第21話 ひめたる少女、春を知らず

エレナシアがゆっくり意識を浮かべると、荷物をまとめる音が耳に入った。 城にいた頃は、こんなふうに深く眠ったことなどない。 閉ざされた部屋で、浅く短い眠りを繰り返すだけの日々だった。   「……外れてるぞ」   身を起こそうとした瞬間、ぶっきらぼうな声が降ってくる。 気づけばルードが、彼女の外套の留め具を直していた。 乱れた金具に指先をかけ、眉間に皺を寄せる真剣な横顔。 ——なぜだろう。 彼のそばにいると、こんなにも穏やかに眠れるのは。 そして今、無防備な自分を気にかけてくれる彼を見ていると、胸の奥で名前のつけられないものがざわめく。 「よし」 小さく呟いて手を離す。 「ちゃんと留めとけ。風邪ひかれたら面倒だ」 ぶっきらぼうな口調の奥に、心配が滲んでいるのはわかった。 頷きながら、温かさと同時に、胸の奥に苦しいような感覚が広がっていく。 (……最近、なんだか変) あの日、ルードにキスされてから。 彼に優しくされるたび、距離が近づくたび、胸が締めつけられる。 けれど——。 (これ……ルードに気づかれたらダメな気がする) 理由ははっきりしない。 心配をかけたくないから?  たぶん、それもある。 でも何より、自分の中の何かが大きく変わってしまいそうで。 「そろそろ準備しろ」 声に我に返り、エレナシアは胸のざわめきを振り払うように支度を始めた。 ◇ 森に足を踏み入れると、雪がちらちらと舞い始めた。 足音は雪に吸い込まれ、辺りはひどく静かだった。 エレナシアは、白く煙る自分の吐息に気を取られながら、前を行くルードの背を見つめる。 雪片が彼の黒髪に降りては、すぐに溶けて消えていく。 ときどき振り返って彼女の様子をうかがう横顔は、いつもより少しだけ優しく見えた。   ふと、熱を出した翌朝のことが脳裏をよぎる。 ルードに言われた、あのひとこと。 「……城には戻りたくない、ってことでいいんだよな」 その質問の意味を、そのときは深く考えはしなかった。 依頼を放棄したと言っていたから、次の行き先を決めるための確認だと思った。 だから、悩まず頷いた。 「……わかった」 それだけを口にしたルードの表情は、少しほっとしたようにも、どこか考え込んでいるようにも見えた。 それでも、彼女の胸には確かな安堵が残った。 これからも、この背中のそばにいられるのだと。 本当は少し怖かった。 雪を見たとき、一瞬——   (このまま依頼人に渡されるのかもしれない) そんな考えが胸をかすめて、冷たいものが喉に落ちた。 依頼人が怖かったわけじゃない。 怖かったのは、ルードと離れることだった。 ふと、彼の横顔を見上げる。 視線が、無意識に彼の唇へと吸い寄せられていた。 好きだと言われた。 そして、キスされた。 でもそれきり、ルードは何も言わない。 何もしてこない。 (なんだったんだろう……) 以前、薬を飲ませるために口付けたことがあった。 仕方なく——いや、それしか思いつかなかった。 あとから思い出しては、顔が熱くなった。 けれどこの前のは、まるで違った。 口移しなんかとは、まるで。 彼の唇は、優しくて、温かくて。 何より——頬に触れる手が、壊れものに触れるみたいで。 胸の奥が溶けるようで、息をするのを忘れそうだった。 エレナシアはふと足を止め、前を歩くルードの背を見つめた。 あの時。 どうして、あんなにも心臓が激しく鳴ったのだろう。 「……どうした?」 足を止めたエレナシアに気づいたのか、ルードが振り返る。 彼の声に、はっとして顔を上げる。 『なんでもない』 そう書いた紙を差し出そうとした、その時—— ルードの目がわずかに細まる。 彼女を通り越して、森の奥に視線を向けていた。 「……しゃがめ」 押し殺した声。 エレナシアが戸惑う間もなく、ルードはそっと肩に手を添え、静かに身を屈めさせる。 自分もすぐ隣にしゃがみ込み、肩が触れ合いそうな距離になる。 「……熊か、でかい狼か……」 彼の声が、耳のすぐそばで囁く。 そのまま、ふたりはじっと息を潜めた。 