第16話 雪のように、君に溺れる
夜の帳が降りた宿の一室。
暖炉の火だけが、赤く揺れていた。
ルードは、壁にもたれるようにして眠っていた。
片膝を立てたまま、腕を組んで。
微かに身じろぎをした瞬間、肩に触れる感触があった。
(……?)
瞼をうっすら開ける。
薄暗い部屋の中、目の前に、彼女がいた。
エレナシアが、そっとこちらを覗き込んでいる。
小さく身をかがめ、指先で窓のほうを指さした。
そして、小さく――けれど、心から嬉しそうに微笑む。
ルードは、ぼんやりと視線を動かし、窓の外を見た。
(……あぁ)
外は、白かった。
雪が、しんしんと降っていた。
音もなく、ただ静かに夜の景色を染めていく。
(……ほんとに、降ったんだな)
エレナシアは、ぱっと立ち上がった。
扉を開け、雪の舞う外へと小走りに出ていく。
「おい……!」
慌てて体を起こし、扉の向こうに消えていく姿を追いかける。
「……上着くらい着ろよ。ったく……」
そう言いながら、ルードは自分の外套を手に取り、立ち上がった。
彼女が見たかった雪。
その中を、無邪気に駆けていく後ろ姿が、妙に遠く感じられた。
外に出ると、冷たい空気が肌を撫でた。
ルードは外套を片手に、宿の建物の影から外を見渡す。
視線の先には、雪の中に佇むエレナシアの姿があった。
月明かりに照らされながら、彼女は空を見上げていた。
ふわり、手を伸ばす。
その掌に、雪が一片、落ちてくる。
彼女はそれを、じっと見つめていた。
まるで、小さな奇跡に出会ったような表情で。
無邪気で、真っ直ぐで――少しだけ切ない。
ルードはゆっくりと歩み寄ると、彼女の肩にそっと外套をかけた。
驚いたように、エレナシアがこちらを振り向く。
筆を取り出し、慣れた手つきで言葉を綴る。
『ありがとう』
そしてまた、雪に目を戻す。
さらさらと落ちる雪の中で、彼女は再び筆を走らせる。
『音がしないのが、ふしぎ』
『風もないのに、雪だけが降ってくる』
『きれい……』
その言葉たちは、どれも短くて。
でも、あふれるように書き連ねられていた。
ルードは、ただ黙って見つめていた。
その横顔を。
その瞳の輝きを。
雪なんて、見慣れていた。
家族も、故郷も、過去は全部、雪に消えた。
だからこそ、もう見ることはないと思っていた景色だった。
それなのに今――この雪の中で。
彼女は笑っている。
捨てたはずの景色の中で、こんなにも眩しく笑っている。
(……なんでだろうな)
目が離せなかった。
手が、勝手に動きそうになる。
胸が痛む。呼吸が苦しい。
どうでもいいみたいな顔して、とっくにどうでもよくなくなってた。
ずっと、誤魔化してきた。
そうしないと、自分の中の何かが崩れそうで。
だけど。
こんな顔を――こいつの、こんな顔を。
(……見たかったんだ、ずっと。)
冷たいはずの空気が熱い。
視界がじんわりと滲む。
──俺は、こいつが好きだ。
今さらだった。
遅すぎた。
だけど、それでも。
この気持ちには、もう嘘をつけなかった。
(……ダメだ)
わかっている。
けれど、止まらない。
エレナシアが、筆を持ったまま小さく首を傾げる。
心なしか、頬が熱を帯びているように見えた。
筆が走る。
『どうしたの?』
ルードは、答えられなかった。
喉が、ひどく渇いていた。
何かを言えば、すべてが溢れてしまいそうで。
雪が降る。
静かに、音もなく。
ルードは、ゆっくりと手を伸ばした。
指先が、エレナシアの頬に触れる。
あと少し。
ほんの少しでも近づけば――
その温もりに触れられる。
エレナシアは、じっとこちらを見ていた。
逃げない。
拒まない。
(……なら、もういいだろ)
何も言わないなら、それは 許されるということなのだと。―― 錯覚した。
だから、ルードは 顔を寄せる。
指先が、エレナシアの頬をなぞる。
ほんのわずかに、彼女の体温が伝わる。
その熱に、ルードの鼓動が跳ね上がる。
唇が触れる寸前、エレナシアのまつげが震えた。
その刹那――
彼女の瞳が 不意に、戸惑いに揺れるのを見た。
(……なんだ?)
