第19話 雪はただ、降り積もるだけ
朝が来ても、まだ夜の気配が残っているようだった。
昨夜の焚き火の燃え跡が、かすかに煙を立てている。
その名残を見つめながら、エレナシアは静かに自身の唇に触れた。
(……夢、じゃない)
微かに火照った唇が、それを思い出させる。
あのときのルードの瞳。
強く引き寄せられた感覚。
胸の奥が、まだ熱を持っているような気がした。
けれど――
(……今までと、何かが変わったわけじゃない)
ふと視線を上げると、少し離れたところでルードが準備をしていた。
いつもと変わらない、ぶっきらぼうな横顔。
まるで、昨夜のことなんてなかったかのように。
(ルード……)
名前を呼びたくなる衝動を、ぐっと飲み込んだ。
彼の方から何も言わないのなら、きっと、私から言うべきじゃない。
――何か言葉を交わせば、何かが決定的に変わってしまう気がする。
エレナシアは、息を整えて顔を伏せた。
自分でも気づかぬうちに、胸の奥がずっと落ち着かないままだった。
気を紛らわせるように、荷物をまとめる。
昨夜の雪は止み、空は澄んでいた。
日が昇り始めたばかりの朝。
朝靄の残る森の中、冷えた空気が静かに漂っている。
「……準備できたか?」
ルードの声が響く。
エレナシアは筆を握り――
『もうちょっと』
そう書いて、彼を見上げた。
ルードは一瞬だけエレナシアを見たが、すぐに視線を逸らし、背を向ける。
その横顔には、昨夜の余韻など微塵も感じられなかった。
(……そういうもの、なの?)
自分の気持ちがわからなくなる。
エレナシアもまた、小さく息を吐いた。
いつも通りに。
何もなかったかのように。
でも、本当は全然、いつも通りなんかじゃなかった。
◇
朝の冷え込みが、まだ空気の中に色濃く残っている。
深く息を吸い込むと、肺の内側までじんわりと冷えていくのがわかった。
(……なんで、あんなこと、しちまったんだ)
焚き火の残り香が、かすかに鼻をかすめる。
昨夜の記憶が、まだ身体の奥にくすぶっていた。
あんなふうにするつもりじゃなかった。
触れたいと思った瞬間には、もう、止まれなかった。
気づけば、引き寄せて、唇を重ねていた。
(……最低だな)
彼女の手の温もり。
触れた頬の柔らかさ。
驚いたような、その瞳。
忘れられるわけがなかった。
それでも。
結局、エレナシアが自分をどう思っているのか――わからないままだ。
ただ、拒まれはしなかった。
嫌がられたわけでも、避けられたわけでもない。
(……伝わった、と思ってもいいのか?)
都合よく解釈するのは簡単だった。
けれど、それを信じてしまえば、きっとまた期待してしまう。
エレナシアは、いつも通りだった。
隣で、荷物の整理をしている。
昨夜のことなど、まるでなかったかのように。
それが――救いでもあり、どうしようもなく苦しかった。
だが、答えを求めるつもりはない。
一緒にいられるなら、それでいい。
いや――“それがいい”と思えた。
左耳に手をやり、ピアスのチェーンを指先でそっと弾く。
落ち着かないとき、こうしてピアスに触れる。
ふと視線を上げると、エレナシアが背を向けていた。
その細い肩越しに流れる銀髪を、無意識に目で追ってしまう。
気づけば、彼女の仕草を目で追っている時間が増えていた。
何気ない仕草、表情、まばたきすらも、胸に小さな痛みを残す。
風が吹いた。
その瞬間、伸びすぎた前髪が視界にふわりと入り込んだ。
(……伸びたな)
昔なら、気になったらすぐに切っていた。
今は――気づけば、ほったらかしだった。
無頓着だったわけじゃない。
余裕がなかっただけだ。
気持ちの問題かもしれない。
けれど、髪くらいは、自分で整えておきたいと思った。
そうすれば、この燻った想いも少しは整理できる気がした。
ルードは、太もものベルトに手を伸ばす。
手馴れた動作で小さなナイフを取り出した。
戦闘用のものではない。
刃の角度も厚みも違う、生活用の細工ナイフ。
手入れを欠かしたことはない。
……いつ手に入れたのか、誰かにもらったのか。
思い出そうと思えば、思い出せる。
けれど、あえてそうしないだけだった。
手に馴染む感触だけが、今も確かに残っている。
ルードは腰を下ろすと静かに刃の確認をし、
