第20話 The Hanged Princess (Upright) 

ルードが木にもたれて、こちらを見た気がした。 雪の上には、何本も足跡がついている。 矢が刺さった跡も、うっすらと雪に隠れかけていた。 「そろそろ少し休むか」 声が落ち着いていて、あたたかい。 エレナシアは筆を手に取る。 『もう終わり?』 「最初から根詰めても続かねえぞ」 微かに笑った彼が、雪を押しのけて腰を下ろす。 「今日はここまでにしとけ」 エレナシアも、そっとその隣に座った。 指先に、うっすらと残る痛みがある。 (……思ったより、力がいる) ぴんと張った弓の感触が、まだ手の中に残っていた。 ふと、ルードの声が落ちる。 「……手、貸せ」 思わず顔を上げると、彼はもう手を伸ばしていた。 「見せろ」 そっと手を取られ、なぞられる。 その指は優しくて、少しくすぐったい。 「やっぱり、ちょっと擦れてるな」 親指が、指の腹をやわらかくなでる。 触れられたところが、熱い。 でも、痛いわけじゃない。 うまく言葉にできないけど、不思議な感覚だった。 「……慣れるまで、もう少し時間がかかる」 「明日も、やるか?」 手を離さないまま、そう言われた。 彼の指が、さっきより長く触れている気がした。 けど、痛くはなかった。 筆を握りなおして、頷く。 ルードは何も言わずに、手を離した。 ◇ 夜の空気は、冷たかった。 森の奥、白く染まった世界の中で、風が細く吹き抜ける。 音はほとんどなく、雪を踏みしめる感触だけが、足元に静かに響いていた。 ルードは木にもたれながら、ちらりとエレナシアを見る。 彼女は、じっと夜空を見上げていた。 月の光が淡く降り注ぎ、白銀の景色をぼんやりと照らしている。 手のひらを広げると、静かに雪が落ちてきた。 すぐに溶けるかと思ったが――指先に、じんわりと冷たさが残る。 「……痛かったか?」 エレナシアは、首を傾げる。 「初めてなら、指や腕が痛むだろうし……あと、体格によっては引きにくいこともある」 少し考えるように目を伏せたあと、彼女は筆を走らせた。 『ちょっと引きにくかった』 「なら、明日は胸当てでも探すか」 エレナシアの手が、一瞬だけ止まる。 それから、少し間を置いて―― 『……ないと、だめ?』 そう書いて、目を伏せたまま紙を差し出してくる。 ルードは、思わず眉をひそめた。 「そりゃあ、下手したら怪我するかもしれねえし……」 口ではそう言いながらも、なんとなく続けづらくなる。 (……もしかして、気にしてるのか?) 本来なら、初心者ほど胸当ては必要だ。 弦が当たれば痛みだけでなく、アザになることもある。 エレナシアは普段、着込みすぎているせいか、体つきがあまり目立たない。 だが、実際のところ、細身の割に曲線はちゃんとある。 特に、胸のあたりは―― (……いや、何考えてんだ、俺) ルードは、そっと自分の思考を振り払う。 だが、ふと気づく。 エレナシアが、胸元のあたりを押さえていた。 ほんのわずかに、だが確かに。 「……おい」 声をかけると、エレナシアは驚いたように顔を上げた。 「当たったのか?」 エレナシアは、少し視線を彷徨わせるようにして、筆を走らせる。 『ちょっとだけ』 「……っ」 ルードは、内心でため息をついた。 「……大丈夫とか言ってねぇで、少しは考えろ」 そう言いながら、荷物を探る。 そして、適当な包帯を引っ張り出し、無造作にエレナシアへ突き出した。 「巻いとけ」 エレナシアは、それを受け取る。 そして、手のひらで広げ、少し考え込んだあと、筆を走らせた。 『どうやって?』 「……普通に、こう……」 言いかけて、ルードは口をつぐむ。 どう考えても、説明できる気がしない。 (つーか、俺が考えなきゃならねぇのか? いや、考えたくねぇ……) 「……適当に巻いとけ」 無理やり言葉を押しつけ、そっぽを向く。 エレナシアは少し考えたあと、袖をまくり、包帯を手に取った。 そして、胸元にあてがい、ぎこちなく巻こうとする。 ルードはちらりと横目で見て―― (いや、下手すぎんだろ) 数秒の逡巡。 (……知らねぇぞ、俺はもう知らねぇからな) そう思いつつも、気づけば手が動いていた。 「……貸せ」 エレナシアは驚いたようにルードを見つめるが、素直に手を止める。 (服の上から巻くだけ。服の上から巻くだけ……) 包帯を受け取る。 少しでも意識したら負けだと、本能が告げている。 だが、エレナシアは何も気にしていない様子で、ただじっとルードの手元を見ていた。 (……こいつ、なんでこういう時だけ、妙に素直なんだ) 意識するな、と自分に言い聞かせながら、できるだけ無駄のない手つきで包帯を巻く。 