第18話 雪の温度、君はまだ知らない
旅を再開してから数日。
行き先は決まっていない。
けれど、引き返す場所も、もうなかった。
エレナシアは、変わらないように見えた。
けれど、よく見れば――ほんの少しだけ、違っていた。
前よりも、スキンシップに遠慮がなくなってきている。
それが無自覚なのか、それとも慣れなのか。
ルードには、まだ判断がつかなかった。
ある日、街中での補給の途中。
エレナシアが焼き菓子の並ぶ屋台でふと足を止めた。
(……本当に甘いもんが好きなんだな)
彼女が見つめる視線の先にあったのは、素朴な焼き菓子。
何も言わず、ルードは一つ買い求めて彼女に手渡す。
特別な理由があったわけじゃない。
けれど――その顔が見たかった。
エレナシアは小さく筆を走らせる。
『ありがとう』
そして、ぱっと表情を明るくして微笑んだ。
それだけのこと。
ただ、それだけのことなのに。
(……ああ、俺はこいつのこういう顔に惹かれたんだ)
こんなふうに無邪気に笑う姿を、見ていたかった。
けれど今は、その笑顔が苦しい。
何も届いていないように思えて。
この優しさも好意も、何ひとつ気づかれていないようで――。
ルードが言葉に詰まっていると、エレナシアがふと筆を動かす。
『ルードも食べてみる?』
彼女が手にした焼き菓子は、すでに一口かじられていた。
そのまま、ためらいなく差し出してくる。
一瞬、視界が揺れた。
(……まじかよ)
喉がひとつ、音を立てた。
だがその直後、エレナシアは何かに気づいたように菓子を半分に割ると、
自分が口をつけていない方を差し出してくる。
それは照れでも、気遣いでもなかった。
そう、“当たり前”の行動として。
(……なに、動揺してんだよ)
(こいつは、何も思ってないってのに)
自分だけが変に意識して、馬鹿みたいだった。
「……お前が全部食えよ」
そう言って視線を外す。
まるで、何でもないふうを装いながら。
けれど胸の奥では、さっきの“ほんの一瞬の距離の近さ”が、まだ熱を残していた。
◇
一方、エレナシア自身も、ほんの少しだけ変化していた。
ルードに好きだと言われたあの夜から、何かが違う。
ルードが、以前より近く感じる。
でも、それは距離の問題ではなく、もっと……曖昧で、よくわからない感覚だった。
今まで通りに接しているつもりなのに、
ルードの顔をじっと見つめると、なぜか胸の奥がふわっと熱くなる。
ふと、ルードの手が自分の方に伸びると、僅かに指先がこわばる。
何かを話そうとすると、ルードの目を見てしまい、言葉が詰まる。
(……変だな)
ルードはいつもと変わらない。
なのに、どうしてこんなに気になるんだろう?
エレナシアは、自分の中の 「得体の知れない感情」 を持て余し始めていた。
◇
焚き火が、小さくぱちりと音を立てた。
夜は冷え込んでいたが、二人の座る距離は、決して寄り添うほどではない。
けれど、向かい合うわけでもなく、ただ、隣に並ぶようにして腰を下ろしていた。
(……気のせいか?)
エレナシアとの距離が、いつもより少しだけ近い気がした。
足の先が、かすかに触れそうなほどに。
(いや、気のせいだろ)
先日の告白が、まだ尾を引いている。
それが原因で、過剰に反応しているだけだ。
こいつは――まだ何もわかっていない。
すべての仕草に意味を探してしまう自分が、ひどく滑稽だった。
ふと、エレナシアの足元に黒い影が走った。
小さな、けれどあからさまに不気味な――蜘蛛だった。
次の瞬間、エレナシアがびくりと肩を跳ねさせ、咄嗟にルードに抱きついてきた。
(……っ)
衝撃に、呼吸が止まりかける。
そのまま、固まる。
(やばい……)
前にも、こんなことがあった。
エレナシアが蜘蛛を怖がって、抱きついてきたことが。
けれど、あのときと今とでは、決定的に違っていた。
あの頃、エレナシアはまだ“仕事”だった。
対象でしかなかった。
でも、今は――
彼女の体温が、じかに伝わってくる。
やわらかな感触とともに、体中が熱を帯びる。
頭がどうにかなりそうだった。
(……震えてるのか)
恐怖からの反応なのは、わかっている。
けれど、それでも。
(……もし、今このまま抱きしめたら?)
そんな考えが、ふと脳裏をよぎる。
安心させたい、守りたい――
その気持ちは確かにある。
だけど、もし今それを口実にしたら。
(……俺は、止まれるか?)