自分の髪を手で掬った。
まずは前髪。
眉にかかりそうなあたりを、ざっくりとではなく丁寧に整える。
刃が滑るように毛を断ち切る、乾いた音がした。
雪に散った黒の毛先が、風にさらわれて舞っていく。
次に、サイドと後ろも手早く整えた。
指で束をすくい、長さを確かめながら、必要な分だけを静かに削ぎ落とす。
まるで、内側に絡みついたものまで、切り落とすかのように。
整えられた髪が、軽く揺れる。
額にかかっていた重みが消えたせいか、視界が少しだけ澄んで見えた。
そのときだった。
背後から、ふと、視線を感じた。
振り向かなくても、わかる。
エレナシアが、こちらを見ていた。
「……どうした?」
ふと視線を向けると、エレナシアが近づいてきていた。
どこか真剣な表情をしている。
ルードは、わずかに身構える。
彼女は無言のまま、筆を取り出し、紙に一言だけ綴った。
『ナイフ、貸してほしい』
眉がわずかに動く。
何に使うつもりなのか、一瞬だけ迷う。
けれど、彼女の目に迷いはなかった。
特に断る理由も見当たらなかった。
ルードは手にしていた生活用ナイフを、柄を向けて差し出した。
エレナシアはそれを受け取る。
一言も発せず、髪をひとまとめに掴んだ。
そして、ためらいなく――
ザクッ、と一閃。
銀色の髪が、束ごと切り落とされ、ふわりと宙に舞った。
雪の上に、さらりと散らばっていく。
「……なっ」
思わず、声が漏れた。
「なにしてんだ、お前……!」
ざくりと切られた髪が、雪の上に散らばっていく。
静かな朝の白に、淡く染み込むように。
筆を取り出し、さらりと書く。
『ずっと邪魔だなって思ってた』
『これからも旅を続けるなら、短いほうがいいかと思って』
新しくなった髪が、風にふわりと揺れた。
肩先で留まるその銀の束に、彼女は何の感慨もなさそうに触れることもなく、いつも通りの顔をしていた。
「……」
ルードは、何も言えなかった。
言葉にされれば、ただの実用的な判断に聞こえる。
でも、その裏にあるものを――勝手に、期待してしまいそうになる。
”これからも旅を続ける”
それはつまり、自分の隣にいるということ。
自分と共に行く道を、選んだということ。
――いや、違う。
深い意味なんかない。
答えなんか求めないと決めたのは、こっちだ。
なのに、また――
また、彼女の言葉に意味を探している自分が、情けなかった。
ルードは、小さく舌打ちしそうになるのを飲み込むと、ため息まじりに呟いた。
「……だからって、適当に切るなよ」
無造作に断たれた毛先が気になって仕方なかった。
「整えてやる。そこに座れ」
エレナシアが少しきょとんとしたようにナイフを見て、
無言のまま、柄を向けて差し出してくる。
ルードはそれを受け取り、刃の角度を確かめた。
ナイフの刃が光を受けて揺れた。
どこか、静かで優しい光だった。
◇
ルードの言葉に、エレナシアは少しだけ首を傾げた。
それから、手にしたナイフを無言で彼に返す。
彼がそれを受け取り、膝をついて構えるのを見て――
エレナシアは、静かにその場に腰を下ろした。
冷たさはあったけれど、それよりも。
どこか落ち着かなかったのは……たぶん、彼の手がすぐ近くにあるからだった。
ルードは、彼女の髪を指先で軽くすくい上げる。
留められていたバレッタがわずかに揺れた。
ルードは、それを外し、無言でポケットに仕舞う。
冷えた刃が、そっと髪に触れた。
「……動くなよ」
エレナシアは、静かに目を閉じた。
ナイフが髪を断つ音がした。
ルードは、丁寧に、しかし迷いなく手を動かしていく。
エレナシアは、何も言わず、ただじっとしていた。
(……ルードの手、意外と優しい)
無造作に髪をかき分けながら、ルードが軽く指を動かす。
そのとき、彼の耳元で 細いチェーンが微かに揺れた。
『……そのピアス』
ふと筆を動かすと、ルードは軽く眉を上げる。
「ん?」
『ずっとつけてるね』
ルードは一瞬、無造作にピアスを指で弾く。
細いチェーンが微かに揺れ、光を反射した。
「まぁな」
ナイフの刃が、静かに髪を切る音が響く。
ルードの手は止まらない。
『……自分で開けたの?』
エレナシアがそっと筆を動かすと、ルードは手を止めた。
「……ミリィに開けられた」
(……ミリィに?)
