第23話 斬るべき過去と、抜けぬままの刃

ルードは、指先でその“手配書もどき”を軽く弾いた。 「……誰が、これを流した?」 問いかけに、エレナシアは筆を握る。 火の光に照らされた彼女の瞳が、不安げに揺れていた。 『ルードを売ったのは……』 ルードは無言のまま紙を見つめる。 長いまつ毛の影が、瞳に落ちた。 「……たぶん、俺に“お前の誘拐”を依頼してきたやつだ」 「つまり、依頼主ってことになる」 言い切ったわけではない。 だが、状況を考えれば――もっとも“筋が通る”のは、そいつだった。 「俺は、もともとお前をさらう依頼を受けた側だった」 「だけど――」 紙を握る指に、力がこもる。 「……俺は、お前を引き渡さなかった」 その言葉に、エレナシアの指先がぴたりと止まる。 (……) 彼女は、それが事実であることを知っている。 ルードは自分を売ることを、やめた。 だから、自分は今ここにいる。 エレナシアは、小さく筆を走らせる。 『……それで、追われてるの?』 「裏切った俺を始末するか、連れ戻すか――どっちにしても、俺は邪魔者なんだろうな」 視線を紙の端へ落とす。 同行者についての記述が、そこに添えられていた。 ”銀髪の少女。魔力干渉あり。注意。” 「……しかも、お前の力のことを知ってる」 その呟きに、エレナシアが目を見開く。 『……この力のこと、知ってるのは限られた人だけ』 筆を握る手に、わずかに力がこもる。 紙の上に迷いが滲むように、エレナシアは少し考えてから、筆を走らせた。 『直系の王族……それから……数人の側近だけ、だったと思う』 『たぶん、王族の中でも、本当に一部の人しか知らない』 ルードは、紙をじっと見つめたまま、息を吐くように呟く。 「……それが本当なら――」 「そいつらの中に、情報を流したやつがいるってことになる」 けれど―― 眉をひそめたまま、再び紙を弾く。 「……わざわざ俺に、誘拐させる必要があったか?」 その言葉に、エレナシアが息を呑む。 筆先が、わずかに宙を泳ぐ。 「王族が“手駒”を使うなら、もっと確実な方法があるはずだ。」 「城の中で"始末する"ことだって、黙って別の場所に移すことだってできた」 ルードの目が細められる。 「なのに、わざわざ俺みたいな外の人間に依頼して――しかも、途中で情報を裏に流す?」 「……筋が通らねぇ」 ぱちり、と焚き火の火がはぜた。 夜の静けさが、いっそう深く感じられる。 ルードは、短く息を吐く。 「となると、考えられるのは――」 言いかけたところで、エレナシアは視線を伏せた。 揺れる火の光の中で、彼女の横顔はどこか影を帯びて見える。 (王族の中の誰か? それとも、王族に近しい者?) 彼女の沈黙に気づいたルードは、ふと視線を向けた。 「……お前、自分の力を初めて使ったのは、いつだ?」 問いに、エレナシアの筆が止まる―― (……) 力は、ずっとあった気がする。 でも、初めて”使った”のは―― 胸の奥がざわつく。 それと同時に、遠い記憶がじんわりと滲んでくる。 (……そうだ) (あの時、私は――) ◇ 幼い頃の記憶が、ゆっくりと蘇る。 森の中を駆ける音。 激しく上下する息。 そして――隣で震える少年の姿。 「……エレナシア……!!」 彼は、エレナシアの腕をぎゅっと掴んでいた。 (……シリウス) 手が冷たい。 「……どうしよう……どうしたら……」 彼は、エレナシアの腕をぎゅっと掴んでいた。 (……どうしよう、って私が聞きたい) エレナシアは、目線だけシリウスの方に向ける。 月光を反射する金の髪。 闇の中でも鮮やかに映る、透き通った碧の瞳。 だが、今の彼の瞳には恐怖が浮かんでいる。 細い肩が震え、指先まで冷えきっていた。 目の前には、三人の野盗。 にやにやと嗤いながら、ナイフを弄んでいる。 「おいおい、姫様ごっこか? ちっこいのが護衛かよ」 エレナシアは、シリウスの手を強く引いた。 (逃げなきゃ……!) けれど、道は塞がれている。 