ルードの思考が、一瞬で冷える。
エレナシアの瞳が、驚いたように揺れていた。
――「どうして、こんなに近いの?」
そんな声が、聞こえてきそうだった。
ルードの脳内で、何かが軋むような音を立てた。
目の前のエレナシアは、こちらを受け入れようとしている顔ではなかった。
彼女の瞳に映るのは、驚きと困惑。
(……そんな、バカな)
急激に、冷静になる。
(こいつ、俺の気持ちに気づいてないのか?)
こんなにも、自分は熱を持っているのに。
彼女がこんなに近くにいて、こんなに綺麗で――
いや、違う。
ルードは、自分だけが暴走していたことを悟る。
彼女は何も知らない。
俺の気持ちも、何も。
理解した瞬間、ルードの全身に冷や汗が流れた。
「っ……」
自分に呆れるように、息を詰める。
そして――
一気に、距離を取った。
目を逸らす。
手を引く。
全身の熱が、雪に吸い込まれていく。
そして、静かに息を吐く。
「……悪い」
それだけを、搾り出すように言った。
エレナシアは、ただじっとこちらを見ていた。
俺だけが、好きになった。
俺だけが、限界だった。
エレナシアは、まだルードの気持ちを知らない。
だったら――
「……風邪引くぞ」
短く言い残し、ルードは宿に向かう。
その後ろをエレナシアも小走りでついてきた。
宿に戻ると、ルードは無言で窓を閉めた。
舞い込んでいた冷たい風が、雪とともに静かに消える。
室内には、暖炉の火だけが揺らめいていた。
ルードは、そっと目を閉じる。
外では、雪がまだ降り続いている。
静かに、深く、積もることも恐れずに――ただ落ちていく。
――まるで、抗えない想いに溺れるように。
◇
朝が来るのが、これほど憂鬱だと思ったことはなかった。
ルードは、目を開けた瞬間、頭を抱えたくなる衝動を必死にこらえる。
(……結局、ほとんど眠れなかった)
昨夜の出来事が、何度も頭の中で反芻された。
エレナシアが雪に触れて、嬉しそうに微笑んだあの瞬間。
その姿を見た途端に、自分の中の何かが崩れ落ちたこと。
気づけば、あと少しで唇を重ねるところだった。
――そして。
何も知らずに困惑した目で、自分を見つめていた彼女の顔が、今も焼きついて離れない。
(……何をしようとしてたんだ、俺は)
思い出すたびに、叫びたくなるような衝動に駆られる。
考えれば考えるほど、どうしようもなく苦しくなった。
もう、誤魔化せないほどに――
自分はエレナシアに惹かれている。
けれど、彼女は「そんなふうに見られている」なんて、微塵も思っていない。
(……どうすればいいんだ)
言えばいいのか?
でも、もしこの関係が崩れたら。
彼女の隣にいる理由を、もう持てなくなる。
それが、怖かった。
不意に、静かな音がした。
ルードは顔を上げる。
エレナシアが、小さな紙を差し出していた。
『おはよう』
相変わらず、穏やかで変わらない仕草。
その変わらなさが、なぜか胸に刺さる。
ルードは、少しだけ間を置いて、頷いた。
「……おう」
エレナシアは、再び筆を走らせる。
『何か、考え事してる?』
「……なにが?」
『昨日から少し様子がおかしい気がして』
心臓が跳ねた。
何を、どこまで覚えている?
