第25話 獅子の囁き、翔けるは狐狸と鴉
重苦しい空気が、会議室を支配していた。
「……いつまで、沈黙を続けるおつもりですか!」
声を荒らげたのは、老練な貴族の一人だった。
会議のたびに冷静な姿勢を崩さないことで知られる彼が、机を叩いて立ち上がる姿は異様だった。
「第一王女が攫われて久しいというのに、王宮は何一つ声明を出していない!」
「これでは他国に“弱腰”と思われても仕方ありませんぞ!」
「仮に彼女が国外へ渡った場合、力の制御が不可能であればなおさら――。」
「各国にとって脅威です。これは国家の体面にも関わる問題です」
「誘拐の現場で、目撃証言の一つもなかったのか?」
重ねられる怒声。
しかし、そのすべてをやわらかく断ち切ったのは、誰よりも静かな声だった。
「……持て余すだけですよ」
「仮に彼女が他国に渡ったとしても、力の制御方法を知らなければ、何の意味もありません」
会議室の隅に座していた少年が、茶を口に運びながら何気なくそう言った。
エルセリオ王子。
まだ幼さの残る顔立ちに、侮れないほど整った所作。
彼の言葉に誰も反論せず、ただ沈黙が落ちた。
会議室の片隅で、静かにティーカップを見つめていたのは――
穏健派貴族のひとり、ロイ侯だった。
ロイは、しばし黙したまま茶の湯気を見つめていた。
やがてゆっくりと口を開く。
「……王子殿下。ひとつ、確認してもよろしいでしょうか」
エルセリオが、目線だけをこちらに向けた。
「第一王女――エレナシア殿は、確か“療養中”と伺っておりましたが」
「……これは、虚偽だったということですか?」
室内の空気が、ぴたりと止まる。
エルセリオは、わずかに微笑んだ。
「――そういうことになりますね」
ロイは、間を置かず言葉を重ねた。
「それほどの事実を、なぜ王族と限られた関係者のみで留めていたのですか」
「国家の秩序に関わる事柄であれば、しかるべき立場の者たちには知らされるべきでは?」
声の調子を変えることなく、ロイは問いかける。
事実を問うというより、手続きの正当性を問う。
理の人として、当然の疑問だった。
エルセリオは茶をひと口含み、静かに答える。
「火種になりかねませんから」
その声には、弁明の色も、後悔の影もなかった。
それが“真実”なのか、それとも“演出”なのか。
彼の声色は、誰にも判別できなかった。
しかも、まるでその“火”を愛でていたかのような声音で。
「ですが……」
と、彼は少し首を傾けた。
窓の外へ視線を滑らせながら、柔らかく続ける。
「そろそろ、動き出す時期なのかもしれませんね」
一瞬、場にざわめきが走る。
「ロイ侯――」
静かに、しかし確実に。
エルセリオの声が、もう一度空気を凍らせた。
「第一近衛隊隊長は、あなたの娘君でしたよね?」
ロイの眉がわずかに動く。
「……雪を見に行く、なんていうのも。悪くないのではないでしょうか」
「このあたりでは、なかなか見られませんからね」
誰も、言葉を返さなかった。
ただ、ロイ侯の手が、無意識のうちに膝の上で強く握られていた。
◇
重厚な扉が閉まる音が、静かな執務室に響いた。
部屋に入ってきたのは、まっすぐな背筋を保った若い騎士だった。
肩まで伸びた淡いピンク色の髪が揺れ、光を受けてほのかに輝いている。
脚には動きやすいブーツ、腰には細剣――
軽装の騎士服を身にまといながらも、どこか育ちの良さを滲ませている。
鋭さと品位を併せ持つヘーゼルの瞳が、真正面からロイを見据える。
ロイは机の前に立つ娘に、視線だけを向ける。
その表情に、父としての情は見えなかった。
あくまで――上司としての、それだった。
「命令だ」
その一言の重さを、リゼットは理解していた。
父が、ではない。“ロイ侯”が伝えているのだということを。