心の奥が、きゅうっとなる。
冷たいはずの朝の空気よりも、ずっと鋭く、ちくりと胸を刺す感覚。
エレナシアは、筆を取りながら一度だけ呼吸を整える。
そのまま、一言だけ綴った。
『……そうなんだ』
そう筆で書くと、ルードは 「なんだ、その顔」 と軽く口の端を上げた。
『……なんでもない』
ルードは呆れたように鼻を鳴らし、再びナイフを持ち直す。
刃先が滑らかに動き、エレナシアの髪がさらりと落ちた。
エレナシアは、切られる感触をぼんやりと感じながら、
揺れるピアスを、何度も目で追っていた。
「……終わった」
ルードはナイフを布で拭いながら、ポケットに手を入れる。
取り出したのは、さっき外したバレッタだった。
ルードは髪を手で軽く整え、そのまま何気なくバレッタを留める。
エレナシアは、ふと指先でそれに触れた。
(……まだ、つけられる)
少し、安心する。
ルードは、特に何も言わず、ふっと視線を逸らした。
『どう?』
ただの確認のつもりだったのに、返ってくる言葉を待っている自分がいた。
「なんで俺に聞くんだよ」
それを聞いてルードは、困ったように眉をひそめる。
『鏡がないから、わからない』
鏡がないのは、ルードが自分の身だしなみに無頓着だから。
自分の髪がどう見えるかなんて、きっと気にしたこともない。
けれどエレナシアは、整えてくれた髪が彼にどう見えているのか。
ただ、それだけが気になった。
ルードは、何か言いかけて、少しだけ黙り込んだ。
だから、少しだけ、踏み込んでみたくなった。
『……可愛い?』
その文字を見たルードが、はっきりと息を詰めるのがわかった。
自分でもどうしてそんな質問をしたのかはよくわからない。
けれど、どうしてか彼の口から聞きたくなった。
しばらくの沈黙のあと、喉を振り絞るように、ぎこちなく言葉を紡ぐ。
「可愛い……」
ぽつりとそう呟いたかと思うと、ほんの少し間を空けて続けた。
「……って思うんじゃねえの?……普通は」
その言い方が、なんだかおかしくて。
少しだけ嬉しくて。
エレナシアは、ふっと笑った。
ルードはその笑顔に、視線を逸らすでもなく、見つめ返すでもなく――
ただ、ほんの少しだけ頬を赤く染めた。
◇
彼女は、これからも旅を続けると言った。
目的だった“雪を見ること”は、もう果たしたはずだ。
それでも、彼女はこれからも一緒にいて欲しいと言ってくれた。
行くあてなど、もちろんない。
けれど、追っ手のことを考えれば、もっと王都から離れた方がいい。
いずれ、名前も知らない土地へ足を踏み入れることになるかもしれない。
それでも――
彼女と一緒なら。
(……今、何考えた?)
