第13話 俺が雪を見せてやる

ルードとエレナシアは、夜を明かした小屋を発ち、市場へと向かっていた。 冷たい朝の風が、まだ眠るような町を吹き抜けていく。 目的はひとつ。防寒具の購入。 「雪を見に行くなら、それなりの服が必要だろ」 そう言いながら、ルードは少し歩調を緩めた。 隣を歩くエレナシアの様子を、ちらりと横目で確認する。 昨夜はひどく消耗していたが、今朝は多少顔色も戻っていた。 完全とはいかないまでも、歩ける程度には回復しているようだ。 市場の通りでは、店主たちが開店の準備を始めていた。 屋台の棚に商品を並べる者、毛織物を広げる者。 ちらほらと朝早い買い物客の姿もあるが、まだ人は少ない。 「お前も、なんか選べ」 そう言いながら、ルードは適当なマントを手に取る。 だが、その時。 「……?」 視線を感じて振り向くと、エレナシアがじっとこちらを見ていた。 「……なんだ」 すると、彼女はすっと店の奥へ歩いていく。 そして、迷いなくある服を手に取り、こちらへ差し出した。 深い黒のコート。 裏地には柔らかい毛皮が施されており、首元にはシンプルなダークグレーのマフラー。 「……」 ルードはその服をしげしげと見つめた。 ルードはふと気づく。 こいつ、俺の服を選んでる。 目の前で、エレナシアは何事もなかったように筆を走らせる。 『これがいいと思う』 ちょっとウキウキしてるように見えるのは、気のせいか? (……別に、悪くはねぇけど) 言葉にはせず、コートを手に取った。 ◇ 服を選んでいたふりをしながら、そっとルードの背中に視線を向ける。 (……気づいてない?) ルードはコートを手に取り、じっくりと生地を確かめている。 いつも警戒心を解かない彼が、今だけは気を抜いているように見えた。 エレナシアはふっと唇を引き結ぶ。 (今なら……いける) ほんの気まぐれだった。 ルードは驚かないタイプだとわかっていたけれど、それでも彼が驚いた顔を見てみたい気持ちが勝った。 そっと足を踏み出し、物陰に紛れるように距離を縮める。 できるだけ音を立てないように、慎重に足を運ぶ。 (……あと少し) 手を伸ばせば届く。あと一歩踏み込めば—— 「……何してんだ、お前」 動きが止まる。 ゆっくりと、目の前のルードが振り返った。 鋭い琥珀色の瞳が、じかにエレナシアをとらえる。 予想外の展開に固まる。 (……気付かれてた) 思わず、きょとんとルードを見上げてしまった。 その瞬間、彼の口元がわずかに動く。 ——ふっと、鼻を鳴らすような小さな笑い声。 そして、次の瞬間。 「ははっ……なんでお前が驚いてんだよ」 声が耳に落ちた瞬間、エレナシアの胸がドクンと跳ねた。 今、ルードが。 ちゃんと、笑った……? 驚かせるつもりだったのに、なぜか自分の心臓が落ち着かない。 いつもぶっきらぼうで、冷たい印象すらあった彼が——今、目の前で、楽しそうに笑った。 ちらりと見えた犬歯が、やけに印象に残る。 鋭いはずのその歯が、なんだか子供みたいに無邪気に見えて、余計に胸がざわついた。 気づいた瞬間、頬がじわりと熱くなっていく。 ルードは気にも留めずに肩をすくめたが、エレナシアは目を逸らすことができなかった。 (どうしてこんなに胸がざわつくの……?) 視線を泳がせながら、こっそりと彼の横顔を窺う。 さっきまで意識したこともなかったのに、その表情が妙に心に残ってしまう。 何か言わなければ、と思うのに、言葉が出てこない。 (……今の顔、もう一度見たいかも) そんな考えが浮かんでしまった自分に気づいて、慌ててかぶりを振る。 「ほら、さっさと選べよ。いつまでも遊んでる時間はねぇぞ」 ルードのぶっきらぼうな声が、いつもの調子に戻っている。 