いや、覚えているも何も――
きっと彼女にとって、昨夜のことは「ルードの様子がおかしかった出来事」でしかないのだろう。
(あの距離で……何も、思わなかったのか)
ルードは、ぐっと奥歯を噛みしめた。
それが、余計に苦しかった。
「……気のせいだろ」
誤魔化すように言った声は、妙に乾いていた。
エレナシアは、じっとルードを見つめたあと、小さく筆を動かす。
『無理しないでね』
その一言に、ルードの胸がわずかに揺れた。
(……心配、してくれてるんだな)
優しさだった。
何も知らないのに、彼女はこんなにも自分に優しい。
だからこそ、どうしようもない焦燥感が胸に広がる。
(……なんで、俺なんかに優しくするんだよ)
それが同情なのか、別の何かなのかはわからない。
けれど、きっとエレナシアは、信じて、ついてきてくれている。
その想いを、裏切るわけにはいかない。
この関係を壊すわけにはいかなかった。
ルードは、握りしめた拳をそっと解き、できるだけ平静を装って言う。
「……大丈夫だ」
エレナシアが、ふわりと微笑んだ。
『……なら、よかった』
その微笑みが、ひどく眩しくて。
(何が“大丈夫”なんだよ)
(ちっとも、大丈夫なんかじゃねぇよ)
心の中で、そう呟いた。
◇
食事の準備を進める間も、ルードの思考は落ち着かなかった。
とにかく、このまま何も考えずに前に進むしかない。
余計なことを考えなければ――。
その時、ふっと冷たい指先が、ルードの手に触れた。
「……!」
ルードの呼吸が止まる。
エレナシアの指が、ルードの手の甲に重なった。
細くて、冷たくて、震えるほど軽い。
それなのに、その熱は――ひどく鮮明だった。
エレナシアは、ルードの手を握ったまま、さらさらと紙に何かを書いた。
『……あったかい』
そう見せながら、彼女は 何の疑いもない顔 で微笑んだ。
ルードの心臓が、大きく跳ねる。
(……っ、こいつ)
エレナシアにとっては、ただの何気ない行動なのだろう。
彼女は寒さをしのぐために、ルードの体温を感じたかっただけ。
けれど、ルードにとっては違う。
これは――限界を試す行為 だ。
(やめろ……)
(そんな顔で……無邪気に、触れるな)
どうして、何も気づかない?
どうして、そんなに簡単に触れてくる?
不意に、エレナシアの指がわずかに動いた。
指先が擦れ合う。
これは、耐えられない。
「……食え」
短く言い捨て、ルードは手を引く。
エレナシアは 大人しく手を引っ込める。
気にした様子もなく、パンをちぎり始める。
その様子を見ながら、ルードは思う。
(……このままじゃ、ダメだ)
この関係を続けるなら、はっきりさせなきゃならない。
(言うしか……ないのかもな)
だけど――
覚悟なんて、まだできていなかった。
◇
人通りの多い街の広場。
ルードはエレナシアとともに、食料の補充を終え、宿へ戻ろうとしていた。
とにかく今日は疲れている。
それなのに――
「ねぇ、お嬢さん、可愛いね」
ルードの足が、ぴたりと止まった。
またか。
「こんな寡黙そうな奴と一緒じゃつまらないだろ?」
また、か。
ルードは 静かに、深く息を吐いた。
(……うんざりだ)
視線を向けるまでもなく、相手がどんな男かはわかる。
軽薄な笑み。手慣れた口調。
適当に声をかけ、軽い気持ちで女を誘う。
そして、今目の前でその相手にされているのは――エレナシアだった。
ルードの眉間に、深い皺が刻まれる。
「兄ちゃん、彼女の何なの? きょうだい?」
ルードは答えなかった。
その代わりに、エレナシアが筆を走らせる。
『違う』
紙を見せられた男は、面白がるように口角を上げた。
「へぇ? じゃあ、恋人?」
――何かが軋む音がした。
ルードの中で、確実に何かが 崩れ落ちる音だった。
エレナシアは ルードをちらりと見て、少し考えたあと、さらさらと筆を動かす。
ルードは 目を閉じた。
(……頼む)
(何も書くな)
エレナシアが、静かに紙を差し出す。
ルードは、目を開ける。
『ちがう。でも、特別』
視界の端が、わずかに滲んだ気がした。
「へぇ~、いいねぇ。可愛い顔して一途なんだ?」
男が笑う。
その瞬間、ルードの中で何かがプツンと切れた。
エレナシアの腕を、ルードは無言で引いた。
強引ではない。
だが 拒否の意思が、はっきりと伝わる力加減だった。
