第24話 抜き慣れた剣と、恋に惑う少年
雪の舞う静かな朝。
あずまやの下で、ルードは黙って腰を下ろしていた。
その隣に、そっと並ぶようにしてエレナシアも腰を下ろす。
肩が触れるか触れないか――そんな距離。
ルードの顔は、いつもよりほんの少しだけ険しかった。
目の奥に宿る影。言葉にはならない何かが、ずっと彼の中で渦を巻いている。
エレナシアは迷いながらも紙と筆を取り出し、静かに綴る。
『……話してくれる?』
すぐには返事がなかった。
焚き火もないあずまやの下で、彼の吐く息だけが白く曇って見える。
やがて、低い声が返ってくる。
「……ガキの頃、世話になったやつがいた」
ルードは前を向いたまま、雪に覆われた地面を見つめていた。
その瞳は、どこか遠くを見ているようだった。
「別に親でもなんでもねぇ。ただの、気まぐれな中年男だよ」
「勝手に拾われて、勝手に剣を教えられて、で――ある日、勝手にいなくなった」
(勝手に……)
その言葉が、どこか痛々しく響いた。
自分でも気づかないうちに、何かを期待していた証のように思えて。
「飯なんて用意してくれるわけもないから、自分でなんとかした」
「寝床も、自分で探さなきゃだめだった」
「風邪ひいたって、“これで死ぬならその程度だ”って、ほっとかれてた」
ルードの手が、わずかに拳を握った。
それは、無意識の動作のようで――けれど、その拳の奥にあるものは、隠しきれなかった。
「ずっと……別に気にしてなかったつもりだった。……そう思ってたのに」
「……なのに、さっきそいつと再会して――」
彼は一度、言葉を切った。
「……なんか、腹が立ったんだよ。どうしようもなく」
「“いなくなった理由”を聞きたくなった自分に、な」
ルードの声が、ぽつりと続く。
「それまでのことは、あんまり思い出したくねぇんだけど……」
「……親には、どうでもいいって思われてたんだろうな」
ルードは雪の降りしきる闇を見つめたまま、淡々と言った。
感情を押し殺すような声なのに、その奥底の温度だけが痛いほど伝わってくる。
「だから……せめて妹だけはって。
あいつのことは……守んなきゃって、勝手に……そう思ってた」
言葉はそこで、一度途切れた。
「……けど」
その後に続くはずだったものを、彼は飲み込んだ。
喉が動いたが、音にはならない。
かすかに握られた拳が、真っ白な呼気の向こうで震える。
「……生きてるのか、死んでるのかも、わかんねぇんだ」
ひどく小さな声だった。
どこにも向けられていないようでいて、でも確かにエレナシアにだけ届く距離で紡がれていた。
「……そういうの、言葉にすんの……あんまり好きじゃねぇんだけどな」
それは照れでも反発でもなく、ただ“痛みを隠すための癖”に近いものだった。
「……でも、お前には……いいか、別に」
投げるような言い方なのに、
その裏にある“話してしまった理由”は、隠せていなかった。
風が吹く。小さな雪片が、彼の肩に積もる。
エレナシアはそっとその雪を払おうとして、手を伸ばしかけ――けれど、そのまま、彼の手に触れた。
痛みとも、呼びかけともつかないその響きが、ゆっくりと自分の記憶を掘り起こしていく。
迷うように筆を取る。
指先が小さく震えていた。
『……私にも、弟がいる』
一度そこで筆が止まった。
言葉を選ぶのに、呼吸ひとつぶんの時間が必要だった。
『お母様は、弟を産んですぐに亡くなったの』
筆先が、紙の上でかすかに揺れる。
その記憶に色はない。ただ、空白だけが残っていた。
『お父様は……“道具”としてしか見ていなかったと思う』
書きながら、自分の胸がわずかに冷えるのを感じた。
感情なのか、ただの癖なのか、それすら区別がつかない。
『弟とは、ほとんど話したことない』
『私に興味なんて、なかったと思う』
そこまで書くと、喉の奥がきゅっと締まった。
彼らの視線は自分をすり抜け、どこか遠くを見ていた──そんな感覚だけが鮮明に残っている。