「第一王女――エレナシア殿の奪還。北の雪原地帯に潜伏しているという情報が入った」
「すでに動きは決定されている。貴女には、先遣隊の指揮を任せる」
「……かしこまりました」
リゼットは一礼する。
だがすぐには顔を上げなかった。
迷いではない。ただ、ほんのわずかに呼吸を整えただけ。
やがて彼女は目を開き、真正面から父を見た。
「……嫌な予感がする。何事もなければいいがな」
ロイが先程よりも少し低いトーンで言った。
「くれぐれも……油断するなよ」
けれどその言葉には、上司ではなく、父親としての気配が微かに滲んでいた。
リゼットの唇が、わずかに歪む。
「それは、“上司”としての忠告ですか?」
ロイは答えなかった。
一瞬だけ目を伏せ、口元に皮肉を滲ませた笑みを浮かべる。
「であれば――仰せのままに」
きびすを返した彼女の背中に、声はかけられなかった。
扉が閉まりかける直前、ロイの指先がわずかに動いたが、それを止めるだけの言葉は、やはり出てこなかった。
◇
屋敷の外は、うっすらと曇っていた。
石畳を踏みしめる音に紛れて、風が旗を揺らしている。
門の影に寄りかかるようにして立っていたのは、ひときわ軽やかな雰囲気をまとった青年だった。
「……先輩。なんで外で待ってるんですか?」
リゼットが歩み寄りながら声をかける。
「先輩も、呼び出されてましたよね?」
銀に近い青みがかった髪が風に揺れる。
額を大胆に見せた前髪の分け目から、涼しげなターコイズブルーの瞳が覗いていた。
細身の身体に巻かれたスカーフとベルト、軽装ながらもどこか洒落た佇まい。
一見して軽薄そうにも見えるが、その目の奥はどこまでも静かだった。
「いや~……俺、あの人苦手なんだよなあ」
レイヴンは肩をすくめた。
「っていうか、多分嫌われてる。お前の“お父様”に」
「まあ、そうでしょうね」
リゼットはあっさりと言い切った。
「先輩みたいに、チャラチャラしたタイプは特に」
「その言い方は傷つくなぁ……」
軽く苦笑してみせるレイヴン。
だがその口元には、いつものような軽薄さはなかった。
「さて――仕事ですよ、先輩」
リゼットは一度だけ、夜空を仰ぐように見上げ、それからまっすぐに彼を見た。
「王女奪還任務です。抜け目のない任務指揮、お願いしますね」
「……しばらく昼寝する暇はなさそうだな」
レイヴンはぼやきながらも、踵を返す。
その背に並ぶように、リゼットも歩き出した。
リゼットは、ふと視線を遠くに向けた。
ほんの一瞬——父の執務室で押し込めていた“嫌なざわつき”が、胸の内側でふくらむ。
「……ねえ、先輩」
レイヴンが振り返る。
「第一王女って、昔は普通に行事に出てましたよね。式典でも、祝賀でも」
「そういや……そうだったな」
「でも……ある時期から、ぱったりと姿を見なくなった」
言いきってから、言葉を飲み込むようにリゼットは目を伏せた。
「“病弱”“療養中”——そんな噂だけが広がって。
なのに、正式な告知は一度もなかった。
王族の子女の話題としては……不自然なくらいに」
レイヴンは鼻を鳴らすだけで、特に相槌を返さない。
リゼットは続けた。
「……それに、行方不明なんて大ごとなのに、私と先輩だけで出立って、変じゃありません?」
「まあ……本来なら隊を動かす案件だよな」
「ええ。なのに“先遣隊を二人だけ”っていうのは……どう考えても、普通じゃない」
そこでリゼットは言葉を切った。
言ってしまえば、ただの疑念だ。証拠はどこにもない。
けれど、その小さな引っかかりは、
まるで靴の中の小石のように、歩くたび存在を主張してくる。
「……きな臭いですよね、この任務」
レイヴンは少しだけ眉を上げた。
「そう思うんなら、余計に気をつけないとな」
その声音は軽いようでいて、どこか真剣だった。