「……行くぞ」
低く、抑え込んだ声だった。
ナンパ男はまだ何か言っていたが、もう耳には入らない。
ルードの表情は、氷のように冷たかった。
ナンパ男が 「そんなに怒るなよ、兄ちゃん」 と軽く笑いかけてくる。
――その瞬間だった。
ルードの足が止まる。
ゆっくりと振り向いた。
表情は変わらない。
だが、黄金の瞳に宿る光は 研ぎ澄まされた刃のように鋭い。
静かに、一歩。
もう一歩。
ナンパ男との距離を ゼロにするように 近づく。
男の顔から 笑みが消えた。
「……言っておくが、今すぐ消えろ」
ルードの声は低く、冷たく、そして確実に怒りを滲ませていた。
「俺は優しくねぇ」
「人の連れに、しつこく絡んでくるやつは――」
「後悔させる。」
男は息を飲む。
ルードの手は剣の柄に触れていた。
――その瞬間、ナンパ男の顔が引きつる。
「……はは、冗談だよ」
背を向け、 逃げるように その場を離れていく。
ルードはそれを一瞥すると、再びエレナシアの腕を引き、足を進めた。
もう、何も言う気になれなかった。
◇
しばらく歩いたところで、エレナシアがふいに立ち止まった。
ルードも足を止める。
彼女は、申し訳なさそうに筆を取り出し、迷うように視線を落とすと、そっと文字を綴った。
そして紙を、ルードのほうへ向ける。
『ごめんね』
「……何が?」
エレナシアは、少しだけ筆を動かす。
『私が、うまくあしらえないから』
『迷惑かけてるよね』
そう書き終えると、彼女はしゅんとしたように目を伏せた。
その姿を見た瞬間、ルードの拳が、思わず強く握られる。
(やめてくれ……)
悪いのはお前じゃない。
何一つ、お前のせいじゃないんだ。
「謝るなよ……」
「別に、気にしてねえし」
言葉は、思った以上にぶっきらぼうにこぼれた。
ああ、なんで俺はこういう言い方しかできないんだ。
こんなふうに突き放したいわけじゃない。
俺はお前が――
言葉が出る前に、エレナシアが筆を動かす。
『気にしてないなら、よかった』
『……すごく怖い顔してたから』
「……」
返す言葉が、出てこなかった。
気にしてない?
――そんなわけ、ねえだろ。
どうしてナンパ男を無視してすぐに連れ出したのか。
どうして、いちいちナンパされるたびにイライラするのか。
全部、答えはひとつしかない。
(……好きだからだろ)
なのに、エレナシアはそれを知らない。
ルードは、ふうっと深く息を吐いた。
こいつの隣にいるなら、もう逃げられない。
いつまでも誤魔化せるわけがない。
俺は――
この気持ちを、伝えなきゃならないんだ。
◇
ルードは、街の片隅で立ち止まった。
(……もう、逃げるのはやめだ)
そう、心の中で静かに決意する。
エレナシアの無自覚な言動に、何度も揺さぶられた。
ナンパ男への苛立ちで、感情は限界まで膨れ上がり――
これ以上は、誤魔化せない。
「なあ、エレナシア――」
呼びかけると、エレナシアが足を止めて、こちらを振り返った。
そして、じっと見つめてくる。
かすかに微笑みながら。
「……」
(まつ毛、長いな……)
(瞳……吸い込まれそうだ)
ルードは、その顔から目を離せなかった。
柔らかく笑むその表情に、自分だけが映っている――
それが、どうしようもなく愛しくて。
(……可愛すぎるだろ)
なにより、その笑顔が、
――自分に向けられたものだということが、たまらなく嬉しくて。
(……このまま、時が止まってくれたらいいのに)
ふと、エレナシアが筆を取り出す。
『どうしたの?』
小さく書かれたその文字に、ルードは我に返った。
「いや……なんでもねえ」
口に出すはずだった言葉は、
喉元で、するりと溶けて消えた。
――言えなかった。
次だ。
◇
静かな路地裏。
ルードは、エレナシアと向かい合っていた。
(……今度こそ)
そう思った瞬間、先に動いたのはエレナシアの方だった。
「……!」
彼女が、ほんの一歩だけ距離を詰めてくる。
顔を上げたルードと、真っ直ぐに視線が重なる。
じっと、見つめてくる。
そして、ゆっくりと――まるでスローモーションのように、
エレナシアが手を伸ばしてきた。
指先が、ルードの髪に触れる。
その距離は、彼女の瞳に映る自分が見えるほどに近かった。
(……もしかして)
(お前も、俺のこと――)