筆を持つ手が、また一瞬だけ迷う。
『普通は"寂しい"って思うのかな?』
紙を差し出す前に、ほんのわずかためらった。
この言葉だけは、ずっと胸に閉じ込めるつもりでいたのに。
紙を差し出す。
ルードの視線が、そこに落ちるのを見て、胸の奥がそっと揺れた。
冷たいその手から、確かに熱が伝わってくる。
震えているその指に、何かを返したくなった。
言葉も、筆も使わずに――ただ、気持ちで。
ルードが小さく瞬く。
「……お前な、無意識にそういうことすんなよ」
文句を言いながらも、彼の声はどこか安心していた。
エレナシアは、筆を動かす。
『でも……触れたくなったの』
ルードは少しだけ黙って、それからふっと目を逸らす。
「……ったく。ずるいんだよ、お前は」
そう言って、またひとつだけ深く息を吐いた。
◇
町外れの林に足を踏み入れた頃、雪は少しだけ穏やかになっていた。
枝の上に積もった白が、空の灰色を柔らかく映している。
ルードは足を止め、肩から弓を外した。
「……少しだけ、練習しとくか」
エレナシアは静かに頷いた。
弓を受け取って構える――が、指先の力が思うように入らない。
何度引こうとしても、弦がかすれて音を立てるだけだった。
(……手が、冷たい)
うまく動かせない自分が情けなくて、つい下を向いた。
それを見たルードが、小さくため息をつく。
「手、貸せ」
そう言って、彼はエレナシアの手を両手で包み込んだ。
驚くほど温かかった。
氷のようになっていた指に、じんわりと熱が染み込んでくる。
(……あ)
心臓が、どくんと跳ねた。
思わず視線を上げたけれど、ルードは無言で彼女の手を見つめたまま、
その表情には、ただひたすら不器用な優しさが滲んでいた。
寒いから。きっとそれだけ。
そう思いたくて、エレナシアはそっと目を逸らす。
ルードはすぐに手を離したが、少しだけ長く指先に触れていた気がする。
「……ほら、もうちょいマシになったろ」
ぶっきらぼうな口調の中に、かすかに照れたような色が混じっていた。
エレナシアはこくりと頷きながら、胸の奥がほんのりと温まっていくのを感じた。
◇
宿の部屋に戻っても、ルードの胸の奥はざわついたままだった。
暖炉の火が静かに揺れている。
その光は赤く、ぬくもりも確かにある。
けれど――心の芯までは、まるで届かない。
(……気まぐれ、暇つぶし、関係ねぇ)
グレイルの声が頭の中で何度も反響する。
もう五年も経ってる。
けど、それでも簡単には消せなかった。
怒りなのか、哀しみなのか、未練なのか――どの感情にも名前がつかない。
指先が、無意識に耳へと伸びていた。
銀のピアスを、何度もなぞる。
落ち着かないときの、いつもの癖。
(……なんで今さら、あんな顔ひとつで)
昔よりも少しだけ広くなった背中が、あのときの自分を置いていった背中と重なる。
置いていったのに、忘れられなかった。
――こっちは、ずっと、あの人を。
視界の端で、何かが動いた気がした。
顔を上げると、エレナシアがこちらを見ていた。
まっすぐに。
深く、澄んだアメジストの瞳が、何もかも見透かしてくるようで――
ルードは、思わず視線を逸らした。
エレナシアは、そっと紙を取り出し、筆を走らせた。
『……だいじょうぶ?』
その問いに、少しだけ喉が詰まった。
こんなふうに気遣われることに、まだ慣れない。
「……別になんともねえよ」
そう言いながらも、自分でもわかるほど声が掠れていた。
誤魔化したつもりでも、全然うまくできていない。
そして――
エレナシアが、何も言わずに歩み寄ってきた。
足音も立てず、ただ静かに。
その小さな身体が、ふわりとルードの肩に寄り添ってきた。
一瞬、時間が止まったような感覚。
(……え)
柔らかな体温が、胸元に触れる。
細い腕が、そっと背中にまわされる。
まるで、包み込むように。
息が詰まる。
喉が、熱くなる。
全身がびくっと反応して、反射的に手が動きそうになったけど――
