第17話 君を抱きしめて、夢現
告白の翌日。
少しは胸のつかえが晴れると思っていたのに、逆だった。
ルードの心はどこか重く、足取りも鈍い。
その気分を映すように、空気はひどく冷え込んでいる。
雪はまだ止まない。
一方のエレナシアは、雪景色に浮かれているようだった。
白銀の空を見上げ、頬を赤らめながら歩いていく。
その姿には、ただ嬉しさだけが滲んで見える。
「おい」
「前を見ろ。また転ぶぞ」
声をかけた瞬間、彼女の体がふらりと揺れた。
「……言ったそばからかよ」
ルードは慌てて手を伸ばす。
エレナシアを支えようとした手が、不意に彼女の頬に触れた。
(……熱い?)
顔を覗き込むと、紅潮した頬と、乱れがちな呼吸が目に入る。
「お前、熱あるんじゃないのか?」
問いかけに、エレナシアは筆を取り、一言だけ記す。
『だいじょうぶ』
「お前の『だいじょうぶ』は信用できないんだよ」
言葉を返すこともできず、彼女は俯いたままだった。
ルードはためらいなく額に手をあてる。
「……やっぱり熱あるじゃねえか」
短く吐き出した息は、諦めと心配が入り混じっていた。
叱るつもりはなかった。
ただ無理をしてほしくなかった。
喋れない彼女にとって、体調不良を訴えることすら難しいのだと、今さら気づかされる。
「……今日は宿で休むか」
ルードの言葉に、エレナシアは素直に頷いた。
「歩けるか?」
そう言って支えると、彼女は返事をせずに腕を取り、そっと体を預けてきた。
不意に心臓が跳ねる。
無防備さは彼女の常だが、こんなふうに素直に甘えてくる姿を見たことがあっただろうか。
(……熱のせい、だろ)
浮かびかけた思考を振り払うように、自分に言い聞かせる。
それでも、昨日の記憶が甦る。
「好きだ」と伝えたのに、返ってきたのは望んだ答えではなかった。
――なのに今、こうして彼女が寄りかかってくる。
もしかしたら伝わっているんじゃないか。
同じ気持ちでいてくれるんじゃないか。
そんな想いがどうしても胸に湧き上がる。
「……歩きにくいな」
自らの雑念を打ち消すようにぼやきながら、ルードは宿へと歩を進めた。
◇
先日の貴族代理の報酬で、当面はやり過ごせるだけの蓄えはあった。
それでも、逃亡の身である以上、無駄な出費は避けたい。
そう思って極力野営でやり過ごしてきたのが、エレナシアに無理をさせてしまったのかもしれない。
ようやく見つけた宿は、ベッドがひとつしかない簡素な部屋だった。
なるべく安い部屋を選んだ結果だ。
ルード自身は床で構わない。
これまでもそうしてきた。
「ベッドは使え。俺は床でいい」
言うと、エレナシアは素直に頷き、横になった。
「寒くないか?」
問いかけに、こくりと頷く。
「欲しいものあったら、言えよ」
再び頷いたあと、彼女はふっと微笑んだ。
「……何笑ってんだよ」
思わず問い返すと、エレナシアは筆を動かして紙を差し出した。
『やさしいね』
その文字を見た瞬間、息が詰まる。
「そりゃ……そうだろ」
(……好きなんだから)
喉まで出かかった言葉を、押し込める。
素直に言ったら、気持ちを押し付けるみたいで。
どうせ伝わらないとわかっているのに。
エレナシアは再び筆を走らせる。
『ルードが優しいと、嬉しい』
無垢な瞳で、そんな紙を差し出してきた。
「……何だよ、それ」
返す言葉が見つからない。
どういう想いで書いたのかもわからない。
ただ一つはっきりしているのは、彼女が自分を信じているということだけ。
それを素直に喜んでいいのかさえ、わからなかった。
『もう、お別れなのかと思ってた』
かすれた文字に、胸が揺れる。
「……お別れ?」