エレナシアは、何もわかっていない。
ただ、俺のことを「安心できる相手」だと思っている。
その信頼を――
もし、欲に任せて裏切ったら。
そんなことを考えている自分に、吐き気がするほど嫌悪感が沸いた。
ルードは、ようやく視線を地面に落とし、静かに言った。
「……もういなくなったぞ」
蜘蛛の影はすでに見当たらない。
エレナシアが、そっと体を離す。
鼓動が、まだ触れた場所に残っている気がした。
彼女は筆を手に取り、一言だけ書いた。
『ごめんね』
ルードはかすかに頷くだけだった。
密着した体から伝わる彼女の鼓動が少し早かった気がしたが――
それも、きっと勘違いだろう。
◇
その日の旅路は長かった。
町へ辿り着くには、あと数時間はかかる距離だったが――
「これ以上、歩くのは危険だな」
日が落ちた直後、ルードはそう判断し、エレナシアと共に道を外れた森の中で野営することを決めた。
焚き火の薪を集め、最低限の風避けを確保し、地面に防寒用の毛布を敷く。
決して快適ではないが、凍え死ぬことはない程度の準備は整えた。
──それなのに。
夜になって、突然、雪が降り始めた。
最初はちらつく程度だったのが、徐々に白く舞い落ちる量を増していく。
今さら場所を変えるのは難しい。
火を絶やさないように気を配りつつ、夜を乗り切るしかなかった。
ルードは、焚き火の明かりに照らされるエレナシアをちらりと見た。
彼女はいつものように静かに筆を手に持ち、ルードの向かいに座っている。
雪が、静かに降り積もっていく。
焚き火を挟んで、二人並んで座っていた。
言葉もなく、ただ、炎の揺らぎと雪の音のない気配が周囲を包む。
その静けさの中で、ふと、エレナシアが筆を取った。
紙の上に、さらさらと文字が綴られていく。
『雪、見られて良かった』
そう綴られた紙を見て、ルードは一瞬だけ視線を落とした。
その筆致は柔らかく、どこまでも素直だった。
「……なんだよ、急に」
照れ隠しのように呟くと、エレナシアは小さく微笑んだ。
『ずっと憧れてたから』
焚き火の揺らぎが、その笑顔を照らす。
雪を見上げる彼女の横顔は、どこか満たされたようで――
それが、ルードにはひどくまぶしく見えた。
「お前が見たいって言ったんだろ……」
ほんの少し、声が掠れた。
それでも、平静を装うようにルードは言葉を継ぐ。
「だから、連れてきただけだ」
ただの事実。
そう言い聞かせるように。
エレナシアが頷く。
(お前の望みを叶えてやりたかった)
(……お前が、好きだから)
そう、伝えたはずだった。
けれど――
(お前は……知らないんだろ)
俺が、どれだけお前を想ってるか。
いや、それでいい。
今のままの距離なら、穏やかでいられる。
この想いのせいでこいつを壊してしまうくらいなら――
その考えが、胸の奥で静かに疼いた。
エレナシアが焚き火の光を受けながら、筆を動かす。
『ルードと見られて、良かった』
『ルードが私を連れ出してくれて、良かった』
一瞬、時間が止まった気がした。
(……良かった?)
胸の奥に、なにか鋭いものが突き刺さる。
静かで、柔らかいはずの言葉が――どうしようもなく重たかった。
(……やめてくれ)
そんなふうに、赦すみたいなことを言わないでくれ。
俺は、お前を攫った。
金のために。
その事実は、変わらない。
それでも――想ってしまった。
気づけば、手を伸ばしてしまった。
雪が降る。
静かに、確かに、絶え間なく。
冷たいはずの白が、じわじわと胸の奥を覆っていくようで――
それでもその下にある想いは、凍ることも、消えることもなかった。
降り積もる雪のように。
ただ、重なっていくばかりで。
だからせめて。
この想いが、お前と同じじゃないのなら――
優しさで、全部を帳消しにしないでくれ。
◇
それから数日が過ぎた。
伝えたはずの想いは、やはり届いてはいなかった。
ルードは、言葉にならない焦燥と、どうしようもない罪悪感を抱えたまま、静かに日々を過ごしていた。
夜の静寂は、澄んでいて、どこか冷たかった。
遠くの森の輪郭すら、降り積もった雪に霞んでいる。
ルードは、ふと自分の肩に積もった雪を払い落とした。
けれど、すぐにまた新しい雪が降りかかる。
まるで、自分の想いのようだと思った。
何度払っても、気づけばまた降り積もっている。
冷たく、重く、それでも消えずにそこにある。
このまま降り続ければ、きっといつか――
限界を越える。
かじかんだ手で、焚き火を起こそうとした。
何度試しても、うまくいかない。
指先がかたくなり、思うように動かない。
そのとき、そっとあたたかいものが触れた。
エレナシアの手だった。
彼女は、何のためらいもない顔で、ルードの手を両手で包み込んでいた。
当たり前のように。
何も特別なことではないかのように。
(……なんでだよ)
ルードの喉が、わずかに鳴った。
なんで、そんな簡単に触れてくる?