野盗が、じりじりと詰め寄ってきた。 「……ッ!」 エレナシアは、ぎゅっと拳を握る。 (私が、守らなきゃ) (シリウスは……戦えない) 「……離して」 「え……?」 「シリウス、手を離して」 「で、でも……!」 「大丈夫だから」 エレナシアは、震えるシリウスの手をそっと引き剥がした。 そして―― 「こっち来ないで!!」 小さな体で、必死に野盗の前に立ちはだかる。 シリウスは、泣きそうな顔で彼女を見ていた。 「エレナシア……!」 「……怖くない」 「怖くなんて……ない」 (だって、シリウスは怖がってるから) (私まで怖がったら、誰が助けるの?) 野盗の男が、嘲るように笑う。 「へぇ……ガキのくせに根性あるじゃねぇか」 「でもな、根性だけじゃ――」 その瞬間。 世界が、白く染まった。 「――あ……」 エレナシアの目の前で、野盗が吹き飛んだ。 シリウスの怯えた悲鳴が聞こえる。 「エ、エレナシア……?」 (……何、これ) 視界が、ぼやける。 (体が、熱い……) エレナシアの体から、まるで溢れ出るように光が広がっていく。 「やばい、やばい……!!」 「な、なんだこいつ……!!」 野盗の男たちが、悲鳴を上げる。 「ひっ……」 シリウスが、息を呑んだ。 「エレナシア、やめて!!」 (……やめる?) (……やめなきゃいけないの?) だけど―― 私たちを襲ったのは、あの人たちなのに。 (……私は) エレナシアの視界が、真っ白に染まった。 ◇ ふっと、意識が現実に引き戻される。 ルードが、じっとこちらを見ていた。 エレナシアは、小さく筆を握る。 『……昔、襲われたことがある』 ルードの表情が僅かに変わる。 「……誰に?」 『野盗に』 ルードは、少し目を細めた。 「それで?」 エレナシアは、迷いながらも筆を動かした。 『……私の力が、暴走した』 ルードの視線が、一瞬鋭くなる。 「暴走……」 エレナシアは、静かに頷いた。 (……あの時のことを、今でもはっきり覚えてる) 「その時、一緒にいたやつは?」 エレナシアは、迷いながらも筆を動かす。 『……シリウス』 ルードの瞳が、かすかに揺れる。 「……誰だ、それ」 エレナシアは、筆を止める。 (……そっか、ルードはシリウスを知らないんだ) けれど―― この出来事と、今の状況は関係があるんだろうか? 『幼い頃、私と一緒にいた人。……でも、今はもう、どこにいるのかも知らない』 「そいつ、お前の力のことを知ってたのか?」 エレナシアは、迷いながらも頷く。 『……あの時、私の力が暴走して、それを見た』 ルードの瞳が、かすかに揺れる。 「……そうか」 短く返したが、ルードの指先には力が入っていた。 ふっと、エレナシアは胸の奥がざわつくのを感じた。 (……シリウスは、今どこにいるんだろう) 小さく、かすかに、心臓が鳴った。 ルードは、手配書もどきを無造作に投げ捨てた。 だが、その目は笑っていなかった。 「……なぁ、少し考えてみろ」 低く、静かな声だった。 エレナシアは、筆を握りながら黙って彼の言葉を聞いていた。 「一部の人間しか知らない“秘密”を、こいつは握ってた」 「なのに、自分の手は汚さず、外から連れ出させる……まるで、“他の王族を出し抜こうとしてる”みたいだ」 焚き火が、ぱちりと爆ぜた。 「……お前の力を独占しようとしてたんじゃねえのか?」 「お前をこっそり手に入れて、他の誰にも知られないように……」 その言葉に、エレナシアの指が震えた。 ルードは、ぎゅっと拳を握る。 「……ふざけんな」 低く吐き捨てるように言ったその声には、明確な怒りがにじんでいた。 「お前を、道具にしようとしたクソ野郎のために……」 拳に力がこもる。 その感情は、依頼人への怒りだけじゃない。 「……そんなもんのために、俺は……」 歯を食いしばる音が、沈黙の中に微かに響いた。 「吐き気がする」 ルードは、投げ捨てた手配書を睨みつけたまま動かなかった。 