けれど、ほんの一瞬、指先が彼女の身体のラインに触れそうになった瞬間―― 「っ……!」 ルードの動きが止まる。 エレナシアが怪訝そうにルードを見上げる。 紫紺の瞳が、不思議そうに揺れていた。 声にはならず、代わりに小さな手が筆を握る。 無邪気に綴られた文字が、ルードの視界に入る。 『……大丈夫?』 エレナシアはただ、じっとこちらを見つめている。 その瞳は、どこか不思議そうに揺れていた。 「……問題ねぇ」 ルードは無言で包帯を締め直す。 「……これでいいだろ」 エレナシアは、一度自分の胸元を確認し、それから筆を走らせた。 『ありがとう』 「……別に大したことじゃない。」 ぶっきらぼうに言い放ち、誤魔化すように目をそらした。 エレナシアは不思議そうにルードを見ていたが、特に何も言わず、ただ静かに頷いた。 ◇ 焚き火の橙色の光が、ルードの横顔を照らしていた。 エレナシアは、そっと紙を広げる。 筆を動かし、ひとことだけ記す。 『どうだった?』 ルードがちらと視線を寄越す。 「……どうって?」 『私の弓』 一拍置いて、さらに続ける。 『……うまくなれる?』 ルードは、少しだけ迷うように目を伏せた。 「……ああ」 「ちゃんと当ててたしな」 声は低く、どこか慎重だった。 「……うまくなれるよ。お前なら」 その言葉に、エレナシアは小さく笑みを浮かべる。 筆が、また紙の上を滑る。 『もっと頑張れば、ルードの役に立てる?』 書き終えて顔を上げると、ルードの動きがふと止まっていた。 焚き火の揺らぎの中で、彼はしばらく何も言わなかった。 やがて、押し出すように口を開く。 「……そう、だな」 「……でも、無理はすんなよ」 そう言って、ほんの少しだけ微笑んだ。 焚き火の火の粉がふっと舞い上がる。 その光が揺れたとき、ルードが静かに息を吐いた。 そして――ほんの一瞬。 エレナシアは気づいた。 (……なんでだろう) さっき、彼はたしかに笑っていた。 けれど今の顔は、どこか寂しそうで。 同じ人の表情なのに、胸の奥がざわついて、落ち着かなくなる。 エレナシアは、筆を持ったまま、小さく息を吸った。 何かを書こうとして、でも何も浮かばず―― ただ、焚き火の炎を見つめていた。 ◇ 焚き火の残り火を始末しながら、ルードはエレナシアの様子をちらりと見た。 彼女はもう身支度を済ませ、荷物をまとめている。 「今日もやるか?」 ルードが尋ねると、エレナシアはすぐに紙を取り出した。 『やりたい』 即答だった。迷いもない。 昨日、弓の練習に付き合ったばかりだ。本来なら少しでも距離を稼ぎたいところだが―― ルードは小さくため息をついた。 「……わかった。少しだけだぞ」 エレナシアは嬉しそうに頷いた。 ◇ エレナシアは弓を手に取り、昨日教わったとおりの構えをする。 足の位置、弓の持ち方――まあ、悪くない。 「狙いを定めろ。あの木な」 ルードが指差した先の木の幹を、エレナシアはじっと見つめる。 息を吸って、弦に指をかける。 そして――引く。 腕が震えた。 弦が半分も引けないうちに、力尽きたように腕が下がる。 「……もう一回」 促すと、エレナシアは再び構える。 今度は少し引けたが、やはりすぐに腕が震え始めた。狙いも定まらないまま、力なく弓が下りる。 三度目。四度目。結果は同じだった。 フォームは悪くない。むしろ、教えたとおりにきちんとやろうとしている。 問題は――。 「……やっぱ、力が足りねぇな」 エレナシアは悔しそうに唇を噛み、弓を下ろした。 ルードはエレナシアから少し離れた場所で、ポケットに手を突っ込んだまま見守っていた。 『どうしたらいいかな?』 紙を見せられて、ルードは少し考え込む。 力をつける方法――正直、一朝一夕でどうにかなることじゃない。 けれど、これだけやる気に満ちているエレナシアに、水を差すようなことは言いたくなかった。 エレナシアはじっとルードを見つめている。 真剣に、彼の言葉を待っている。 「……まぁ、筋トレとか」 そう答えると、エレナシアはきょとんとした顔をした。 ルードはぐるりとあたりを見回す。 ちょうどいい高さの枝が目に入った。 「あれ使うか」 そう言って、枝のある木へと近づいていく。 「ぶら下がって、腕だけで引き上げろ」 ルードが枝を指差して言うと、エレナシアは静かに頷いた。 迷いはない。 不安な様子もない。 ただ、やる気だけが満ちている。 枝は少し高い位置にある。 エレナシアは軽くジャンプして枝を掴んだ。 足が地面から離れ、ぶら下がる格好になる。 