力は入らなかった。
拒めなかった。
いや、拒む理由なんてなかった。
(なんで……こんなこと)
驚きよりも先に、胸の奥に広がっていったのは、妙な安堵だった。
緩む。力が抜けていく。
さっきまで張り詰めていたものが、音もなくほどけていく。
静かすぎて怖い夜に、そっと毛布をかけられたみたいな――
そんな感覚。
(……あぁ)
こいつは、無自覚なんだろう。
何の含みもない。
でも――
(……そんな顔で、そんな風に寄り添ってくるなよ)
きっと今のエレナシアにとって、自分はただの“安心できる誰か”。
その優しさが、たまらなくうれしくて、たまらなく苦しかった。
エレナシアが、そっと身体を離す。
距離が戻っただけで、少し肌寒く感じた。
紙を取り出し、迷いながら筆を滑らせる。
『私も、ルードみたいに……誰かを守れるようになりたい』
ルードはその言葉を見つめたまま、何も言えなかった。
その文字が、まっすぐに胸を打ち抜いてくる。
心臓が、きゅっと軋む。
でも、どこか温かい。
「……らしくねぇな、お前」
かすれた声で呟くと、エレナシアは少しだけ首を傾げた。
意味を尋ねるでもなく、ただ静かに。
その静けさが、今は救いだった。
ほんの少しだけ、あのざわめきが静まった気がした。
◇
朝になっても、雪はまだ細かく舞っていた。
けれど風は弱く、昨日よりは幾分、静かな空気が流れている。
ルードは、窓の外をぼんやりと眺めながら、指先で暖炉の前に手をかざした。
燃え尽きかけた火が、赤くゆらゆらと揺れている。
部屋の中には、まだかすかに、昨日のぬくもりが残っていた。
(……あんとき、何も言えなかった)
グレイルの顔が、頭をよぎる。
言いたいことなんて山ほどあったはずなのに、あの場ではうまく出てこなかった。
(……だからって、逃げたままでいいのかよ)
そう思った瞬間、無意識に耳元のピアスを指でなぞる。
少しだけ指先が熱かった。
ベッドのほうで、かすかな気配が動いた。
振り返ると、エレナシアが目を覚ましたらしく、上体を起こしてこちらを見ていた。
少し寝ぼけたような瞳が、ルードをじっと見つめる。
「……起こしたか?」
エレナシアは小さく首を横に振ると、紙と筆を手に取って、さらさらと何かを書いた。
『どこか行くの?』
ルードはコートを肩に引っかけながら、軽く頷く。
「……もう一度、酒場に行く」
筆が止まる。
エレナシアは少し迷ったあと、紙を差し出した。
『……大丈夫なの?』
その短い言葉に、ルードの足がふっと止まる。
何が、とは書かれていない。
けれど、その筆致から――その瞳から、言いたいことは伝わってきた。
(……“あいつ”がまたいたら、ってことか)
ルードは、目を細める。
「……そんときはそんときだ」
エレナシアは、少しだけ唇を引き結んだあと、もう一枚紙に何かを書く。
『私も一緒に行く』
その文字を見て、ルードは小さく眉を動かした。
「……目立つなよ。顔、隠してろ」
エレナシアはこくんと頷き、フードを手に取った。
◇
昼前にも関わらず、酒場の中はざわついていた。
暖炉の熱と混ざるように、煙草と酒のにおいが充満している。
ルードは扉の前で足を止めると、隣に立つエレナシアをちらりと見た。
彼女のフードに、肩から滑り落ちた雪がいくつか残っている。
「……動くな」
ぽそりとそう言って、ルードは彼女の肩に手を伸ばした。
雪を軽く払ってから、手のひらでフードを整える。
それだけのことなのに、エレナシアの睫毛が少しだけ揺れるのが見えた。
ルードは扉を押し開けた瞬間、空気の重たさに眉をひそめた。
そして――耳に飛び込んできた、あのだるそうな低い声。
「……それで、依頼主のツラは見たのかって?ああ、見ちゃいねぇよ。だいたい裏の仕事なんざ――顔出すわけねぇだろ」
その声を聞いた途端、胸の奥がざらついた。
昨日とまったく同じ調子、同じ間の抜けた軽口。
聞き覚えのある、気の抜けた声。