雪に沈むように、身を低くして。 やがて茂みの向こうで、何かがゆっくりと通り過ぎていく気配。 枝がかすかに揺れ、音もなく、静けさが戻ってくる。 ……が、ルードはすぐには動かなかった。 軽く息を吐きながら、隣の彼女をちらりと見る。 「……行ったか?」 彼の呟きに、エレナシアがそっと立ち上がりかけて、ルードが引き止める。 するりと腕を掴まれ、後ろにある木の幹へとそっと引き戻される。 「動くな。まだ……念のためだ」 耳元でそう囁きながら、ルードは彼女を庇うように身をかがめ、 片腕を木の幹について、エレナシアの横に回す。 気づけば、彼女の背は木に預けられ、ルードの体はすぐ目の前にあった。 片腕が、すぐ横の幹にかかっている。 まるで、囲われているみたいだった。 エレナシアは小さく瞬きして、目をそらすことができなかった。   (……息、できない) 心臓が早くなると同時に、呼吸まで乱れてくる。 それを悟られまいと、エレナシアは思わず息を止めた。 ルードは真剣な顔つきで、周囲の気配を探っている。 その鋭い眼差しを見ていると、なぜか胸がさらに苦しくなった。 鼻からそっと息を吸う。 (……ルードの匂い) その瞬間、鼓動が跳ね上がった。 頭がふわりと浮くように熱くなる。 息を止めているせいなのか。 それとも、彼が近すぎるからなのか——もう、自分でもわからなかった。 「……もう、平気そうだ」 そう言って、ルードがすっと身を引く。 その途端、張りつめていた何かがほどけ、エレナシアは止めていた息を一気に吐き出した。 「お前……まさか、ずっと息止めてたのか?」 ルードが驚いたように声を上げる。 エレナシアは返事をしようと紙を探すが、手がうまく動かない。 呼吸を整えるだけで、精一杯だった。 「……ん?」 ルードがふと目を細め、エレナシアの右手に視線を落とす。   「……怪我してるじゃねえか」 さっき木陰に身を寄せたときに、枝でひっかけたのだろう。 血はにじんでいるが、ただの擦り傷に見えた。 それなのに、ルードは思い詰めたような表情で傷を見つめ、ポーチを探る。 「……消毒液、切らしてたか」 呟きと同時に、彼の視線が再び傷口に戻る。 次の瞬間、手首を取られ、エレナシアは息を呑んだ。 理解する間もなく、ルードの唇が傷口に触れる。 呼吸が浅くなり、全身に鳥肌が立つ。 唇が触れた場所からじんわりと熱が広がり、身体が小刻みに震えた。 舌の感触に神経が集中し、その部分だけが異様に敏感になる。 熱いのか冷たいのか、自分でもわからない。 ただ確かに、何かが胸の奥で芽生えている。 膝から力が抜け、立っているのがやっとだった。 頬がじわりと熱くなり、唇が勝手に開く。 胸の奥から、名前のつけられない疼きが湧き上がってくる。 心臓の鼓動があまりに激しくて—— ルードにも聞こえてしまうのではないかと思った。 やがてルードが口を離し、エレナシアはようやく息を吐き出す。 彼は何事もなかったかのように振り返り、口の中のものを雪の上に吐き捨てた。 血の混じった唾液が、白い雪に赤い染みを作る。 「……この辺りは毒のある植物もあるし、何がついてたかわかんねえだろ」 荷物を手に取る仕草も、声の調子も、いつものルードのままだった。 エレナシアだけが、まだ胸の鼓動を抑えられない。 舐められた場所の熱と疼きが残っているのに、彼はもう歩き出そうとしていた。 まるで、何も起こらなかったかのように。 ◇ 夜。 焚き火が静かにパチパチと音を立てている。 食事も片付けも終わり、今はただ火の明かりの中で座っているだけだった。 エレナシアは膝の上に紙と筆を置いたまま、筆先で紙の端をなぞっている。 意味のない線、丸、波。 手だけが勝手に動き、頭の中は昼間のことでいっぱいだった。 ルードの舌の感触。 あの熱。 身体の奥から込み上げた、名前のつけられない感覚。   火を挟んだ向こうで、ルードが左耳のピアスをいじっている。 カチカチという金属の音。 彼の癖だ。 いつの間にか、そんなことまで覚えていた。 彼は今、何を考えているのだろう。 あの時のことは、もう忘れているのだろうか。