エレナシアは軽く頷き、視線をそらしながら自分の服を選ぶために再び少し離れた。 だけど、さっきの笑顔が脳裏に焼きついて離れなかった。 ◇ それから数十分後。 エレナシアは、新しい冬服に身を包んでルードの前に立つ。 深い紺のマントに、白い毛皮の縁取り。ラベンダー色のチュニックに繊細な雪の結晶の刺繍。 筆記具を取り出し、さらさらと書いた紙を差し出してくる。 『どうかな?』 上目遣いで見つめるアメジストの瞳。 期待するように少し瞬きして、頬にかかる銀髪が風に揺れる。 ルードは、一瞬、何か言葉を探すように視線を逸らした。 (……なんかいつもと雰囲気違うな) 寒いんだから暖かい格好をするのは当然だし、特に気にすることでもない。 けど、なんとなく視線が引っ張られる。 「……別に、いいんじゃねえか」 素っ気なく答えると、エレナシアは少し考え込み、また筆を走らせた。 『どこが?』 「は?」 思わず声が漏れる。 見上げてくる彼女の表情は、いたって真剣だ。 「……どこって、別に……」 適当に答えただけで、具体的にどこがいいとかは考えてない。 だが、エレナシアはじっとこちらを見つめてくる。 「……防寒対策はちゃんとしてるし、動きやすそうだし、まあ……悪くねえんじゃねえか」 それでも納得していないのか、彼女はもう一度筆を走らせる。 『見た目は?』 なんでこんな質問をしてくるのか、さっぱりわからない。 (見た目、か……) 悪いわけがない。 むしろ、妙に目を引くくらいには、似合ってる。 けど、そんなことを面と向かって言うのは、なんだか違う気がした。 「……まぁ、似合ってんじゃねえの」 そう呟くと、エレナシアは目を瞬かせ、それからふわりと微笑んだ。 『よかった』 少し嬉しそうに綴られた文字。 なぜか、それを見たルードの心臓が妙に落ち着かなくなる。 「……もう時間だ」 市場の喧騒の中、自分たちが今やろうとしていることを思い出す。 これから、自分たちは依頼を放棄して逃げる。 城の手の者か、または依頼主からか。 いずれにしても、追われる身となることは明白だった。 どこまでも続く逃亡の道を前に、こうした些細なやり取りがやけに貴重に思えた。 ほんのひと時の、何でもないやり取り。 それすらも、長く続くわけではないのだと。 「……そろそろ、行くか」 ルードの言葉に、エレナシアも真剣な表情に戻る。 こうして、二人の逃避行は始まった。 ◇ 通りにはほとんど人影がなく、ひんやりとした空気が肌を撫でる。 明け方の静寂の中、二人は足音を最小限に抑えながら路地を抜けた。 町の外れにある馬車宿へ向かう。昨夜のうちに目星をつけていた場所だ。 商人が物資を運ぶための馬車を手配し、朝一番の便に乗る予定だった。 「……予定通りか」 馬車宿の前には、すでに準備を終えた数台の馬車が並んでいた。 荷物を積み込む商人たちの声が静かに響く。 ルードは馬車の持ち主と短く言葉を交わし、エレナシアと共に一台に乗り込む。 座席に腰を落ち着けると、ようやく息をつく余裕ができた。 エレナシアは、静かに窓の外を見ていた。 馬車が軋む音とともにゆっくりと動き出す。 (……ここから、どれくらいかかる) ルードは、ぼんやりと道の先を見つめた。 エレナシアは静かにルードの隣に座る。 馬車の中には他にも数人の乗客がいたが、特に目立った様子もなく、淡々と移動が進んでいた。 「……お前、そんな端に座ってて平気か?」 ルードは視線を向けずに呟いた。 エレナシアはこくんと頷いたが、その直後、馬車が大きく揺れる。 「っ——」 体勢を崩し、エレナシアが思わずルードの肩に寄りかかる。 僅かに目を見開く。 肩越しに、細くしなやかな体温が触れる。 距離が近い。いや、近すぎる。 以前、蜘蛛の一件で抱きつかれたときは、ただ驚いただけだった。 