ルードの胸が大きく跳ねる。
……が、その手は彼の前髪を整えるようにそっと撫でつけ、
エレナシアは、何も言わずに筆を取った。
『寝癖、ついてたよ』
「……そうか」
ルードは、短くそう答えるしかなかった。
本当は、こんなささいなことを気にかけてくれるだけで嬉しい。
こんなふうに触れてくれることだって、本当なら――
けれど、もし気持ちを伝えたら。
この距離さえ、壊れてしまうかもしれない。
それが、怖かった。
ルードは、ふと顔を上げる。
見上げた空には、雲一つない青が広がっていた。
(……言えねぇよ)
今、この瞬間に「好きだ」と伝えたら――
こいつは、どんな顔をするんだろう。
それを想像するだけで、指先がじわりと汗ばむ。
ルードは、拳を握った。
(いや、次だ。……次こそ言う)
◇
今度こそ、言うしかない。
場所とか、タイミングとか――
そんなもので理由をつけて、何度も先延ばしにしてきた。
けれど、この苦しみから解放されるには。
(……言うしかないんだ)
ルードは、静かに覚悟を決めた。
「いいか、エレナシア。俺は――」
その瞬間だった。
遠くから、ざわめきと怒号が聞こえてくる。
人の叫び、騒ぎの気配。
(……なんだよ、今このタイミングで)
舌打ちするルード。
次の瞬間、こちらへ向かって逃げてくる男の姿が見えた。
強盗らしき男が、真正面から駆けてくる。
そのままエレナシアにぶつかり、彼女は尻もちをついた。
構わず逃げていく男の背中を見送りながら、ルードはすぐに屈み込んだ。
「大丈夫か?」
エレナシアの手を取って、そっと引き起こす。
彼女が無事であることを確かめたその瞬間――
ルードの瞳が鋭く細められる。
「……ここで待ってろ」
それだけを短く言い残し、ルードは駆け出す。
外套が風をはらみ、剣の柄に手が添えられていた。
◇
強盗を追い、街の外れで短い戦闘を終えたルードは、息を整えながら剣を収めた。
「……ったく、余計な手間をかけさせやがって」
今はこんなことしてる場合じゃない。
もっと大事なことがある。
ルードは振り返る。
そこには、静かに待っていたエレナシアの姿があった。
待ってろと伝えたが、気になって追いかけてきたのだろう。
(……この静けさの中なら、言える気がする)
雪が静かに舞い落ちる。
風はなく、ただ冷たく穏やかな夜。
このままじゃ、また何かに邪魔される。
今、ここで――絶対に伝える。
「エレナシア」
彼女が筆を取ろうとしたその手を、ルードはそっと止めた。
「……待て。先に俺の話を聞いてくれ」
ルードは、一度目を閉じ、深く息を吸った。
そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……お前と旅を続けて、随分経った」
「最初は……ただの仕事だった。けど、今は違う」
エレナシアの瞳が、じっとルードを見つめる。
雪の白さが、彼女の銀髪をより際立たせる。
(ああ、ダメだ。こんなに真っ直ぐ見られたら……)
言葉が詰まりそうになるのを、ルードは必死で押し殺す。
「……俺は、依頼を放棄した」
エレナシアの筆が、ピクリと動いた。
「お前を依頼主に引き渡すつもりは、もうない」
ルードは、静かに言った。
その言葉が、夜の冷えた空気の中に溶けていく。
エレナシアのまつげが揺れ、僅かに目を見開いた。
「……」
ルードは拳を握る。
「本来なら、こんなこと、ありえねぇ。仕事を放棄すれば、賞金稼ぎとしては失格だ」
「でも、そんなことはもう、どうでもいい」
喉が乾く。
「お前は、俺にとって特別だ」
エレナシアの指が、筆を握りしめる。
「お前といると、今まで知らなかったことばかりで――」
言葉が途切れる。
雪がふわりと肩に落ち、すぐに溶けて消えた。
ルードは、一瞬だけ視線を逸らし、拳を握った。
(クソ、言いづらいな……)
けれど、もう誤魔化さない。
静寂の中で、ルードはもう一度エレナシアの瞳を見つめた。
「――俺は、お前が好きだ」
◇
ルードの言葉が、冷たい夜の空気に溶けていく。
エレナシアの指先が、わずかに震えた。
「……」
何かを言いたげに口を開きかけ、しかし声は出ない。
代わりに、筆を走らせようとしたが――手が止まった。
ルードが、今、何を言ったのか。
理解するまでに時間がかかった。
――好きだ?