「顎が枝より上にくるまでな」 エレナシアは真剣な顔で力を込める。 腕が震えた。けれど、体は上がらない。 数秒耐えたが、やがて力尽きたように――。 「っ」 手が滑りかける。 「おい!」 ルードが咄嗟に駆け寄り、後ろから支えた。 その瞬間――。 (……やべ) 手が、柔らかいものを掴んでいた。 (まずい……離さないと……) 頭ではわかってる。すぐに離すべきだ。 (いや、でもここで急に離したら、逆に意識してるみたいじゃねぇか……) (って、それより謝るのが先だろ……) 思考が空回りする。 「悪い……わざとじゃない」 掠れた声でそう言いながら、ようやく手を離した。 エレナシアは地面に降り立ち、ルードを振り返る。 顔が少し赤い。 (……気づいてるよな、絶対) ルードは視線を逸らし、咳払いをした。 「……お前、体力なさすぎだろ」 話を逸らすように、ぶっきらぼうに言う。 エレナシアは体勢を立て直すと、少し俯いた。肩が小さく落ちている。 (……気にしてんのか) ルードは内心で舌打ちした。 (まあ、無理もねぇか) ずっと城に閉じ込められてたんだ。体力なんてなくて当然。 むしろ――。 ずっと歩き続け、危険な目に遭い、道なき道を進む日々。 エレナシアは一度も弱音を吐かなかった。 その理由に、期待してしまう自分がいる。 もしかしたら――。 (……いや) ルードは思考を振り払った。 健気すぎるエレナシアの姿に、胸が痛む。 期待なんてしちゃいけない。 「……焦らなくていい。そのうちどうにかなるだろ」 ルードはそっけなく言うが、声は無意識に柔らかくなっていた。 エレナシアは少し考えてから、紙を取り出した。 『お手本見せてほしい』 ルードはその文字を見て、一瞬眉をひそめる。 「お手本……?」 (まぁ、別にいいけど) (そんな手本とか見てできるようなもんでもねぇだろ) そう思いつつも、頼まれると断れない。 「……わかった」 ルードは枝に手をかけた。 エレナシアの身長に合わせた高さだから、足を浮かせるのにも力がいる。 だが、それでも――。 軽々と体を引き上げる。 一回、二回、三回。 五回目まで難なくこなすと、そのまま地面に降り立った。 「……こんな感じだ」 エレナシアは正面から、じっとルードを見つめていた。 キラキラとした目。純粋な憧れのまなざし。 ルードは思わず視線を逸らした。 そして、エレナシアが紙を差し出す。 『すごい』 『かっこいい』 一瞬、息が詰まる。 (かっこいい……?) (……俺が?) 言われた言葉が、頭の中で反芻される。 褒められてる、よな。これ。 (喜んでいいやつか……?) 思わずニヤけそうになって――。 (いや、特に深い意味はないだろ) すぐに思い直す。 (っていうか、深い意味ないのにそういうこと軽々しく言うなよ……) 喜びを上書きするように、無理に冷静になろうとする。 エレナシアが自然に近づいてきて、ルードの腕をじっと見つめる。 「……なんだよ」 居心地が悪くなって、少し突き放すように言う。 すると――。 「……っ、なにしてんだよ……!」 いきなり袖をまくられた。びっくりして声が裏返る。 エレナシアは真剣な表情で、露わになった腕にそっと触れてくる。 (なんか……くすぐったいっていうか……) (変な気分になるだろ……!) 抵抗したいのに、エレナシアがあまりにも興味津々で、振り払うに振り払えない。 そのまま触れ続けていたエレナシアが、少しだけ指先に力を入れて押し込んできた。 反射的に、ルードは拳を握る。 エレナシアが目を見開き、筆を走らせた。 『すごく硬い』 息が詰まる。 (……だめだろ、その言い方は……) そんなつもりで言っていないのはわかってる。 なのに、なぜかそういう方向に思考が持っていかれる。 (……だめなのは俺の頭だ……) ルードは静かにまくられた袖を戻した。 「やめろよ……お前、手ぇ冷えてんだからよ……」 それを言うだけで精一杯だった。 ◇ その後の移動中も、エレナシアは通りすがりの枝を見つけては、ひょいと飛びついてぶら下がっていた。 体はまだ上がらず、ぷらぷらと揺れるばかり。 それでも諦めずに何度も挑戦する姿に、ルードは思わず口元を緩めた。 (……かわいいやつ) どうしてそこまで頑張れるんだか。 強くなろうとする気持ちは、悪いことじゃない。 なのに――ほんの少しだけ、胸の奥がざわついた。 けれど、揺れる銀髪と真剣な横顔を見ていると、その違和感もすぐに溶けていく。 報われてほしいと思う気持ちのほうが、ずっと勝っていた。 ルードは小さく息をつき、何事もなかったように歩みを進めた。