けれど、今は―― (……何を、意識してんだ) しかし、エレナシアは何も気にする様子もなく、ルードにもたれたまま、静かに目を閉じる。 どうやら、この揺れが心地よかったのかもしれない。 ルードは軽く舌打ちしながら、外へと目を向けた。 (……ちょっと無防備すぎやしないか?) そう思いつつも、力任せに突き放すことはしなかった。 (……まぁ、疲れてるんだろ) ルードは 自分を誤魔化すように、そっと馬車の揺れに身を委ねた。 ◇ 日はすっかり傾き、あたりが夕闇に染まり始めていた。 ルードとエレナシアは、馬車を降り、野営の準備をしていた。 馬車の商人とは、街道の途中で別れた。 馬車はさらに先の宿場町まで行く予定だったが、ルードたちはそこまで同行しなかった。 理由は単純だ。 目的地が違う。 馬車の行く先は都市部だが、ルードたちの目指す雪国へ向かうには、ここで街道を外れ山間の道へ入る必要があった。 「……ここにするか」 ルードは視線を巡らせ、野営に適した場所を探した。 街道から少し外れた開けた場所。木々に囲まれ、風も防げる。 旅の途中、こうした場所で休むのは慣れている。 薪に火をつけると、焚き火の温もりがじんわりと体を温めた。 ルードはエレナシアをちらりと見る。 エレナシアは静かに焚き火を見つめていた。 焚き火の光に照らされた彼女の横顔は、どこか幻想的だった。 淡い銀色の髪が夜の風に揺れ、アメジストの瞳が微かに輝く。 「……」 ルードは一瞬だけ視線を逸らす。 薪が弾ける音が、妙に耳に残った。 その時、エレナシアが小さく身震いした。 「寒いのか?」 エレナシアは少し躊躇いながらも、頷いた。 ルードは無言で、自分の外套を半分、エレナシアの肩に掛けた。 「……!」 エレナシアが驚いたように目を見開く。 「お前、寒さに慣れてねぇだろ」 エレナシアは筆を取り、焚き火の光の下で言葉を綴る。 『うん』 ルードは焚き火に枝をくべながら、何気なく言葉を続けた。 「……雪ってのは、思ってるより冷てぇぞ」 エレナシアは一瞬考えるようにしてから、また筆を走らせた。 『雪ってどんな感じ?』 「……まあ、すぐわかるさ」 ルードは短くそう答えると、炎をじっと見つめる。 火がパチ、と弾け、影がゆらめいた。 エレナシアは筆を動かしながら、ふと顔を上げる。 『きれい?』 ルードは、一瞬だけ沈黙する。 焚き火の赤い光とは正反対の、冷たく白い記憶が脳裏をよぎる。 「……俺は、あんま好きじゃねぇな」 ぽつりと零したルードの声に、エレナシアは不思議そうに目を瞬かせた。 筆を動かし、『どうして?』と尋ねる。 「……なんとなくな」 それ以上、ルードは言葉を続けなかった。 エレナシアは何も言わず、そっと外套の端を握った。 ◇ 今夜は旅の疲れもあってか、ルードは珍しくしっかりと寝息を立てていた。 エレナシアは、彼の寝顔をじっと見つめる。 黒髪が少し乱れ、琥珀色の瞳は静かに閉じられている。 焚き火の灯りに照らされた端正な顔立ちは、夜の闇の中でもはっきりと映えていた。 (……こんな風に寝てる姿を見るの、久しぶりかも) 焚き火の炎がゆらめくたび、黒髪の隙間から覗く銀のピアスが、一瞬だけ鈍く光を反射した。 ふと、ルードが微かに眉を寄せた。 (……寒いのかな) エレナシアは、そっと毛布を直してやろうと手を伸ばした。 その瞬間——。 「……ん……」 微かに眉が動く。 そして、かすれるような声で小さく呟いた。 「……エレナ……」 エレナシアの指が止まる。 今、確かに自分の名前を呼んだ気がした。 ルードは依然として目を閉じたままだったが、微かに唇が動く。 そして、少しだけ眉を寄せた後、静かに寝息を整えた。 (……夢を見てる?) 