だが、その肩がかすかに揺れている。 怒っている――そう見えた。 けれど、それだけじゃない。 言葉にできない感情が、胸の奥で渦を巻いているようだった。 「……お前の力を手に入れようとしてるやつがいるなら」 ルードが、静かに言葉を絞り出す。 「そいつが制御方法を知ってるか、もしくは知ってるやつを知ってるってことになる」 「……その“シリウス”も、関係してるんじゃねえか?」 エレナシアは、目を伏せる。 (シリウスが……?) 今の彼が、あの頃の彼と同じであるとは限らない。 けれど―― (……もしも) もしも、彼が関わっているのなら。 ルードの言葉が、低く響く。 「……エレナシア」 「お前の力を抑える方法――なんだった?」 (それは……) (ルードは、知っている) 以前、彼に説明した。 魔力を安定させるためには―― 『契約すること』 ルードは、静かに言葉を絞り出した。 「……だよな」 エレナシアは、小さく頷く。 それは、魔力を安定させるために必要な行為。 (相性のいい相手と……) 彼の顔を、まっすぐには見られなかった。 指先が、微かに震える。 ルードは、低く息を吐いた。 「……依頼主は、お前と契約するつもりだったんじゃねえのか」 低く落としたその声に、エレナシアは小さく息を呑む。 誰に向けたものかも分からない。 ただ、彼の中にある苛立ちとやるせなさが、にじみ出ていた。 (まさか……) その時だった。 ルードが、ふと顔を背け―― そして、次の瞬間。 すぐそばの木に拳を叩きつけた。 何かを殴ろうとしたわけじゃない。 ただ、吐き出しきれなかった衝動が、手を通して噴き出しただけかもしれない。 乾いた音とともに、幹に赤い跡がにじむ。 拳から血が流れていることにも、彼は気づいていないようだった。 (ルード……怒ってる?) 理由は分からない。 けれど、エレナシアの胸の奥に、じんわりと痛みのようなものが残る。 ルードは、拳をそっと下ろした。 「……絶対に、許さねぇ」 その声には、怒りとは別の、強く押し殺した何かが混じっていた。 それが何なのか、エレナシアには言葉にできなかった。 ◇ 殴りつけた木の幹に滲む血の色が、ほんのわずか夜気に滲んでいる。 ルードは拳を下ろし、ゆっくりと呼吸を整えた。 「……もっと慎重に動く必要がありそうだな」 空気を断ち切るように呟いたその声に、エレナシアがそっと筆を取る。 『……変装するとか?』 「必要ないだろ」 「俺の特徴なんて、似たようなやついくらでもいる」 ルードは淡々と返す。 けれど、エレナシアはほんの一瞬だけ首をかしげたあと、紙をめくった。 『そうかな?』 『私は遠くからでもルードのこと、わかる』 (……?) 彼女は筆を置くと、一歩、ルードに近づいた。 不意の動きに身構えかけたが、なぜか体は動かなかった。 指先がふと口元へ伸びる。 ぐいと唇の端が引っ張られた。 「……っ」 引きつるような感覚に、言葉が出ない。 手を離したエレナシアは、そのまま顔を覗き込むように見つめてくる。 ルードの視界いっぱいに、揺れる銀髪とアメジストの瞳が広がる。 (……近い) エレナシアは筆と紙を持ち直し、さらさらと書いた。 『この牙、すごく特徴的』 ルードが何か言うより先に、彼女は前髪へそっと手を伸ばす。 つまむようにして、ふわりと持ち上げた。 「おい、引っ張るなよ」 咎めるような声を出したものの、抑えきれない甘さが滲んでしまう。 触れられるたびに心がざわつく。 あどけない仕草ひとつで、どれだけ振り回されてるか――本人は、きっと気づいていない。 『……いつも、寝癖ついてる』 『この寝癖、はぐれそうなとき目印にしてる』 ふっと微笑みながら、そう続ける。 『前に髪を整えたとき、別人みたいだった』 ルードはわずかに息を詰めた。 ただの成り行きだったのに――あのときことを彼女がそんなふうに覚えているとは思わなかった。 「……髪型くらいで、大して変わんねえだろ」 ルードがぼやくと、エレナシアは紙にすぐ返した。 