前はそんなことしなかったくせに。
俺は、お前に「好きだ」って言ったんだ。
それを聞いたあとで、どういうつもりでそんなことしてくるんだ。
(……お前も、同じ気持ちでいてくれてるんじゃないのか?)
そんな希望が、ふと心の隙間から顔を出す。
(……違う。そんなわけない)
ありもしない期待に、また自分が騙されようとしていた。
嫌気がさした。
恥ずかしさと、悔しさと、苦しさが、全部ごちゃ混ぜになって押し寄せる。
(何とも思ってないのに……こんなことするのか?)
そんなこと考えてる自分に吐き気がする。
それでも、抑えきれなかった。
硬直しているルードを見て、エレナシアはまた、あの何も知らないような、安心したような微笑みを浮かべた。
その笑顔が――刺さった。
エレナシアの両手が、まだルードの右手を包んでいる。
けれど――その指先も、冷たかった。
焚き火は、まだついていない。
温もりはない。
光もない。
ただ、闇と雪がふたりを包んでいた。
(……もう、ダメだ)
赦されなくていい。
赦される資格なんて、ない。
けれど、せめて。
せめて、確かめたい。
言葉では伝わらないのなら。
ルードは、そっとエレナシアの手を引いた。
包まれていた手を、自分の方へ。
抵抗はなかった。
彼女の身体が、ゆっくりと、自然に傾いてくる。
炎の揺らぎもない暗がりの中、
白い息が、ふたりの距離で交じり合う。
ルードは、彼女の頬に触れた。
そして――
唇が、静かに、重なった。
◇
ルードの唇が、自分の唇に触れている。
意識が、ふっと飛ぶ。
熱い。
焚き火はまだ灯っていないというのに、
この熱だけが、どうしようもなく確かだった。
思考が追いつかない。
でも、それを考えるよりも先に、心臓が異常なほど速くなる。
その瞬間――
微かに、冷たいものが頬をかすめた。
ルードのピアスが、彼の動きに合わせてふわりと触れた。
金属の感触が肌に残る。
ルードの唇は、強く押し付けるわけではない。
けれど、離れる気配もない。
確かめるように、ゆっくりと動く。
(……ルード)
名前を呼ぼうとした。
けれど、声が出ない。
ただ、彼の指がそっと後頭部へと回り、さらに引き寄せられる。
(この気持ちは、何……?)
わからないまま、ただ胸の奥が熱くなっていく。
彼が近くにいることが、どうしようもなく嬉しいような、怖いような――そんな感覚だった
唇が離れた。
ほんの数秒だったはずなのに、永遠みたいに長く感じた。
まだ、ルードの指先が頬に触れている。
じんわりと熱が残っていて、そこだけが、雪の夜に取り残されたようだった。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
ただ、視界に映る彼の瞳が、どこか苦しげで、どこか悲しげで――
そして、どうしようもなく、切実だった。
ルードが、かすれるように口を開いた。
「……ごめん。止められなかった」
音になった瞬間、その言葉が胸にすとんと落ちる。
なぜか、息がうまくできなかった。
「でも……どうしても、伝えたかった」
彼の手はまだ、エレナシアの手を引いたまま。
手のひらに、彼の熱がじんわりと残っている。
ゆっくりと筆を取ろうとしたけれど、指が動かなかった。
震えていたのかもしれない。
それとも、何を書けばいいのか――わからなかったのか。
そんな自分に気づくのが、少しだけ怖かった。
ルードが、もう一度だけ言葉を絞り出す。
「俺が、どれだけ――お前を、好きなのか」
鼓動が跳ねた。
どうして、こんなふうに言われると、胸の奥が痛くなるんだろう。
言葉の意味はわかる。
だけど――まだ。
まだ、自分の心は。
(……わからない)
降り積もる雪のように、心が覆われていく。
でも、それは 雪が手のひらの上で儚く溶けるように、一瞬のものなのかもしれない。