何とも言えない感情を覚えながら、彼の顔を見つめたまま小さく息を吐いた。 (……ルードの寝顔を見てると、少しだけ安心する) 普段は強がってばかりの彼が、今はまるで別人のように穏やかだった。 それが、妙に愛おしく思えてしまう。 ——ルードは知らない。 彼が眠っている間に、エレナシアが何を思い、どんな顔で彼を見ていたのかを——。 ◇ 乾いた轟音が、山道に響いた。 「……ッ!」 ルードは反射的にエレナシアの腕を引き、崖沿いの木陰へと飛び込む。 直後、頭上を土砂と岩が滑り落ち、道を容赦なく塞いでいった。 あっという間だった。 落ち着いた頃には、前も後ろも岩で埋め尽くされていた。 「……チッ」 剣の柄を握ったまま、ルードは周囲を見回す。 だが、どう見ても自力でどかせる量ではない。 崖は崩れやすく、これ以上の接触も危険だった。 エレナシアへ目を向けると、彼女はじっとルードの顔を見ていた。 そして、まっすぐに文字を綴る。 『力を使えば……』 「だめに決まってるだろ」 ルードは即座に言い返す。 声が思ったよりも強くなって、彼自身も戸惑った。 だが、エレナシアは筆を止めなかった。 『でも……』 わずかな間を置いて、さらに書き足す。 『……まだ、雪見てない』 一拍置いて、もう一枚。 『大丈夫だと思う。多分』 ルードの眉がぴくりと動いた。 「……多分ってなんだよ」 思わず口に出た言葉は、苛立ちというより困惑に近かった。 けれど――彼女の表情に、迷いや怯えはない。 むしろ、静かで、落ち着いていて。 (……わかってる顔だ) 暴走する可能性があること。 でも、今の自分なら制御できるかもしれないということ。 確信があるわけじゃない。 でも“やりたい”という気持ちは、はっきり伝わってきた。 (……ずっと使わせたくなかったってのに) そう思った瞬間、胸の奥がちくりと痛む。 彼女の覚悟を目の前にして、自分は何もできないままだ。 ルードは深く息を吐いた。 「……最小限にしろ。崩れやすいとこだけ狙え」 エレナシアはこくんと頷いた。 「今回は……信じてみる」 エレナシアの手が、静かに空へ伸びる。 空気がぴたりと止まり、微かな魔力の揺らぎが肌を撫でた。 次の瞬間――小さく、乾いた音とともに岩の一部が砕ける。 粉塵の向こうに、わずかな隙間が生まれた。 「……よし、行くぞ!」 ルードが素早くその隙間に手をかけ、通れるほどの幅をこじ開ける。 エレナシアの手を引き、隙間の向こうへと抜けた。 開けた先に、木漏れ日が差し込んでいた。 だが、数歩進んだところで、エレナシアの足取りがふらつく。 「……おい、エレナシア」 声をかけると、彼女は立ち止まり、少し遅れて顔を上げた。 その頬には、ほんのりと紅がさしている。 (……熱、出てるな) 近づき、額に手を当てる。 (やっぱ、魔力の反動……か?) じんわりと、熱が指先に伝わってきた。 「……ったく、何が”大丈夫だと思う”だよ」 エレナシアは何も言わず、ただ視線を逸らした。 だが、その顔に浮かぶのは後悔ではなかった。 ルードはため息をつき、肩から外套を外すと彼女にかけてやる。 「まぁでも……お前のおかげで、助かった」 ぼそりと呟いた言葉に、エレナシアは目を丸くする。 だがルードはもう前を向き、歩き出していた。 ◇ 二人は近くの大きな岩陰に腰を下ろした。 エレナシアは、少しぼんやりとした頭でルードの横顔を見つめていた。 彼がそっと水袋を差し出す。 「……飲め」 少し迷ったが、無言のまま受け取る。 口をつけ、一口だけ喉を潤す。冷たい水が喉を通る感覚が、どこか心地よかった。 ふと視線を上げると、ルードと目が合った。 「……」 彼は怪訝そうに眉を寄せる。 「なんだ」 何も考えずに見ていたつもりだったが、彼に問いかけられ、慌てて視線を逸らす。 