問い返すと、エレナシアはぼんやりと筆を動かす。
熱のせいか、それとも眠気に飲まれているのか。
『まだ、一緒にいられるんだよね』
寝言みたいな一言。深い意味はなかったのかもしれない。
けれど、その問いは確かにルードの心に刺さった。
半ば閉じかけた瞳に、もう声は届いていないのかもしれない。
それでも。
「一緒にいるよ……これからも」
それだけは、どうしても伝えたかった。
◇
エレナシアが眠ってから、どれほど時間が経っただろうか。
熱が上がったのか、呼吸は次第に荒くなっていく。
(……俺のせいだ)
自分の都合で無理をさせて、こんなに苦しませている。
そばにいてやることしかできないのが、ひどく歯痒かった。
額は汗に濡れ、長い髪が肌に張りついている。
ルードはそっと髪を払う。指先に伝わる熱に、思わず息を呑んだ。
布で額を拭い、首筋へと下ろしていく。
胸元がわずかにはだけ、白い肌を伝う雫が視界に入る。
その滴がゆっくりと滑り落ちるのを目で追ってしまい、慌てて視線を逸らした。
(……病人相手に、何考えてんだ俺は)
そう思えば思うほど、胸の鼓動は速まっていく。
布越しに伝わる熱。上下する呼吸に合わせて肌がわずかに動く。
ただ汗を拭くだけのはずなのに、手の震えを抑えられなかった。
「……くそ」
小さく吐き出す。理性で抑え込もうとすればするほど、胸の奥のざわめきは大きくなる。
そのとき、エレナシアが身じろぎし、眉を寄せた。
「っ……」
か細い息が漏れる。助けを求めるように。
けれど声にはならない。
悪夢にうなされているのではない。もっと深いところに根ざした苦しみ。
ルード自身にも覚えがある種類のものだった。
気づけば、彼女の手を握っていた。
理由はわからない。
ただ、そうせずにはいられなかった。
――瞬間、異変が走る。
指先が痺れ、腕を伝い、全身に広がっていく。
まるで彼女の内から溢れる何かが流れ込んでくるように。
心臓は乱れ、視界が揺らぐ。
「……くっ……」
額を押さえたとき、鼻の奥が鋭く痛み、赤がシーツに滴った。
朦朧とする意識の中、エレナシアを見る。
熱に浮かされ、苦しげに呼吸する彼女の体から、淡い光が漏れていた。
(……魔力の暴走か)
感情が昂ると力が溢れる――そう、彼女は言っていた。
夢の中で、過去が彼女を苛んでいるのだろう。
「……エレナシア」
呼びかけても、届いたのかどうかはわからない。
だが、頬を一筋の涙が伝った。
それを見て、一瞬呼吸が止まる。
エレナシアの涙を見たのは、これが初めてだった。
彼女と出会ってから幾度も危険に晒されてきたが、気丈に振る舞い、涙をこぼしたことは一度もない。
(今まで、どれだけ我慢してたんだ……)
考えるだけで、目の奥が熱くなる。
『一緒にいられるんだよね』と、か細い文字で確かめてきた彼女の姿が脳裏をよぎる。
本当は不安で、それでも信じようとしていた。
そして今、眠ったまま流した涙が、その証のように思えた。
こいつを守ってやれるのは、俺しかいない。
そう思ったら、理性も罪悪感もどうでもよくなった。
気づけば、彼女を抱き寄せていた。
魔力に蝕まれる体も、鼻から流れる血も構わず、ただ強く抱きしめる。
(こんな、細い体で……)
抱きしめながら、彼女の背をそっと撫でる。
「大丈夫だ……俺がそばにいる」
その言葉を繰り返しながら、ルードは夜が明けるまで彼女を抱きしめ続けた。
◇
いつの間にか、ルードは気を失っていた。
目を開けると、窓の向こうは白み始めている。
頭は重く、視界もかすかに揺れる。
けれど昨夜の朦朧とした感覚に比べれば、まだましだった。
真っ先にエレナシアの様子を確かめる。