思考がふと逸れたことに、自分で驚く。
彼女と一緒にいられるなら。
そんなに幸せなことは、ないと。
そんなふうに考えた自分がいた。
(……俺が、幸せになんて)
なれるわけがない。
なるべきじゃない。
過去の罪が消えることはない。
許されたとも思っていない。
けれど。
(あいつには、笑ってて欲しい)
それだけが、今の彼を動かす、ただひとつの祈りだった。
こうして今も隣にいてくれる――その事実だけで、
胸の奥がどうしようもなく、締めつけられる。
物資は、今のところ足りている。
だが、この先が長くなるのなら、きちんと補給しておいた方がいい。
雪国を抜ければ、慣れない環境も増えるだろう。
せめて、旅の支度くらいは万全に。
そう思って、街を目指すことにした。
◇
路地を歩いていると、エレナシアがふと立ち止まった。
買い物の途中で彼女が足を止めることは、そう珍しくない。
いつもは焼き菓子や小さな飾り物に目を奪われている。
けれど、今回は違った。
「気になるもんでもあったか?」
ルードが声をかけると、彼女はちらりと顔を上げる。
その視線の先にあったのは、武器屋だった。
(……武器?)
エレナシアはルードの顔を見つめてから、ゆっくりと筆を走らせた。
少しだけ様子を伺うように、紙を差し出す。
『私も、武器が欲しい』
ルードは思わず眉をひそめた。
「お前が?」
いったい、どういう風の吹き回しだ。
けれど、彼女は真剣な顔をしていた。
「そんな細い腕じゃ、武器なんてまともに扱えねえだろ」
エレナシアは、わかりやすくむっとした表情を浮かべる。
すぐさま、また筆が動いた。
『そんなことない』
『ちょっとだけ、筋肉ついた』
そう書いてから、片腕を曲げて見せる。
小さく、誇らしげな仕草。
まるで「どうだ」と言わんばかりに。
ルードは一瞬だけ目を逸らした。
……いや、目を逸らしたふりをした。
(……これ、触っていいやつか?)
そう思いながらも、エレナシアは触って確認しろ、と言っているようだった。
「まあ、腕くらいなら」と、都合のいい言い訳を用意して、そっと指先を伸ばす。
ぷに、と。
「……ぷにぷにだな」
その一言に、エレナシアの顔がじわりと曇った。
さっきまでの誇らしげな表情が、
いっきにしぼんでいく。
……それが妙におかしくて、ルードはつい、口元を緩めそうになった。
(武器なんか、持たなくたっていいのに)
(俺が守れば、それで済む話だ)
そう思った。
けれど、妙に意気込んでいる彼女にそれを言ってしまうのは――
どこか、水を差すような気がして。
ルードは何も言わずに、武器を物色するエレナシアの背を見守っていた。
彼女は、陳列された中のひとつに視線を留める。
鉄製のメイス。
柄の先に重たい鉄球がついた、無骨な鈍器。
(まさか、それか?)
エレナシアは、両手でそっとそれを持ち上げようとする。
けれど、腕に力を込めるたびに肩がぴくぴくと震え、顔はみるみるうちに真っ赤になる。
(……可愛いな、おい)
そんなことを思っていた矢先、エレナシアの体がぐらりと傾いた。
「……っと、あぶね」
反射的にルードが手を伸ばし、彼女の身体を支える。
想定外の接触に、二人とも一瞬だけ動きを止めた。
エレナシアの横顔が、ほんのりと赤く染まっているように見えたのは――
気のせいじゃなかったかもしれない。
「ほら、無理すんなって」
ルードは、メイスを彼女の手から外して元の位置に戻す。
エレナシアは、しょんぼりとした顔でそれを見送った。
つい、ルードの口元が緩む。
「……そんな顔すんなよ」
――俺が守ってやるから。
そう言いかけて、飲み込んだ。
代わりに、彼女の指が筆を動かす。
『私も、戦えるようになりたい』
筆は止まらない。
『……ルードの力になりたい』
筆を置いた彼女は、そっとルードを見上げる。
静かなその瞳には、言葉以上の決意がにじんでいた。
その表情を見た瞬間、ルードは息を呑んだ。
守られるだけの存在じゃない。
彼女は、自分の足で立とうとしている。
誰かの影に隠れるんじゃなくて――隣に、並ぼうとしていた。
(……でも、もしこいつが、俺の手なんか借りなくても一人で戦えるようになったら)
どうしても、そんな考えが浮かんでしまう。
(俺が隣にいる意味は、どこに残る?)