筆を手に取り、何気なく一言だけ書いた。 『なんでもない』 ルードは短くため息をつく。 「なんでもないなら、そんな顔するな」 そんな風に言われても、自分ではどんな顔をしているのかわからない。 けれど、その言葉に不思議と緊張が和らぎ、ほんの少しだけ口元が緩んだ。 次の瞬間、ルードが手を伸ばし、そっと額に触れる。 「っ……」 驚きで肩が揺れた。 「……熱はさっきと変わらねぇな」 彼の指先の感触が、ひどく意識に残る。 エレナシアはふと、じっとルードの顔を見つめた。 琥珀色の瞳がすぐ近くにある。 少し息を詰めた。 けれど、嫌ではなかった。 寧ろ、その暖かさに、少し甘えたくなった。 戸惑いながらも、そっと袖口を掴む。 (……どうしよう) ルードは何も言わずにじっと見ている。 迷いながらも、彼の肩に額を預けた。 彼の肩が僅かに強張ったのがわかる。 けれど、拒まれなかった。 静かな鼓動が、どこか落ち着く。 (……あったかい) 寒いからなのか、それともただ心が疲れていたのか。 理由は、自分でもわからなかった。 ただ、こうしているのが妙に安心できた。 「……おい」 彼の低い声が頭上から落ちる。 けれど、もう目を開ける気にはなれなかった。 「お前が回復するまでは、ここにいる」 それを聞いて、エレナシアは小さく頷いた。 ほのかに頬が熱いのは、寒さのせいだけではない気がした。 薄く瞼を開く。 ルードの横顔が見えた。 彼はふっと、穏やかに微笑んでいた。 (……笑ってる) からかったり、呆れたりするような笑いではなくて。 ただ、ほんの少し、優しく微笑んでいた。 胸が、静かに高鳴る。 それだけではなかった。 (……ルード、心臓の音がすごく……) 自分が寄りかかっているせいか、彼の鼓動がやけに強く伝わってくる。 最初は自分のものかと思ったが、違う。 ルードの心臓の音だ。 (……なんで、そんなに速いの?) そのまま、静かに眠りに落ちた。 ◇ 翌朝── ルードは目を覚ますと、微かに残る温もりに気づいた。 エレナシアの体温が微かに残るその感覚に、一瞬、昨夜のことを思い出しそうになり──すぐに頭を振って打ち消す。 (……考えるな) 隣ではエレナシアがすでに目を覚ましており、静かに朝の光を見つめていた。 ルードは無言のまま、ゆっくりと肩を回す。 「……調子はどうだ」 エレナシアは少し間を置き、軽く頷いた。 どうやら、回復はしているようだった。 ルードはそれを確認すると、少しだけホッとしたように息を吐く。 「じゃあ、そろそろ動くぞ」 エレナシアは小さく頷きながら、何か考えるように指を口元に当てた。 ルードがそれを見ていると、エレナシアは筆談用のメモを取り出し、筆を走らせる。 『昨日の夜、ルードの心臓、ドキドキしてた』 「……」 ルードは一瞬、顔を逸らした。 エレナシアはまっすぐ彼を見つめている。 「……気のせいだろ」 ルードはぶっきらぼうに言い放つ。 だが、エレナシアは諦める気配がない。 さらに筆を走らせる。 『じゃあ、……確かめてもいい?』 「……は?」 思わず、間の抜けた声が漏れた。 エレナシアは静かに手を伸ばし、ルードの胸元にそっと触れようとする。 ルードは条件反射で手を掴んだ。 「……やめろ」 掴んだ手は、小さくて、温かい。 エレナシアは、少しだけ驚いたような顔をした。 ルードはその表情に気づいてしまい、すぐに手を放した。 「……もういい、早く準備しろ」 ルードは視線を逸らしながら立ち上がる。 けれど、胸の奥で鼓動が強くなっているのを、自分自身が一番よく分かっていた。 ◇ 旅路の途中、ルードはふと足を止めた。 森の中を進んでいたはずなのに、地面の様子が違う。 湿った土と落ち葉の隙間に、わずかに白いものが残っていた。 