ルードが? 私を?
(そんなわけ……)
いや、そう思うのは簡単だった。
でも――ルードは、真剣な目をしていた。
誤魔化しでも、冗談でもなく。
ただ、まっすぐに自分を見つめていた。
その事実に、エレナシアの胸がざわめく。
頬がじわじわと熱くなっていく。
これって、つまり……
彼女は、震える手で、ゆっくりと筆を走らせた。
『……本当に?』
ルードは、その文字を見て、ゆっくりと頷いた。
「……ああ、本当だ」
迷いのない声だった。
エレナシアの心臓が、一際強く跳ねる。
(……どうしよう)
目の前のルードは、いつもと違う。
何かを隠そうとしていない、まっすぐな眼差し。
今まで 「好き」 なんて言われたことがなかった。
なのに――
(今、私……泣きそうなくらい、嬉しい)
けれど。
エレナシアは、ほんの一瞬だけ、迷った。
ルードは、「依頼は放棄した」と言った。
もう、私は「仕事」じゃない。
『でも……どうして?』
筆を差し出したあと、エレナシアはそっとルードを見上げた。
胸の奥が、じんわりと疼いている。
何もできない。
声も、出せない。
ただ隣にいただけの、私なのに。
ルードは、少しだけ目を細めた。
まるで、うまく言葉にならないものを抱えているような、そんな顔だった。
「どうしてもなにも……」
「俺は、お前を選んだ。……それだけだ」
その声が、胸の奥に、静かに落ちていった。
心が、少しだけ、熱を持った気がした。
でも、それが何の感情なのか、うまく言葉にはできなかった。
ただ――
(私を、選んでくれた)
そう思った瞬間、なぜか涙が滲みそうになった。
『じゃあ……これからも一緒にいられるの?』
その言葉を読んだ瞬間、ルードの指がピクリと動くのが見えた。
「……お前が望むなら、どこまでも」
エレナシアの胸が、じわりと熱を持つ。
――望むなら。
彼女は、少しだけ目を伏せた。
雪が肩に降る。
それはすぐに溶けて、肌に馴染んだ。
ゆっくりと、筆を握る。
(……私が望むものって)
気づけば、もう答えは出ていた。
『……これからも、私と一緒にいてね』
それが、彼女にとっての最大限の気持ちの表現だった。
名もない想いが、雪のように静かに、彼のもとへ舞い降りていく。
◇
エレナシアの筆談を見たルードは、ふっと目を伏せる。
(一緒にいてね、か)
俺が言った「好きだ」とは違う。
けれど、それでも――。
ルードは、静かに、けれど確かに微笑んだ。
「……ああ、もちろんだ」
その言葉に、エレナシアの頬がほんのりと赤く染まる。
ルードは、そっと彼女の頭を撫でた。
そしてもう一度、低く静かに囁く。
「これからも、お前の隣にいさせてくれ」
ルードがそう言うと、エレナシアはゆっくりと、こくりと頷いた。
夜の空気が雪とともに沈黙し、淡く、二人を包み込む。
積もった雪がわずかに舞い、白銀の世界に溶けていく。
言えた。
伝えた――はずだった。
なのに。
「好きだ」と言った。
「特別だ」とも言った。
けれど、エレナシアは、それを“告白”とは受け取らなかった。
雪が降る。
ルードの肩に落ちた小さな結晶は、すぐには溶けず、冷たさだけがじわりと染み込んでくる。
まるで、自分の心の奥にぽつんと降り積もるように。
エレナシアは、ただ微笑んでいる。
本当に、わかっていないのか。
それとも――わからないふりをしているだけか。
ルードは、内心で静かに頭を抱えたくなった。
そのとき、不意に筆が走る。
『私を選んでくれて、ありがとう』
一瞬で、呼吸が止まる。
ルードは目を見開き、喉がかすかに震えた。
(そんな言葉が聞きたくて、言ったんじゃねぇよ……)
“ありがとう”なんて――
俺に、そんな言葉を向けられる資格なんて、あるはずがない。
目の前には、雪に閉ざされた白銀の世界。
こんなにも静かで、こんなにも寒いというのに――
エレナシアの瞳の奥に映る自分の姿が、ひどく遠くに思えた。