けれど、それでも。
彼女の願いを否定したくなかった。
たとえ、その先に“自分の役目がなくなる日”があったとしても。
それでも、彼女の笑顔のために――
それが、俺にできる償いなのだから。
「せめて、軽いのにしといたらどうだ」
落ち込んでいるエレナシアに、声をかける。
彼女は「その発想はなかった」とでも言いたげに目を見開いて、あたりをきょろきょろと見渡した。
しばらく悩むように黙りこみ、やがて筆を走らせる。
『ルードに、選んでほしい』
「……俺に?」
顔を上げたエレナシアの眼差しは、どこか期待を含んでいた。
その視線の意味を、ルードは読み切れなかった。
「ルードが選んだものを使いたい」――そういう信頼なのか。
それとも、「自分にできることを知りたい」だけなのか。
どちらにせよ、彼女はルードの答えを待っていた。
「……そうだな」
この眼差しを見て、適当に選ぶわけにはいかない。
安全を第一に考えれば、なおのことだった。
短剣は、却下だ。
近づかないと使えないうえに、相手を倒すには一撃で急所を狙うしかない。
そんな使い方、経験のない奴にできるわけがない。
片手斧も、見た目の割に扱いが難しい。
一発の重さはあるが、外したときの反動が大きすぎる。
体格も筋力もないエレナシアには、持ち上げるのが精一杯だろう。
……そして。
彼女が、得意げに持ってきたのは――鞭だった。
「……」
ルードはしばし絶句した。
(いや、それは……ねぇだろ)
軽くて扱いやすそうではある。けど。
それ以上に、なんというか――
想像してしまった。
細い腕で鞭を振るう彼女の姿。
ひたむきに戦おうとしてるだけなのに、なぜかいやに艶っぽく見えるのはなぜだ。
(いや、何を考えてんだ俺は)
顔をかすかにしかめて、そっと鞭を取り上げる。
「……これは、やめとけ。いろんな意味で、危ない」
エレナシアはきょとんとしていたが、深く説明するつもりはなかった。
絶対に。
店を物色していると、ふと、目に留まった武器があった。
弓だった。
(……これなら重くないし、遠距離から狙える分、危険も少ない)
近接武器とは違い、直接刃を交える必要がない。
相手に近づかせずに済むというだけでも、大きな利点だった。
自分でも、多少は教えられる。
とはいえ、使いこなせるようになるかどうかは、本人の資質とやる気次第だ。
(……いや、すぐに使えるようになる必要はねぇ)
今はまず、「一緒に戦いたい」という、その気持ちを尊重するべきだった。
その先のことは、今は考えなくていい。
自分ひとりでなら、どうとでも戦えるのだから。
「……これなら、お前でも持てるだろ」
そう言って、店の中でもっとも軽そうな弓を手に取り、彼女に手渡す。
エレナシアは、驚いたような顔をしたあと、そっとそれを受け取った。
その仕草が、なんだかプレゼントをもらった子どもみたいで――
ルードは思わず、小さく笑いそうになった。
弓を大事そうに脇に抱えたまま、エレナシアは筆を走らせる。
『……私に、できるかな?』
弓の扱いだけを聞いているわけじゃない――
そんな気がした。
まるで、なにかを確かめるような目だった。
ルードは、少しだけ間を置いてから答える。
「……そりゃ、やる気次第だろ」
その一言に、エレナシアがほんの少しだけ身構えるのがわかる。
だから、続けた。
「ま、俺が教えてやるよ」
今度は、はっきりと――嬉しそうに、彼女が微笑んだ。
◇
「……まずは構え方からだ」
そう言って、弓を構える姿勢を取る。
エレナシアもそれを真似して、足を開いた。
「両足は肩幅より少し開けて、安定させろ」
「腕は力を抜け。ただし、弦を引くときはしっかりと指に力を入れる」
エレナシアは、真剣な表情で聞いていた。