雪だった。 エレナシアもそれに気づき、立ち止まる。 彼女はゆっくりとしゃがみ込み、指先でそっと雪の名残に触れた。 ルードはその様子を無言で見つめた。 エレナシアは雪を掌に乗せてみるが、すぐに消えてしまう。まるで水のように。 それを見て、ルードはぼんやりと考えた。 (……こいつに見せてやる雪は、こんな残りカスじゃ駄目だ) 彼女は何かを書こうとメモを取り出しかけたが、迷ったのか、そのまま仕舞った。 代わりに、こちらを見上げる。 琥珀色の瞳に、彼女の瞳が映る。 ルードは目を細めると、軽く鼻を鳴らした。 「そんなもんじゃねえ」 エレナシアはきょとんとした顔をした。 ルードは彼女の頭をポンと叩くと、背を向けて歩き出す。 「ほら、行くぞ。もっとちゃんとした雪を見せてやる」 エレナシアは少し目を見開いた後、嬉しそうに駆け寄ってきた。 ルードはその気配を感じながら、ふと、ほんの少しだけ空を見上げる。 曇りがちな冬の空――。 過去と向き合うことになるのかもしれない。 それでも、今回は違う。 エレナシアのために、ルードは歩き出した。 ◇ ルードはエレナシアとともに歩きながら、無意識に拳を握った。 (……俺は、何をしてるんだろうな) 「雪を見せてやる」 そう口にした瞬間は、迷いなんてなかった。 だが、改めて考えてみると、それがどれほど自分らしくない決断なのかがわかる。 ――仕事を放棄する。 それはルードにとって、決して軽いことではない。 これまで、どんなに状況が悪くなろうと、仕事を途中で投げたことはなかった。 どれだけ嫌な仕事でも、納得がいかなくても、依頼を受けた以上は必ず完遂する。 それが、ルードにとっての 「生きる術」 だった。 なのに――。 (……何の利益もねぇ) エレナシアに雪を見せることに、報酬はない。 これが仕事なら、完全に割に合わない依頼だ。 なのに、ルードは迷いもなくそちらを選んだ。 (……俺が、こんな決断をするなんてな) ルードはふと、何年も前のことを思い出す。 ――雪の日。 ルードに生きる術を教えた男。 そして、ある朝、雪が降る中で姿を消した。 ただ、冷え切った空の下、雪の上に残る足跡がすべてを物語っていた。 (……情に流されるな。そう教えたのは、あいつだった) 仕事は仕事、情は捨てろ――そう言い聞かせられた。 ルードも、それを疑いもせずに生きてきた。 なのに、今。 ルードは、「エレナシアに雪を見せたい」 という理由だけで、依頼を投げ捨てた。 (……もし、あいつが今の俺を見たら、何て言うだろうな) 「バカなことをしてる」とでも言うのか。 「そんな無駄な情を持つな」とでも言うのか。 ――だが。 自分がここまで変わってしまったことに、反発したくなる気持ちもあった。 だが、それ以上に―― (後悔はしてねぇ) それだけは、はっきりしていた。 隣を歩くエレナシアを見やる。 彼女は、雪の痕跡を見つけた後から、どこか嬉しそうにしていた。 まだ本物の雪を見たわけでもないのに、期待に胸を膨らませているのがわかる。 (……どうして、そんな簡単に信じられるんだ) ルードは、そんなエレナシアの姿に戸惑いを覚える。 (……もう、考えても仕方ねぇ) ルードは静かに息を吐いた。 これは「仕事」じゃない。 でも、今のルードにとっては、それ以上に「やらなきゃならないこと」になっていた。 「……おい」 ルードは短く呼びかけると、エレナシアが振り向いた。 「急ぐぞ」 エレナシアは少し驚いたような顔をしたが、すぐにコクリと頷く。 ルードはその様子を横目で見ながら、足を早めた。 (……見せてやる) これが「無駄な情」だとしても。 これが「バカなこと」だとしても。 エレナシアの願いは、自分が叶える。 それを、証明するために。