それとも—— 紙に目を戻すと、いつの間にか筆で同じ場所を何度もなぞっていた。 薄くへこんだその部分が、もう少しで破けそうになっている。 (……やっぱり私、変なのかもしれない) 口移しのときは、何も思わなかった。 でも——キスの時も、今日も。 どうしてこんなに胸が騒ぐのだろう。 (ルードは、平気そうなのに) おかしいのは、自分だけ。 「……おい」 不意に声をかけられて、手が止まる。 「なんかさっきから……おかしくねえか?」 焦りと驚きで、体が硬直する。 『別におかしくない』 慌ててそう書いて見せると、ルードは訝しげに目を細めた。 「……そうか?」 「また熱でも出してんじゃねえだろうな」 そう言って立ち上がると、彼はエレナシアの隣に腰を下ろし、手を伸ばしてくる。 その仕草に、思わず紙を顔の前に掲げた。 『ちょっと、眠いだけ』 慌てて書いたせいで、文字は少し歪んでいた。 ルードの手が触れそうになったからなんて——きっと関係ない。 そう自分に言い聞かせる。 「……そうかよ」 腑に落ちない様子だったが、それ以上は何も言わず、あっさりと身を引いた。 エレナシアは素早く『……今日はもう寝るね』と書き足す。 本当は眠くなんてない。 けれど、そう言ってしまった手前、もうそれ以上ここにはいられなかった。 地面に布を敷き、外套をかける。 ルードは黙ったままだ。 彼は「おやすみ」など言わない。 けれど、エレナシアが横になると、いつものように守る位置にそっと移動し、姿勢を正した。 以前は、それを当たり前のこととして受け止めていた。 でも今は——その気遣いが、ただそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。 ルードが自分を気にかけてくれている。 ただそれだけで、心の奥にじんわりと満たされていくものがあった。 胸の鼓動はまだ少し速かったけれど、焚き火の明かりに浮かぶ彼の横顔を見ていると、不思議と安心できた。 そのまま、まぶたが重くなる。 エレナシアは静かに眠りへと落ちていった。 ◇ 気がつくと、エレナシアは丘の上に立っていた。 静寂が、世界を覆っている。 人の気配も、風の音も、虫の声すらもない。 ただ—— 少し先に、ルードの後ろ姿があった。 彼はこちらに背を向けて立っている。 何を見ているのか、何を考えているのかはわからない。 けれどその背中は、どこか夜空を見上げているように見えた。 (……ここって) 見覚えがあった。 ルードに「好きだ」と告げられた、あの場所だ。 ふと、彼が振り返る。 目が合った——いや、見つめられている。 心臓が跳ねる。 「エレナシア」 名前を呼ばれただけで、胸が締め付けられた。 返事をしたいのに、声が出ない。 ルードの眼差しは、いつもの無愛想なものではなかった。 優しくて、あたたかい。 (……本当に、ルード?) 現実の彼がこんな顔をするだろうか。 (夢……?) そんな考えが、唐突に浮かんだ。 けれど、その可能性を否定する気にはなれなかった。 ルードが一歩、近づいてくる。 思わずエレナシアも一歩、後ずさる。 背中に、硬い感触。 振り返ると、そこには大きな木があった。 さっきまで何もなかったはずなのに。   けれどそれが不思議だとも思わなかった。 ただ、そこに木があって—— 自分の背中が幹に押し当てられている。 もう、下がることはできなかった。 ルードが木の幹に手をつく。 至近距離。 彼の瞳に映る自分が、はっきりと見えるほど。 「俺はお前が好きだ」 まっすぐに見つめられながら、ルードはそう言った。 息が止まる。 ——これは、あの日のことを夢に見ているだけ? でも、確かに何かが違う。 黒髪、琥珀色の瞳、整った顔立ち。 寝顔や無防備な横顔を見て、「整ってる」と思ったことはあった。 けれど今、目の前にいる彼は——あまりにも。 乱れがちな髪は心なしか整っていて、睫毛は長く、鋭い目つきもどこか柔らかい。 思わず見惚れてしまう。 ルードの手が、迷いなくエレナシアの頬に触れる。 