『そんなことない』 『また整えてるの、見たい』 小さく、でも確かに――期待するような目で見つめられる。 「……そんなめんどくせえこと、できるかよ」 そう返した途端、エレナシアはほんの少しだけ、残念そうな顔をした。 (なんで……がっかりしてんだよ) 戸惑いが胸の奥を揺らす。 その表情を、どう受け止めていいかわからない。 「……俺のことは、いいんだよ」 そっけない声だった。 けれど、それが照れ隠しであることは、自分でもよくわかっていた。 「どっちかっつーと、目立つのはお前のほうだ」 エレナシアがきょとんと目を瞬く。 「……知らねぇ男に、何度絡まれてきたと思ってんだ」 過去の記憶が、頭の奥から引きずり出される。 最初は“運が悪いだけ”だと思っていた。 けれど、今はわかる――彼女は、目を引く存在だ。 この髪も、瞳も、物腰も。 遠くにいても、誰よりも目立つ。 ルードは小さく息をついた。 (……まぁ、俺も目を奪われたひとりだ) そんなことを言えるはずもなく。 エレナシアは少しだけ筆を動かすのを迷ってから、一枚の紙に綴る。 『じゃあ……変装してみる』 まっすぐな視線とともに差し出されたその文字に、ルードは目を細めた。 「……まぁ、それもアリかもな」 少なくとも、この銀髪とアメジストの瞳は目立ちすぎる。 そして――その翌朝。 二人は、近くの街へと服を買いに向かうのだった。 ◇ 翌朝、二人は人気の少ない裏通りを抜け、なるべく人目につかないような小さな服屋へ足を運んだ。 観光客向けの派手な店ではなく、地元の住人が日用品を買うような素朴な場所だ。 「……派手な色は避けろよ」 「あと、動きにくいのも却下な」 ルードが店内を一通り見渡すと、エレナシアが一着の服を手に取って振り向いた。 『これとかどうかな?』 差し出されたのは、男物のシンプルなパンツスタイル。 シャツも丈が短く、全体的にすっきりとしたシルエットだった。 「……まぁ、まずは着てみろ」 エレナシアは小さく頷き、試着室の奥へと消えていった。 数分後、カーテンが揺れて――彼女が姿を現す。 いつもとは違う、すらりとしたパンツスタイル。 動きやすさを重視した男装服のはずなのに、妙に目を引いた。 脚が、長い。 そして、細い。 (……いや、なんでだ) 布面積は明らかに増えている。 だけど、逆にそれが足を際立たせているのか――妙に、意識してしまう。 「どう?」というような表情で、エレナシアが顔を上げる。 筆を取り、彼女は紙に一言だけ綴った。 『男の子に見える?』 (……無理があるだろ) 声に出すのは躊躇われた。 だけど、それは"男に見えるか見えないか"というレベルの話ではなかった。 普通に、その姿が――可愛い。危ない。 エレナシアが鏡の前に立ち、自分の姿を確認する。 その瞬間、ふと表情が止まった。 シャツの胸元あたりに、視線が落ちる。 わずかに、シャツが膨らんで見えた。 エレナシアはしばらく鏡を見つめたあと、小さく袋を開いた。 中から取り出したのは、弓の練習のあとにも使った包帯。 薄くて柔らかいそれを、そっとルードの前に差し出す。 『……目立つから、巻いてほしい』 一瞬、場の空気が止まった気がした。 「……」 「……勘弁しろ……」 それだけ言って、目を逸らす。 エレナシアは、何も言わない。 ただ、少しだけ不安そうにルードを見つめていた。 しばらくの沈黙のあと、ルードは静かに息を吐く。 「お前も、いつも通りでいい」 「……目立ったら、俺がどうにかする」 胸の奥が、少しだけ熱くなる。 それは怒りでも使命感でもない――ただ、彼女を“守りたい”という衝動だった。 「だから、心配すんな」 その言葉に、エレナシアはぱちりと瞬きをしたあと、ゆっくりと頷いた。 少しだけ頬が、熱を帯びて見えたのは――たぶん気のせいではなかった。 ルードはひとつ息を吐き、視線を落とす。 「……さて」 自分を売ったのが誰なのか。 