第26話 衝動、君を穢しきれない雪
白銀の大地に、黒い影が跳ねた。
「っ……下がれ!」
ルードの声と同時に、雪を割って棘が突き刺さる。
数本の鋭い針が、エレナシアの足元をかすめた。
間一髪だった。
彼女は咄嗟に身を沈め、すぐさま弓を構える。
木の上――いや、動いた。
棘猿。背中に鋭い棘をまとい、四足で素早く雪原を跳ね回る魔獣。その動きはあまりに速い。
ルードは剣を抜き、エレナシアをかばうように前へ出る。
「弓で牽制してくれ。こっちに来たら、俺が斬る」
エレナシアは短く頷き、矢をつがえた。
狙いを定める暇はない。視界の端で棘が弾ける。
木の陰から別の個体が顔を出した――二体いる。
ルードは足元の雪を踏みしめ、素早く距離を詰めた。
棘猿の一体が跳躍し、頭上から爪を振り下ろす。
ギリギリで剣を振るい、刃が骨を打つ鈍い感触とともに体を弾き飛ばした。
しかし、もう一体が回り込む。
狙いは――エレナシア。
「っ……!」
彼女が矢を構えるより早く、鋭い棘が飛ぶ。
視界に黒い影が飛び込んだ。
次の瞬間、ルードが彼女の前に割って入る。
ざくり、と肉を裂く音が、雪の静寂を濡らす。
ルードの右脇腹に、棘が深く突き刺さった。
エレナシアが目を見開く。
けれど彼は、顔をしかめる間もなく剣を振り上げた。
飛びかかってきた棘猿を、ルードは真正面から迎え撃った。
剣を低く構え、敵の動きに合わせて重心を滑らせる。
棘猿の爪が横薙ぎに振るわれたその瞬間。
「――遅ぇよ」
低く呟き、体を捻りながら一閃。
鋼の刃が弧を描き、棘猿の喉元を切り裂いた。
振り下ろされた爪は空を裂き、魔獣の巨体が慣性のまま横に崩れ落ちる。
残った一体が怯え、雪を蹴って背を向ける。
その動きに合わせて、エレナシアの弓が唸った。
風を裂いた矢が、正確に魔獣の後脚を貫く。
動きを止めたその一瞬――
ルードの影が、雪原を駆けた。
抜けるような踏み込みから、斬撃が縦一文字に振り下ろされる。
棘猿の背を裂き、最後の魔獣が絶命した。
ルードは剣を納め、振り返る。
エレナシアがじっと彼を見ていた。
右脇腹――服の隙間から、赤が滲んでいる。
彼は視線に気づき、わざと肩をすくめるように笑ってみせた。
「なんともねぇよ。……かすっただけだ」
そう言って、さりげなく腕を動かす。
エレナシアの瞳は、それでも離れなかった。
彼女はそっと筆を取り、紙に何かを書きかけて――
止めた。
雪の中、黙って並ぶ二人の肩に、ひらひらと雪片が舞い降りた。
◇
昼間の雪が溶け残る足元は湿っていて、冷気がじわじわと膝へ昇ってくる。
けれどエレナシアは、そこから目を逸らさなかった。
――彼の背中を、見ていた。
ルードは黙って火の前にしゃがみ、手早く携行食を分けていた。
干し肉と、黒パンと、固いチーズ。今日もほとんど休まずに動いていたのに。
彼は自分の分を後回しにして、当たり前のようにエレナシアのほうへ差し出す。
「ほら、食っとけ。冷える前にな」
その手は少し赤く、指先はかすかに震えていた。
エレナシアは、一度だけ筆を取るが、すぐに戻した。
(……なんで)
いつもそうだ。
戦ったあとも、歩き続けたあとも。
ルードは、自分がどれだけ疲れていても、痛くても、弱音を吐かない。
それどころか、エレナシアのことばかりを気にかけてくる。
彼はそっと自分の外套を肩から脱ぎ、迷いもなくエレナシアにかけた。
その動作に一切の溜めはない。
その慣れた手つきが余計に刺さる。
「寒いだろ。風、背中から当たるからな」
言いながら、焚き火を挟んで反対側に座る。
雪解けで濡れている、石の混じった地面の上。
どう見ても、そっちのほうが冷たい。
彼はそれにも気づいているはずなのに、当たり前のようにそこへ腰を下ろした。
(まただ……)