声の主は、カウンター奥の暗がりで酒をあおっていた。
(……やっぱりいたか)
ルードは、わずかに目を細めた。
グレイルの背中は、自分たちには気づいていない様子だった。
そのまま空いているテーブルにつこうとしたとき――
「……おいおい、昔の恩人に挨拶もなしか?」
低く響く声が、店内に転がるように届いた。
ルードが振り返る前に、グレイルの視線が真っ直ぐにこちらに向けられていた。
酒のグラスを片手に、にやついた顔がそこにある。
「なんだよ。そっちのガキの顔が可愛すぎて、気づくのが遅れたじゃねぇか」
エレナシアの表情が、わずかに固まった。
ルードは、無言でその前に立つようにして一歩出た。
グレイルが面白がるように笑いながら、エレナシアに手を伸ばす。
「女連れなんて、偉くなったもんだな?」
――その瞬間、ルードの手が無言でグレイルの腕を掴んだ。
まるで反射のような速さだった。
力を込めたわけではない。だが、その指先には確かな“拒絶”がこもっている。
グレイルは眉をひとつ上げ、掴まれた自分の腕を見下ろす。
「なんか気に障ったか?」
少しだけ間を置いて――にやりと口角を上げる。
「……なるほどな。随分入れ込んでるみたいじゃねえか」
視線をすっとエレナシアに移し、じろじろとなめるように眺め回す。
「まだガキだが……将来は“上玉”になりそうだな。お前には、もったいねぇくらいの」
その瞬間、ルードの胸の奥が、ぐっと熱を持った。
けれど、まだ何も言わない。ただ、立っている。
「情は捨てろって、教えたはずなんだけどなぁ……?」
「お前、どこのタイミングで忘れちまったんだ?」
グレイルは、笑いながら酒をひと口あおる。
その態度が、ルードの怒りに油を注いでいく。
「女はな、金で買うもんだ。そんで済ませるからいいんだよ」
グレイルの声は相変わらず軽い。
だが、その一言が、ルードの中にある何かを確実に引っかいた。
拳を握りしめる。その指先が、わずかに震える。
火の粉が、ランプの灯りの下で静かに散った。
酒場の喧騒が、まるで遠のくように感じられる。
そして――
「……で、童貞卒業したのか?」
あまりにも軽く、無遠慮に。
グレイルがニヤついたその瞬間――
ルードの拳が、勢いよく振るわれた。
「おっと」
しかしグレイルは、わずかに頭を傾けてその拳を紙一重でかわす。
手に持っていた酒のグラスを軽く持ち替えるだけで、ほとんど身じろぎさえしなかった。
「おいおい、相変わらず挨拶が乱暴だな?」
カウンターの客が振り返る。空気がピンと張り詰める。
ルードは、低く息を吐いた。
「……テメェが、ふざけたこと言うからだろ」
グレイルは肩をすくめた。
「ふざけてなんかねぇさ。お前が、そういう顔してるから聞いただけだ」
ルードの拳はまだ下りていない。
エレナシアが、ルードの袖をもう一度そっと引いた。
その無言の訴えに、ルードはかろうじて歯を食いしばる。
だが、グレイルの顔から笑みは消えていなかった。
「――ま、いいさ。お前、今“情報”探してんだろ?」
ルードは一瞬だけ目を細めた。
だが、すぐに視線をそらして吐き捨てる。
「……関係ねえだろ」
「じゃあ、俺が“持ってる”って言ったら?」
ルードの眉がわずかに動いた。
(からかってるだけだ……)
わかってる。
それでも、ルードの中に、わずかな引っかかりが残る。
「まあ、タダで教える気もねえけどな」
その一言が、確かな“宣戦布告”だった。
グレイルは肩を回しながら、ゆっくりと立ち上がった。
マスターの冷たい声が飛ぶ。
「外でやれ。ここで暴れられちゃ、こっちも迷惑するんでね」
一瞬、沈黙。ルードは睨み返すだけで、何も言わなかった。
「……仕方ねぇ。表で、昔の教え子と語らせてもらうとするか」
その目は、今度は完全に“戦う目”になっていた。
◇
酒場の扉が、重たい音を立てて閉まる。
雪がちらつく昼の街路は、思ったよりも静かだった。
ルードは無言で歩き出す。