まるで、すべてを吸収しようとするかのように。
彼女は、弓を握る指先に、少しだけ力を込めた。
ルードは、そんなエレナシアの様子を見て、わずかに目を細める。
その必死さが、ルードの心を締めつけた。
(……本気で、強くなろうとしてる)
(……なら、俺も本気で教えるしかねぇな)
「じゃあ、試しに引いてみろ」
エレナシアは、ルードの指示通りに弓を構え、矢を番えた。
「……」
ゆっくりと弦を引いて――
「っ……」
一瞬、腕が震えた。
弓の張力に負けそうになり、矢がぐらつく。
「……力を入れすぎだ」
静かな声で言う。
「無理に引こうとするな。もっと肩の力を抜いて、矢の重みを感じろ」
エレナシアは、小さく頷いた。
けれど、もう一度試しても、やはり腕が震えている。
「……」
ルードは、しばらく彼女の様子を見ていたが――
(……仕方ねぇ)
軽く舌打ちをして、彼女の後ろに回った。
「手を貸す」
エレナシアの手に、そっとルードの指が重なる。
(……っ)
触れた瞬間、自分が余計なことをしてしまった気がした。
思わず、彼女の反応を窺う。
……が。
エレナシアは、特に何の疑問も抱いていないようだった。
(……そりゃ、そうだよな)
ルードは、苦笑をかみ殺す。
自分だけが、勝手に焦って、勝手に意識している。
「……ほら、もっと肩の力を抜け」
自分に言い聞かせるように、淡々と指導を続ける。
エレナシアは、ルードの手に支えられたまま、再び弦を引いた。
(近い……)
弓の指導って、こんな密着する必要あったか?
(……いや、教えてるだけだ)
冷静になれ。
別に変なことしてるわけじゃない。
エレナシアは相変わらず真剣な表情だった。
なのに、なぜか自分の体温だけがじわじわと上がっていく。
(せっかくこいつが真面目にやろうとしてるのに、俺は……)
「……」
ルードは、一瞬だけ目を閉じると――
「ほら、撃て」
短くそう言った。
エレナシアは、弦を引き、矢を放つ。
――シュッ
矢は、木の幹に向かって飛んだが――
軽く弾かれた。
「……力が足りねぇな」
ルードが、低く言った。
「矢はちゃんと当たってる。けど、引く力が足りない」
「もっと強く、安定して撃て」
エレナシアは、再び弦を引く。
しっかりと狙いを定め――
矢が、空を切る。
そして――
コツッと音がして、矢が的の中心に深く刺さった。
エレナシアの指先が、わずかに震える。
ルードは、その様子をじっと見て――
「……やるじゃねぇか」
ぽつりと呟く。
エレナシアは、驚いたようにルードを見上げた。
「……まあ、頑張ったな」
それだけ言って、ルードはエレナシアの頭に、ぽんと手を置いた。
軽く、髪を撫でる。
エレナシアは、瞬きをした。
まるで予想していなかったような反応。
けれど、嫌がる様子もない。
ただ――
どこか、驚いたように ルードの顔をじっと見つめている。
ルードは、それを見て少し眉を寄せた。
(……何だよ、その顔)
(撫でられるの、そんなに珍しいか?)
自分としては 「自然にやった」 つもりだった。
だが、こうもじっと見られると、何か変なことをしたような気がしてくる。
「……嫌だったか?」
少しだけ間を置いて問いかける。
エレナシアは、迷うように筆を取り――
『……嫌じゃない』
短い文字が、白紙の上に並ぶ。
その筆跡は、どこか慎重で―― ほんのわずかに、嬉しそうにも見えた。
ルードは、それを見て――
「……そっか。なら、よかった」
小さく呟きながら、そっと手を離した。
手のひらに、彼女の 髪の柔らかさだけが微かに残る。
さっきからずっと胸の奥にある、このじんわりとした苦しさ。
それを振り払うように、ルードは静かに空を仰いだ。