今日だけじゃない。
いつも、そうして自分のことは後回しにする。
(私のほうが無事だったのに)
(私、何もできてない)
筆を取って何か書こうとしたが、手が動かない。
代わりに、ただルードを見つめる。
その横顔は、何も気にしていないふうを装っていたけれど――
ルードが立ち上がり、着替えを取り出す。
エレナシアは視線を逸らし、膝の上で毛布を直すふりをした。
しかしふと、動きが止まる。
服を脱いだ彼の脇腹――
赤黒い痣と、棘の刺さった痕がはっきりと残っている。
傷は、思っていたより深かった。
(かすり傷、なんかじゃ……)
エレナシアは、そっと一歩だけ近づいた。
筆談なんて、もう意味がない気がして――ただ、手を伸ばした。
触れるつもりだった。
ほんの少しでも、彼のことを理解したくて。
けれど――
「っ……」
ルードの肩がびくりと震えた。
触れる寸前で、彼の体がわずかに後ろへ引かれる。
その一瞬の反応に、エレナシアの動きも止まった。
(……なんで?)
目を合わせようとする。
でも彼は、どこか焦ったように視線を逸らしていた。
(……触れられるの、嫌だった?)
そんな言葉が頭をよぎる。
筆を取り、何か言おうとして――やっぱり書けなかった。
手が震えて、紙がにじんで、目の奥が熱くなっていく。
涙なんて、見せたくなかったのに。
「……泣いてんのか?」
ルードの声が落ちてきた。
その響きは、妙にやさしくて、でもどこか困っていて――
だから余計に、涙を止められなかった。
エレナシアは、視線を上げることなく、
肩をすぼめて、くるりと背を向けた。
ぷい、と。拗ねたように。
(……泣いてない)
そう言いたくて、言葉が出せなくて、ただ背中で伝えた。
また何もできなくて。
また守られて。
また、彼に触れられなかった自分が、悔しかった。
◇
「……泣いてんのか?」
そう問いかけたとき、彼女は何も言わなかった。
声が出せないのは分かってる。でも、それだけじゃない。
返事をする代わりに、エレナシアはくるりと背を向けた。
そんなふうに背を向けられると、拒絶されてるみたいで胸がちくりと痛む。
そのときだった。
彼女が、ゆっくりと紙と筆を取り出す。
手の動きは少しぎこちなくて、でもまっすぐだった。
『泣いてない。怒ってるの』
たったそれだけ。
けれどその一言が、まるで胸のど真ん中に突き刺さる。
(……嘘つけよ)
ルードは、そっと背中越しに彼女の横顔を覗き込む。
ぷくっとふくらませた頬。
強がるみたいに口をへの字にして、筆を握った手はわずかに震えている。
そして――
その目尻には、確かに涙のしずくがにじんでいた。
(……)
胸の奥に、何かがぶわっと広がった。
可愛い、って思った。
ほんとに、どうしようもないくらい。
(……俺のために、こんな顔してんのか)
(泣いて、怒って、拗ねて、――俺のこと考えて)
視界が揺れる。
「ごめん」
そう言いたいのに、喉が詰まって声にならなかった。
「かわいい」
それも言えなかった。口に出したら、崩れてしまいそうで。
「……愛しい」
その言葉だけが、心の奥に何度も何度も響いた。
たまらなくなって、そっと手を伸ばした。
迷いながら、震える指先で――
彼女の細い肩に、そっと触れる。
それでも彼女は振り返らない。
だから、背中ごと、胸に引き寄せた。
ぎゅっと、包み込むように。
抱きしめた腕の中で、彼女の体がぴくりと揺れた。
ほんの一瞬、硬直する気配がある。
けれど――
逃げなかった。
抵抗も、拒否もなかった。
「……ごめん」
その一言だけが、ようやくこぼれ落ちた。
代わりに、彼女はそっと小さく息を吸い、胸の前でぎゅっと自分の手を握りしめた。
そして少しして、彼女の背中が、ゆるくルードに寄りかかる。