後ろから、エレナシアがついてくる気配がした。
ちらりと振り返ると、エレナシアは不安そうな顔をしていた。
口を開かず、ただこちらをじっと見つめてくる。
声にできない代わりに、彼女の目が「本当に戦うの?」と問いかけていた。
けれど、今のルードには応えられなかった。
ただ、視線をそらし、手袋越しに拳を握る。
数歩後ろを歩いていたエレナシアが、わずかに足を速めて並びかけてくる。
その動きに気づいたグレイルが、にやりと笑った。
「おいおい……止めてくれるのかと思ったぜ、そっちのお嬢ちゃんは」
「……」
ルードは立ち止まり、グレイルを正面から見据える。
足元にはうっすらと雪が積もり、白い息が空に消えていく。
「やるのか、ルード」
その声には、もう軽口ではない色が混じっていた。
「……今さら逃げる気はねえよ」
「へぇ、言うようになったじゃねぇか」
グレイルは肩をすくめて、ゆっくりと上着を脱ぐ。
中から現れたのは、革と布を組み合わせた軽装。
身体は昔と変わらず、いや、昔以上に鍛え上げられていた。
「ま、いいさ。今のお前が、どこまでやれるか――」
「試してやるよ」
風が、雪を巻き上げた。
その一瞬の隙に、ルードは踏み込んだ。
「――っ!」
抜きざまの一閃。剣がグレイルの肩口を狙う。
だが、グレイルはそれを待っていたかのように後ろへ引く。
ほんの数センチ。だが、そのわずかな距離でルードの刃は空を切る。
「遅い」
グレイルの声が、耳元で響いた。
反射的に身を引く。次の瞬間、肘が脇腹をかすめた。
(……速い!)
足場を崩さぬよう雪を蹴って飛び退く。
しかし、グレイルは追わない。ただ、片手を腰に添えながら笑っていた。
「まだ“怒り”で動いてるな、お前は」
「頭に血がのぼっちゃ、手元が甘くなるって、教えただろ?」
その言葉に、ルードの表情がわずかに揺れる。
けれど、すぐにその顔を引き締める。
「……うるせぇよ」
「言われなくても、わかってる」
「だったら――」
グレイルが、ぐっと踏み込んだ。
雪が飛び散り、地を蹴る音が鳴る。
ルードの身体に、全身の神経が集中した。
息を整える間もなく、再び踏み込む。
剣筋は鋭く、迷いはない。けれど――
「まだまだ、甘ぇな」
グレイルの声が風に混じる。
次の瞬間、視界がぶれる。
ルードの腹に、鋭い打撃が入っていた。
(……ッ!)
わずかに体勢を崩したその隙を、グレイルは見逃さない。
ルードの肩口に、拳がめり込んだ。
「ぐっ……!」
大きく後退し、雪を蹴って距離を取る。
呼吸が荒い。喉の奥が焼ける。
(くそ……)
全身の感覚が研ぎ澄まされているはずなのに、思考だけが鈍くなっていた。
怒りが邪魔をする。過去が邪魔をする。
「……どうした、もっと来いよ」
グレイルは、まだほとんど息すら上がっていない。
その余裕が、さらにルードの苛立ちを煽る。
(ふざけんな……)
(いつもそうだ。軽口ばっか叩いて……本気を出さねぇ)
ギリ、と奥歯を噛みしめる。
それでも足を止めるわけにはいかない。
もう一度、踏み込もうとしたその時だった。
――ひゅっ、と風を切る音が聞こえた。
続けざまに、視界の端で何かが動く。
「……!」
ルードが剣を構えるより早く、何かが彼の前に滑り込んだ。
雪を踏む小さな足音。
ルードの前に、ひとつの影が立ちはだかっていた。
銀色の髪が、風に舞う。
マントのフードは落ち、白い雪が肩に積もっていた。
「……っ」
(……エレナシア)
彼女は何も言わない。言えない。
ただ、静かに、彼の前に立っていた。
その瞳は、まっすぐにグレイルを見据えていた。
怯えているのに、それでも引かない。小さな背中が、ルードの前にある。
「……なるほど」
グレイルが、やれやれとばかりに息をついた。
「そういうことか」
ルードは、息を呑んだまま、言葉が出なかった。
(……なんで)
(なんで、そんなことするんだ)
エレナシアは、一歩も動かない。