確かめなければならない。 「……まずは情報収集だな」 そう言って、ルードはそっと立ち上がった。 ◇ 朝の光が、薄く積もった雪の上に反射していた。 夜のあいだに静かに降ったらしい白い粒が、草の上に薄く覆いかぶさっている。 踏みしめるたび、足元からザクッと乾いた音が立った。 ルードは肩にかかる冷気を感じながら歩を進める。 隣には、フードを深く被ったエレナシアの姿。 銀の髪を隠すように、布の影が頬を覆っていた。 「……目立つから、ちゃんとかぶってろよ」 そう言って、手袋越しにフードを整えてやる。 エレナシアは小さく頷いた。素直に。 街の外れにある、古びた酒場が目に入る。 陽が差しているとはいえ、ここは空気も人の目も冷たい。 情報屋が出入りするにはちょうどいい、そんな場所。 「中には俺一人で入る。……ここで待っててくれ」 エレナシアのの足元には、雪の上に並べた丸太の腰かけ。 冷たくないようにと、自分の外套を敷いておいた。 エレナシアはそこにそっと腰を下ろし、視線で「わかった」と伝えてくる。 その仕草だけで、胸がきゅっと鳴った。 (……誰が、俺を売った?) 酒場の扉の前で、一度深く息を吐く。 「……すぐ戻る」 それだけ言い残し、ルードは扉に手をかけた。 酒場の扉を開けた瞬間、湿った空気と酒の匂いが肌にまとわりついた。 朝から酔いどれが数人、席に沈んでグラスを傾けている。 皿の端に残った食べかけの干し肉、煤けた窓、ぬるい笑い声。 どこにでもある、裏通りの酒場の風景――だった。 「――だから言ったんだよ、そいつに。“楽しまなきゃ損だろ”ってな」 その声が、空気を引き裂いた。 一瞬、足が止まる。 心臓が、どくん、と跳ねた。 頭よりも先に、身体が反応していた。 (……嘘だろ) けれど、確かに聞こえた。 耳の奥にこびりついて、何度も、何度も聞かされていた声。 振り向くのが怖かった。 まさか、と思った。 そんなはずはない、とも思った。 でも―― ゆっくりと、顔を向ける。 薄暗い奥の席。 窓際の影の中に、あの男がいた。 片肘をつき、足を投げ出して酒をあおる。 無精ひげに乱れた髪、肩の抜けた上着。 だらしないその姿さえ、昔と少しも変わっていなかった。 「……」 グラスを傾けながら、女給に冗談を飛ばしている。 楽しそうに笑って、なにもかもどうでもいいって顔をして。 それが―― 俺の剣を鍛えた男。 俺を拾った、たった一人の“大人”。 そして――俺を置いて、何も言わずに消えた男。 グレイルだった。 視界が揺れる。 なんでもない顔で酒を飲んでいる、その姿が、信じられなかった。 (……冗談、だろ) 視界が揺れる。 こっちは―― ずっと忘れたつもりでいたってのに。 ずっと、心のどこかで「理由」を探してたのに。 なんで、そんな顔で笑ってやがる。 胸の奥が、焼けつくように痛む。 怒りとも、哀しみともつかない感情がせり上がってくる。 けれど、それを表に出すわけにはいかなかった。 奥歯を噛みしめて、目を伏せる。 (ふざけんなよ……) こんな場所で。 こんなタイミングで。 なんで、あんたなんだ。 「……」 ルードはその場で足を止め、グレイルの声に反応しながら冷たく言葉を放った。 「……なんであんたがここにいるんだ」 感情を抑え込んだ声で、ルードはただそれだけをつぶやいた。 その目の前にいるのは、あの頃と変わらず軽口を叩く、あの男だった。 しばらくの間、グレイルはルードに気づかず、酒を飲みながら女給と会話を続けていた。 その表情には、まるでルードがここにいることを予想すらしていないような、無防備な笑みが浮かんでいた。 だが、ふいにグレイルの笑みが止まる。 グレイルは片眉を上げたまま、こちらをじっと見ていた。 何かに気づいたのか、目を細めて、じっとルードの顔を見つめた。 「……誰だ、お前」 軽くあごをしゃくりながら、グレイルは面倒くさそうに言う。 「ガキがこんなとこうろついてんじゃねえよ」 その無責任な物言いに、ルードの眉がぴくりと動いた。 (気づいてない、のか) ルードは拳を握った。 そして、口を開く。 「俺はもうガキじゃない」 「……本当に、わからないのか?」 「それとも、忘れたフリでもしてるのかよ」 グレイルは無言のまま、ルードを見つめ続けた。 だが、その視線には迷いが混じっていた。 数秒の沈黙のあと、グレイルが小さく息をつく。 「どこのガキかと思えば……」 「……ルードか?」 胸の奥が痛んだ。 名前だけは、しっかり覚えてたらしい。 (だったら、なんで――) 「……そうだよ」   ルードは冷たく答え、続けた。 グレイルは、酒を飲んだ後にルードの顔を見つめながら、軽く笑った。   「へぇ、でかくなったな」 その無神経な言葉に、ルードは耐えられなかった。 「ふざけんな」   その言葉が、怒りを伴って口からこぼれた。 グレイルは少し驚いた様子でルードを見たが、すぐにまた無関心な笑みを浮かべる。   「お前が俺を捨てたのを、覚えてるか?」   ルードは冷たく、鋭い目でグレイルを睨みつけた。 グレイルは少し目を逸らし、軽く肩をすくめた。   「何のことだ?」 その一言に、ルードは胸の奥で何かが爆発するのを感じた。 「俺を、捨てたんだろ。グレイル」 再びグレイルに向かって言葉を続ける。 「……もう、二度と会うことはないんだと思ってた。けど、なんでいるんだ……」 その言葉は、冷静に放たれることなく、怒りと混乱が入り混じった感情から自然に漏れ出てきた。 ルードはグレイルを睨みつけながら、続けた。 「……忘れたわけじゃないよな?」 その一言が、ルードの胸にたまっていた全ての感情を吐き出すようなものだった。 少しの間、沈黙が続いた。 その後、ようやくグレイルが口を開く。 「捨てた? ……別にお前を拾った覚えもねぇよ」   グレイルは、ルードを見上げることなく、冷たく言った。 「ただの気まぐれだったんだよ、暇つぶし。お前がどんなにでかくなろうと、俺にゃ関係ねぇ」 その言葉を聞いた瞬間、ルードの胸に怒りが沸点を迎えた。 瞬時に、ルードは近くにあった椅子を思いっきり蹴り飛ばした。 椅子はガシャンと大きな音を立てて倒れ、周囲の空気が一瞬凍りついた。 ルードはしばらくその場で息を吐き、心を落ち着けるように目を閉じた。 平静を取り戻すと、低く呟いた。 「……クソが」 その言葉と共に、ルードはグレイルに背を向け、その場を離れた。 ◇ 雪はまだ、静かに降り続いていた。 ルードが酒場の扉を開けて出てきたとき、エレナシアはすぐに違和感を覚えた。 情報を探ると言っていたはずなのに、思ったより早く戻ってきた。 普段と変わらない足取りのはずなのに、どこか引きずるような気配があった。 彼女は小さな屋根の下からそっと立ち上がり、ルードに近づく。 ルードは彼女の方を見ようとしなかった。 フードの奥の顔が、ほんの少しだけ俯いている。 エレナシアは、迷いながらも紙と筆を取り出し、一言だけ記す。 『……何かあったの?』 ルードは立ち止まったまま、ゆっくりと首を振る。 「別に。大したことじゃねぇよ」 その声に、どこか力がなかった。 エレナシアの視線が、彼の手元へと移る。わずかに震える指先。 (……うそ) ルードが何も言わないときほど、何かを押し殺している。 それを、エレナシアはもう知っている。 そっと、彼の手に触れた。冷たい。 けれど、彼の体温がほんの少し伝わってくる。 ルードがようやく、わずかに顔を向けた。 その目に宿る色を、エレナシアは初めて見る気がした。 怒りとも、哀しみともつかない、にごった感情。 エレナシアはまた筆を走らせる。 『……話してくれなくてもいい。でも、無理しないで』 ルードは、少しだけ目を伏せて息を吐いた。 「……ちょっと、昔の知り合いに会っただけだよ」 『知り合い?』 「……置いてったやつだ。俺を」 それ以上、何も言わなかった。 けれど、エレナシアはその手を離さなかった。