あたたかくて、頼りなくて、けれど絶対に守りたいと思った。
細い背を抱き寄せた腕の中で、彼女の体が小さく震える。
それが何を意味するのかは、わからなかった。
ぬくもりが、直接伝わってくる。
服越しじゃなくて、肌に近いところから。
体の熱、呼吸のリズム、鼓動。
それが全部、背中越しに、静かに、自分の胸に重なっている。
ほんのりと香る、淡くて優しい、彼女の匂い。
髪が少しだけルードの顎に触れ、ふわりと揺れた。
息が当たる。
腕にかかる吐息が、くすぐったい。
ぞくりと背筋が震える。
この距離じゃ、表情は見えない。
でも、それが余計に想像をかき立てた。
(どんな顔してんだろ、今……)
拗ねたまま、涙ぐんでるのか。
それとも、自分の腕の中にいることを、受け入れてくれてるのか。
考えるたび、心臓がうるさいくらいに鳴っていた。
気づけば、喉が乾いていた。
頭のどこかで、「ダメだ」と警告が鳴ってるのに、目の前には彼女のうなじと髪と、ぬくもりしかなかった。
(もし、今振り向かれたら――たぶん、俺は止まれない)
自覚した瞬間、血の気が引いた。
(……馬鹿か、俺)
彼女が、どう思ってるかなんて、わからない。
甘えてくれてるわけじゃない。
求められてるわけでも、たぶん――ない。
だから、今はこれ以上を望んじゃいけない。
「……っ」
小さく息を呑んで、腕の力をほんの少しだけ緩めた。
それでも、手のひらは彼女の肩のぬくもりを離せない。
(……これ以上、近づいたら壊しそうだ)
だから今は、ただ抱きしめる。
自分がもう少し、まともな男に戻れるまで。
背中越しにそっと目を閉じた。
彼女の体温だけを、頼りにして。
◇
彼女の呼吸は穏やかで、体の力もほんの少しだけ抜けていた。
(……やっと、落ち着いたか)
そう思って、彼女の肩を撫でたとき――
エレナシアが、そっと振り返ろうとした。
「……っ」
ルードは軽く肩を押さえる。
まだ顔は見たくなかった。
「もうちょっと、このままでいさせろ」
彼女は、一度だけ動きを止めた。
それから、静かに小さく頷いた気配がした。
そのまま、また数秒が流れる。
ふいに、彼女の手がルードの腕をそっと取った。
(……ん?)
彼女がそっと振り返る。
エレナシアは筆と紙を手にし、わずかに迷いながらも一言だけ綴った。
『傷、治す』
その一文字に、ルードの心臓が一瞬止まりかける。
「だめだ」
咄嗟に口をついて出た言葉は、彼女の指先より早かった。
彼女のほっぺが、ぷく、とまた膨らむ。
(……また怒ってる)
でも今度は、涙じゃなかった。
『だいじょうぶ』
二言目の文字は、さっきよりもまっすぐだった。
(ほんとかよ……)
正直、ルードにはわからない。
以前暴走したのが、あの力のせいだったのか、それとも別の何かだったのか。
ただ――
目の前にいる彼女は、今、自分の意思でこの力を使おうとしている。
それを、また否定するのは――たぶん、ちがう。
「……無理は、すんなよ」
観念するようにそう言うと、彼女は小さく笑った気がした。
そのまま、エレナシアはそっと、彼の脇腹に手を当てる。
ゆるやかな、でも確かな光が、彼女の手のひらから広がって――
それはまるで、月明かりのように静かで優しいものだった。
傷が癒えていく感覚よりも、彼女の想いが、肌を通して染み込んでくるようだった。
(この力……前は、もっと違って見えた)
(あの時は、ただ――得体が知れなくて、ちょっと怖くて)
(……でも今は、なんでだろうな)
(こんなにも、優しく感じる)
そう思ったとき、ルードはようやく気づく。
“癒やしてもらう”ということは、“想われている”ということだと。
言葉が、出なかった。
ただ、彼女の手のひらから伝わる光とぬくもりに、心まで癒やされていくのを感じていた。