手は震えていた。けれど、その姿勢だけは崩さなかった。
まるで、「これ以上は、やらせない」と言っているようだった。
グレイルはしばらく彼女を見つめたあと、ふっと笑って剣を肩に担いだ。
「……まあ、今日はこのへんで勘弁しといてやるよ」
そのまま、背を向けて歩き出す。
「……ガキに止められるとはな。俺も歳かねぇ」
ルードはまだ、言葉を出せずにいた。
前に立つ彼女の背中だけが、やけに小さく見えた。
けれど――
その背中に、確かな“意志”を感じた。
(……守る、なんて言っておいて)
(今、守られてんのは――)
自分のほうじゃないか。
雪が静かに降り積もる中、グレイルの足音だけが遠ざかっていく。
ルードは、未だ剣を下ろせずにいた。
その隣で、エレナシアがそっと立ち尽くしている。
彼女の手が、かすかに震えているのが見えた。
(……本当は怖いくせに)
胸の奥が、じわりと熱を持つ。
怒りとは違う。痛みとも違う。
名前のない感情が、ルードの中でくすぶっていた。
聞き慣れた声が投げかけられる。
「……そういや、ひとつ言い忘れてた」
ルードが反射的に顔を上げると、グレイルがこちらに背を向けたまま立ち止まっていた。
その手には、くしゃくしゃになった紙片。
「お前の手配書……裏に流したやつ、王族絡みらしいぜ」
「……!」
ルードの目が鋭くなる。
「詳しいことまでは知らねぇ。けど、動いてるのは“裏”じゃねぇ。“上”だ。」
「そっちが本腰入れたってんなら、お前ら――そう簡単には逃げられねぇぞ」
紙切れを、ひらりと風に舞わせて投げた。
それが、ルードの足元に落ちる。
裏面には、見覚えのある手配内容。そして――
「お前を売ったやつが誰かは知らねぇけどよ」
「女といちゃついてる場合じゃねぇかもな」
最後にそれだけ言い残し、グレイルはもう一度振り返ることなく、雪の通りを歩き去っていった。
残されたルードは、紙を拾い上げて睨みつけた。
その横顔を、エレナシアがじっと見つめている。
けれど、彼女は何も言わない。ただ、そっとルードの袖を引いた。
(……あぁ)
その仕草だけで、少しだけ呼吸が整った気がした。
今は、まだ――
焦りより、歩みを整える方が先だ。
◇
冷たい風が通り抜ける酒場の裏手。
石畳の隅に腰を下ろし、ルードは布で腕の擦り傷を拭っていた。
隣に座るエレナシアが、そっと包帯を差し出す。
その指先に触れそうになり、ルードはほんのわずかに手を引いた。
「……悪かったな。お前まで危ない目に遭わせて」
その声は低く、どこか掠れていた。
ルードは目を伏せたまま、包帯をぎゅっと締める。
少し顔をしかめるような強さだった。
「……頭に血が上ってた。あいつにだけは……どうしても、な」
(少しは、吹っ切れたのかもしれない)
エレナシアは紙を取り出し、筆を走らせた。
『……少し楽になったみたいでよかった』
ルードはちらりとそれを見て、わずかに口の端を上げる。
「……お前には、見透かされてばっかだな」
エレナシアは、軽く首を傾げてから、また筆を動かす。
『でも、もう危ないことはしないでね』
「……わかってるよ」
今度はまっすぐ彼女を見て、短く答える。
ふと、エレナシアが紙に何か書き始めた。
ルードがちらりと視線を向けた時、紙がくるりとこちらに向けられた。
『そういえば……』
そこには、ほんのわずかな“間”があった。
続けて出された紙に、ルードは目を奪われる。
『ドウテイって、なに?』
「……ぶっ」
思わず、飲んでいた水を吹きかけそうになった。
「……は?」
振り返ると、エレナシアは真顔でこちらを見ている。
冗談でもからかいでもない。
”純粋な質問”だった。
「……いや、それは、えーっと……あー……」
(どうすりゃいいんだこれ)
「そ、それはだな……その、なんていうか……あの……」
言葉を選ぼうとするほど頭が真っ白になっていく。
「っつーか、どこで聞いたその単語!?」
エレナシアは、さらりと別の紙を見せてきた。