そのまま髪の毛先を指でなぞる。 「……短い髪も、可愛いな」 微笑みながらそう言う。 その言葉も、仕草も、表情も—— すべてが、エレナシアの心をかき乱す。 指先のぬくもり。 「可愛い」という響き。 あの微笑み。 顔が熱くなるのが自分でもわかる。 どこかに隠れてしまいたいのに、体は動かない。 夢なのに、声すら出ない。 ルードの手が後頭部に回り、バレッタを撫でる。 「俺があげたこれも……」 カチリと音がして、バレッタが外れる。 彼はそれを手に取り、目の前に掲げた。 星明かりの中で、宝石が淡く光る。   「お前の瞳と、同じ色だ」 心臓が大きく跳ねる。 「……気づいてたか?お前の目の色、すごく綺麗だから。これを見た時、絶対似合うって思った」 胸が、熱い。  夢の中で、彼が本当にそう言ってくれる。 「似合ってる。可愛い」 もう一度、バレッタを留めながら囁かれる。 嬉しくて、涙が出そうだった。 同時に、心臓は激しく鳴り、体中が溶けそうになる。 「……怪我は治ったのか?」 そう言いながら、ルードが手を取る。 (……怪我?) 思い出す。昼間のあの傷。 そして、ルードが—— 「……綺麗な手に痕が残ったら困るからな」 その一言に、また鼓動が跳ねた。 指先で傷痕をなぞり、唇がそこに触れる。 ゆっくりと、舐められる。 一度、二度——止まらない。 ちゅ、と小さく吸う音。 昼間よりもずっと、ずっと執拗に。 痛みを癒すように。 それだけじゃない。彼女の味を確かめるように。 舌先で、同じ場所を何度も、何度も、じっくりと。 湿った音が静寂の中で響く。 身体の奥が、沸騰するみたいに熱い。 心臓が、破裂しそう。 昼間には短く感じた時間が、今は永遠に思える。 熱と湿り気が、傷口を何度もなぞる。 ちゅう、と吸う音さえ混じって—— ルードが視線を上げた。 熱を帯びた目が、まっすぐエレナシアを捉える。 そして、唇が離れる。 「……キスしてもいいか?」 答えられない。 頷くことも、拒むこともできない。 ただ、彼を見つめていた。 ルードの顔が、近づいてくる。 ゆっくりと。でも、確実に。 心臓の音が、頭の中で響く。 呼吸すら忘れてしまいそうなほど、彼の瞳だけが視界を満たしていく。 もっと近く。 彼の吐息が触れる。 ——そして、唇が重なった。 柔らかく、あたたかい。 体中に電流が走る。 甘く、とろけるようなキス。 身体の芯が熱い。 溶けていくような、沈んでいくような、心地よさ。 (……もっと) 足りない。 もっと。もっと—— 離れかけたルードの首に、手が伸びる。 無意識のまま、引き寄せた。 もっと触れていたい。 もっと、彼に。 ◇ 夜明けが近い。 焚き火が静かに燃える中、ルードはちらちらとエレナシアの方を見ていた。 さっきから、彼女の寝相が落ち着かない。 もぞもぞと身体を動かし、ときおり眉を寄せている。 声は出さない——出せないのは当然だが、それにしても様子がおかしい。 (……やっぱ体調、悪いのか?) 昨日の傷は大したことなかったはずだ。 でも、もしかして悪化したのか。 それとも、熱でもあるのかもしれない。 ルードは薪を一本火にくべた。 追っ手のことを考えれば、のんびりしていられる状況ではない。 だが—— (エレナシアが体調崩してたら?) (無理に歩かせて、もっと悪くなったら?) 思考がぐるぐる回る。 「……チッ」 小さく舌打ちして、頭をかく。 (何やってんだ、俺は) 無理させて倒れられたら元も子もない。 でもここで足止めされて、追っ手に追いつかれたら—— ……どっちに転んでも最悪だ。 (そもそも、あの傷だって……俺がちゃんと見てれば) 自己嫌悪のようなものが喉元までこみ上げる。 けれど答えは出ない。 そのとき、エレナシアがまた小さく身じろぎした。 ルードは火のそばを離れ、そっと彼女に近づく。 額には汗。 頬は赤く、息も荒い。 ひどくうなされているようだった。 (……起こした方がいいか) しゃがみ込み、顔を覗き込む。 「……おい、大丈夫か?」 そう声をかけると、びくりと彼女の身体が震える。 