火照っていた頬の赤みは消え、規則正しい呼吸が静かに部屋に満ちていた。
どうやら魔力の暴走も、いつの間にか収まっていたらしい。
安堵したのも束の間――彼女の服もシーツも、自分の血でべっとりと染まっている。
気を失っている間も出血が続いていたのだろう。
(……流石にこのままってわけにはいかねぇ)
だが、着替えさせるには一度服を脱がす必要がある。
起こして自分で着替えさせるのが一番だ。
けれど、魔力の暴走があったと知られれば、エレナシアはきっと自分を責める。
(……俺がやるしかねぇよな)
汚れが上半身だけなのは、不幸中の幸いか。
とはいえ、好きな女の着替えを直視して正気でいられる自信はない。
(目を瞑れば……いける)
昔、目潰しされても剣を振れるようにしろ、と言われたことを思い出す。
(剣が振れるなら、着替えくらいできるだろ……)
無理やりな理屈で決意を固めた。彼女に悲しい顔をさせないために。
目を固く閉じ、ルードは慎重に肩口へと手を伸ばす。
血で固まった布地は思った以上に硬く、指先に嫌な感触が伝わってきた。
一番上のボタンを探り、悪戦苦闘しながら一つずつ外していく。
目を閉じているせいで、普段なら簡単な作業もやけに手間取る。
(……頼むから、起きてくれるなよ)
心の中で願いながら、ブラウスを肩からそっと滑らせていく。
髪が絡まないよう片手で頭を支えつつ――
(今、何触ってる……?)
手の甲に柔らかな感触。思考が一瞬止まる。
目を閉じているせいで確信は持てない。
(いや、落ち着け。今は肩のあたり……多分……)
心臓の鼓動が速まるのを感じながら、新しい服に手を伸ばした。
清潔な布の感触に少しだけ安堵する。
(よし、今度は着せる番だ)
袖に腕を通そうと手探りで位置を探っていると、また別の柔らかな感触が――
(……待て。これは……違うよな……?)
顔が熱くなるのを自覚しながらも、ルードは歯を食いしばって作業を続けた。
◇
なんとかエレナシアを起こすことなく着替えさせることに成功したルードは、自分も着替えを済ませ、彼女が目覚めるのを待っていた。
(……ここまでして起きないのも、ある意味すげえな)
結果的に助かったものの、エレナシアの眠りの深さには内心驚かされる。
やがて、ぼんやりと目を開けたエレナシアが、もぞもぞと筆談道具を探した。
ルードは無言で紙と筆を差し出す。
『よく寝た』
なんとも間の抜けた一言に、思わず気が抜ける。
「だろうな」
そう答えると、エレナシアは自分の体に目をやり、すぐに筆を走らせた。
『……服、変わってる』
「……すごい汗だったからな」
答えながらも、妙に気まずくて視線を逸らす。
『ルードがやったの?』
「仕方ねえだろ……」
ぼそりと吐き捨てるように言ったあと、少し間を置いて付け足す。
「でも、見ないようにしたから……」
『本当に?』
じっとした瞳に射抜かれ、喉が詰まる。
「ああ……」
『本当は?』
再び筆が動く。疑いというより、ただ確かめているような筆跡。
「……見てねえって」
それでもエレナシアは目を逸らさない。
沈黙に耐えきれず、ルードは小さく吐き出す。
「見てねえよ。信じてくれ」
その必死さを見ていたのか、エレナシアはふっと口元を緩め、紙を差し出した。
『ありがとう』
「……」
返す言葉が見つからなかった。
(もしかして俺って、全く意識されてねえのか……?)
別にどうこうなりたいわけじゃない。
むしろ信頼してくれている証だとわかっている。
それでも――
(それはそれで……なんか引っかかるだろ……)
なんとも言えない気持ちで黙り込むルードを、エレナシアは小首を傾げて見つめていた。