『さっき、あの人が言ってた』
「あの野郎……!」
ルードは頭を抱えた。
エレナシアは、まだ首を傾げている。
「……お、お前は知らなくていい」
『なんで?』
「な、なんでって言われても……」
ルードが顔を覆ったまま、唸るように呻いたそのとき――
エレナシアが、ふと紙を差し出す。
『ルードは、"ドウテイ"なの?』
「――っ……」
息が詰まった。
一瞬、返事しかけた言葉が喉につっかえ、そのまま飲み込まれる。
(……そうだ、と言ったら、なんか悔しいし)
(でも、ちがうって言うのも……いや、なんで俺がそんな――)
言葉が、どこにも着地できない。
肯定するのも否定するのも、どっちも違う気がして――
「……」
ただ、顔だけがますます熱くなる。
エレナシアは首を傾げたまま、じっとこちらを見ている。
その目はまっすぐで、疑いも下心もない。
(くそ……なんなんだよ、この純粋爆弾……)
「いいから!お前は一生知らなくていい!!」
エレナシアは、小さく口を開けてぽかんと見ていたが――
すぐに、くすっと笑った。
ルードはそれを見て、さらに混乱しながら、膝に顔を埋めた。
(そんな顔されたらなんも言えないだろ……)
冷たい風が吹き抜けても、彼の頬の熱はなかなか冷めなかった。
◇
二人は町から出て、森の外れの道を歩いていた。
足元には、ふかふかの白が積もっている。
歩くたび、ぎゅっ、と音を立てて沈んだ。
並んで歩いていても、会話はない。
それでも、沈黙が気まずくないのは、たぶん彼女のせいだ。
エレナシアは、時折ちらりと横目でこちらを見て、また前を向く。
なにかを言いたそうで、言わない――そんな仕草だった。
ひんやりとした風が頬をかすめるたび、胸の奥に残った熱が、すこしずつ冷えていく気がした。
(……やっぱり、好きじゃないな)
この冷たさが、昔の記憶を思い出させるからか。
それとも、あの時よりも、もっと冷たい現実を突きつけられているからか。
今となっては、もうよく分からない。
不意に、横から紙が差し出される。
『雪、まだ好きじゃない?』
その筆跡を見た瞬間、胸がぐっと締めつけられた。
(まだ――か)
エレナシアは、あの時のやりとりを覚えていた。
自分が「好きじゃねぇ」と吐き捨てたときのことを。
ルードは、ちらと彼女の顔を見た。
エレナシアは、何も言わずに、ただ雪を見つめている。
まるで、初めて雪を見たあの時のように――無垢な瞳で。
その雪を見つめる横顔が、
この寒ささえも優しく包んでしまう気がした。
この冷たい世界で、彼女だけが温かい。
だからこそ、見ているだけで苦しくなる。
ただ見ているだけで、胸の奥が疼く。
何度目だっていい。
きっと、また恋に落ちる。
ルードは、視線を空に戻した。
吐く息が、白く凍る。
「……前よりは、悪くない。」
ただの風景じゃない。
(隣に、お前がいるってだけで――)
それだけで、今が少しだけましに思える。
「――お前と一緒なら、な」
口にしてから、しまったかもしれないと思った。
エレナシアの顔を見るのが、ほんの少しだけ怖くなった。
どんな表情をしているだろうかと、ちらりと横目で覗く。
けれど――彼女は、きょとんとした顔でこちらを見つめていた。
ルードは、微かに眉を動かす。
その反応に、苦笑すら浮かびそうになる。
やっぱり、伝わってない。
エレナシアはすぐに視線を雪へ戻し、
そっと紙に文字を綴る。
『そっか』
ただ、それだけ。
けれど、筆談を終えたあとの彼女は、ふわりと微笑んでいた。
ほんのすこし、安心したように。
まるで、「よかった」と言ってくれているような笑みだった。
(……なんだよ、それ)
心の中で小さくぼやきながら、
ルードはそっと目を細める。
伝わらなくてもいい――いや、本当は伝えたかった。
けれど、それでも。
お前が笑ってくれるなら、それでいい。
雪の降り積もる中、吐く息が白く染まる。
その隣で、彼女はまだ、無垢な瞳で空を見上げていた。