「エレナシア、起きろ」 そう言って頬に軽く触れた、次の瞬間—— 「っ……ちょっ——」 エレナシアの腕がいきなり伸び、ルードの首に回される。 引き寄せられる形で、体ごと倒れ込む。 「ん……!?」 抵抗する間もなく、唇が触れ合った。 焚き火の爆ぜる音だけが、夜の静けさに響いていた。 ◇ 何か、温かいものが唇に触れている。 柔らかくて、でも確かな感触—— (……え?) ゆっくりと意識が浮かんでくる。 夢の続き、じゃない。これは—— エレナシアは薄く目を開けた。 目の前に、ルードの顔があった。 近い。近すぎる。 そして、唇が……触れている。 (——!?) 心臓が跳ね上がる。 全身に電流が走った。 夢じゃない。 これは現実。 本物のルード。 本物の——キス。 なぜ? どうして? 混乱した頭では理解が追いつかない。 ただ、彼の体温だけが、はっきりと伝わってくる。 自分の手が、ルードの首に回っていた。 引き寄せているのは——私? 彼の瞳に、驚きと困惑が浮かんでいるのが見えた。 「っ、放せ」 ルードがエレナシアの腕を掴み、引き剥がすようにして身を離す。 一歩、二歩と後ずさった。 沈黙。 エレナシアの心臓は、破裂しそうなほど激しく鳴っていた。 息がうまくできない。 夢の続きだと思っていた。 でも、これは現実。 自分から、彼を—— 頭が真っ白になる。 頬が熱い。 体が震える。 ルードは視線を逸らし、髪をかきむしった。 「うなされてたから……起こそうとしただけだ」 ぶっきらぼうな声。 けれど、どこか動揺していた。 「俺がしたわけじゃねえぞ……お前が、急に……」 視線は合わない。 耳が少し赤くなっていた。 「まぁ……寝ぼけてたんだろ……」 そう言い残すと、ルードは立ち上がり、焚き火のそばに座る。 背を向けて、火をいじりはじめた。 エレナシアは震える手で筆談用の紙と筆を取り出す。 文字がうまく書けない。 何度か書き直して、ようやく見せた。 『ごめんね』 ルードがちらりと振り返る。 「別にあやまることじゃねえけど……」 火がパチパチと音を立てる。 しばらくして、ルードがぽつりと口を開いた。 「……なんか夢でも見てたのか?」 心臓が跳ねる。 慌てて紙に書く。 『見てない』 「……そうか?」 即答しすぎた。 ルードが怪訝そうに眉をひそめる。 「……なんかすげえ顔してたけど」 頬が熱くなる。 どんな顔をしていたのだろう。 エレナシアは強く首を横に振り、もう一度書いた。 『見てない』 「本当かよ……」 疑わしげに呟いたが、それ以上は追及してこなかった。 どんな夢だったのか—— それは、ルードにだけは絶対に知られてはいけない気がした。 焚き火の音が、かすかに跳ねる。 エレナシアは静かに目を伏せ、夢の続きを胸の奥にしまい込んだ。 深呼吸をして、鼓動を落ち着けようとする。 けれど、ふと下半身に違和感を覚えた。 湿った感触―― (……え?) ルードはまだ背を向けている。 それを確認してから、外套でそっと隠しながら触れてみる。 (……やだ) 確かに、濡れていた。 (私……もしかして) (お漏らし……した?) 恥ずかしさで顔が熱くなる。 情けなさで、涙がにじみそうになる。 寒かったせい? 水分を摂りすぎた? 考えても、答えは出なかった。 けれど、今はとにかく――どうにかしなければ。 服を整え、ルードの背中に手を伸ばして袖を引っ張る。 「……どした」 振り返った彼に紙を見せる。 『ちょっと着替える』 ルードは訝しげに眉をひそめた。 「着替え……?」 こくりと頷いて、もう一枚見せる。 『汗かいたから』 一瞬、何か言いかけたようだったが、思い直したように口を閉じる。 「……わかった」 ルードはまた黙って火に向き直った。 エレナシアはそそくさと岩場の陰へ移動し、着替えを始める。 一刻も早く、脱ぎたかった。 下着を脱ぐ。 粗相にしては量が少なかったのが唯一の救いだった。 スカートは、無事。 (変な夢見て……その上漏らしちゃうなんて……) ルードには、絶対に言えない。 その日―― エレナシアは初めて、ルードに秘密を持った。