「ここから王都に戻って報告していたら、その間に、全部動いてしまいます」  父の言葉が脳裏によぎる。 「“報告して指示を仰ぐ”猶予は、ないと思います。 私たちが決めるしかありません」 「現場判断ってやつだな」  レイヴンは、二つの足跡を見比べた。 「情報が足りてないのは、二方向。 一つは、エレナシア様と誘拐犯。もう一つは、シリウス様」  リゼットは静かに頷く。 「つまり――」 「二手に分かれたほうが早い、ってことだ」  レイヴンはあっさりと言い、二組の足跡へ視線を流す。 「エレナシア様とあの男はそう遠くまでは行けないだろ」 「……そうですね」  リゼットは小さく息を吐き、短く考えてから顔を上げる。 「では、私がエレナシア様と、あの男を追います。 二人が"どう言った関係"なのかを見てきます」 「了解。じゃあ、残りのほうは俺がやる」  レイヴンは、シリウスたちの消えた方角へ顎をしゃくる。 「シリウスとやらの足取りと、使いそうな伝手を洗う」 「伝手、ですか」 「王族筋の男が動くなら、痕跡がまるで残らないってことはないだろ。屋敷でも別邸でも、使ってる場所があるはずだ」  リゼットはほんの少しだけ考え、それから手袋越しに指先へ触れた。 「……本当は嫌なんですけどね」 「ん?」 「先輩は特別です。今回だけですよ」  そう言って外したのは、リゼットの実家の家紋が刻まれた印章指輪だった。  レイヴンが目を瞬く。 「へえ。ずいぶん信用されてる」 「変なところで使ったら、あとで返してもらいますから」 「怖っ」  軽口とは裏腹に、受け取る手つきだけは妙に丁寧だった。 「それがあれば、閉じた口も少しは開くでしょう。ちょっとしたお偉いさん程度であれば、ですが」 「じゃあ遠慮なく借りるよ、お嬢様」 「……任せましたよ、先輩。どちらの情報もなければ、上に報告のしようがありませんから」  リゼットはレイピアを鞘に収め、マントの端を整えた。 「……エレナシア様。状況を把握したうえで、必ずお迎えに上がります」  小さく呟き、足跡に向き直る。 「じゃ、またどこかで合流な」  レイヴンはそれだけ言うと、反対側の足跡へと歩き出した。