第14話 金がねぇから貴族になる~メイドさんと一緒~

――冷え込む空気の中、街道を歩く。 遠くの山々には、かすかに白いものが積もっていた。 それが本当に雪なのか、それともただの霧なのか。 エレナシアが、それを見つめている。 (……もう少し進めば、雪が見えるかもしれねぇな) そう思いながら、ルードはちらりと彼女の横顔を盗み見る。 どこか期待に満ちた表情をしていた。 ルードは、無意識に口の中で舌打ちした。 (……ここまで来ちまったな) 依頼を放棄し、エレナシアと共に逃げる道を選んだ。 理由は、簡単だった。 ――「雪が見たい」 それだけのために、自分はこんな決断をした。 (バカか、俺は) 一瞬、考えたところで後戻りはできない。 今さら「あのときの選択が間違いだった」と言えるわけもなかった。 それに―― (後悔はしてない) それだけは、はっきりしていた。 エレナシアは、ずっと前を見つめている。 彼女が「やりたい」と願ったことを、叶えられるなら―― それで、いい。 そう思っていたのだが。 「……あ?」 ポーチを開いたルードの顔が、ぴくりと引きつる。 手探りで数えたコインの重みが、妙に軽い。 「……」 もう一度数え直す。 が、変わらない。 「……マジかよ」 エレナシアが、不思議そうに筆を走らせる。 『どうかしたの?』 ルードは静かに息を吸い込み、無駄に重々しい口調で言った。 「金がねえ」 エレナシアの手が、ぴたりと止まる。 (……おかしい。確かにもうそんなに残ってないとは思ってたが……) 王都を出てから、ミリィの手伝いで得た報酬もあり、なんとかなっていた。 だが、依頼を放棄し、目的地も決めずに逃げる道を選んだことで、消耗のペースが上がった。 野宿が基本だったとはいえ、最低限の食料や装備の補充は必要だった。 その結果―― (まったくの無計画じゃねぇか……) 「……まぁ、いずれこうなるとは思ってたがな」 ルードはため息混じりにポーチを閉じる。 エレナシアは、じっとルードを見つめ、紙に書いた。 『どうするの?』 ルードは 「なんとかするしかねぇだろ」 と、ひどくざっくりした答えを返す。 (……賞金稼ぎでもやるか) ――とはいえ、そう都合の良い仕事があるとは思えない。 盗賊討伐の依頼か、何か単発で金になる仕事があればいいが……。 「……とりあえず、街に行くぞ」 ルードはポーチを押し込み、足を速めた。 エレナシアも、静かに頷き、彼のあとを追った。 (さて、どうするか――) ◇ ルードの「金がねぇ」という言葉を聞いたとき、エレナシアは何気なく筆を止めた。 (……お金、ないんだ) それ自体は、特におかしくはない。 依頼を達成しなければ、報酬がもらえないのは当然だ。 だから、ルードが今、手持ちが少なくなってるのも不思議ではない。 けれど―― (……なんでだろう) ほんの小さな違和感が、胸の奥で膨らむ。 ルードは「行く」と言った。 「雪が見たいんだろ」と、当然のように。 でも、それは依頼とは何の関係もないことだった。 それを疑問にも思わなかった。 ルードがそう言うのが、あまりに自然だったから。 でも―― (……なんで、そんなふうに言えたの?) 「行けるの?」と聞いたとき、ルードは迷いもせずに「行く」と言った。 まるで、それが当たり前であるかのように。 でも、それって本当に「当たり前」のこと? エレナシアは、そっとルードの横顔を盗み見た。 彼は特に気にした様子もなく、ぼんやりと窓の外を見ている。 (……私をどこに連れていくつもりなんだろう) 依頼の行き先は決まっているはずなのに。 ルードは、まるでそんなことは考えていないみたいだった。 (……わからない) エレナシアは小さく息を吐き、筆を握り直した。 ◇ 食事を終えたルードとエレナシアは、掲示板の前に立っていた。 「……さて、どうするか」 ルードは腕を組み、掲示板に並んだ依頼を見上げる。 掲示板には、大小さまざまな仕事が張り出されていた。 「賞金首の討伐……盗賊の掃討……護衛依頼……」 どれも金にはなるが、それなりにリスクも高い。 (賞金首狩りが手っ取り早いが……) 「お前も、いいのがあったら言えよ。」 そう声をかけると、エレナシアはちらりと紙を眺めたが、すぐに困ったように視線を落とした。 「……どうした?」 ルードが訝しむと、彼女はゆっくりと筆を取り出し、紙に文字を走らせる。 『……読めないの』 「……は?」 思わず間抜けな声が出た。 読めない? (……でも、書いてるよな?) 問いかけようとした瞬間、エレナシアがまた筆を動かす。 『書けるけど、読むのは苦手なの』 ルードはしばらく黙ったまま、彼女を見つめた。 そういえば―― 城では、本を読む機会もなかったということなのか。 文字は書き取りで覚えたとしても、読む力までは育たなかったのかもしれない。 小さく息を吐き、彼女の前にある紙束に目を走らせる。 すると、その中にひときわ丁寧に印刷された依頼書があった。 「貴族の代理人を務められる方を探しています」 「……代理人?」 ルードは怪訝そうに紙を取り、ざっと目を通した。 ――要件:貴族の代理として正式な場に出席し、所定の手続きを行うこと。 ――報酬:前金あり。成功報酬あり。衣装貸与。 ――条件:武芸の心得があり、立ち振る舞いに品格がある者。 「……品格がある者?」 ルードは思わず眉をひそめる。 「そんなヤツが賞金稼ぎの掲示板にいると思ってんのか、こいつは」 思わずぼそっと呟くと、エレナシアがクスクスと肩を震わせる。 (……まぁ、部分的には適任か) 武芸の心得がある、って条件ならクリアしてる。 あとは……貴族のフリをすればいいだけ? 「……」 ルードは改めて依頼の紙を見つめる。 金がない今、この仕事はかなり “おいしい”。 (でも、貴族の代理人って……大丈夫か?) 不安を感じたルードだったが、エレナシアはじっとこちらを見ていた。 「……まぁ、賞金首を追うよりはマシか」 ルードは深く息を吐き、紙を掲げた。 「一応、話を聞いてみる」 エレナシアが静かに頷く。 こうして、ルードたちは“貴族代理人”という 普段とはかけ離れた仕事 に足を踏み入れることになった――。 ◇ 依頼主は、思った以上に貴族らしくない男だった。 背丈はそこそこあるが、気怠げな姿勢のせいで余計にだらしなく見える。 加えて、服装も貴族らしいきらびやかさはなく、むしろ金がある成金の商人のような雰囲気だった。 ルードは、直感的に「めんどくさい相手」だと悟った。 「お前か、この仕事を見たのは?」 適当にワインをあおりながら、男はルードをじろりと見る。 ルードは、無言で頷いた。 「ふーん、見た目は悪くねぇな」 男はワインのグラスをくるくると回しながら、満足げに頷く。 「どういうことだ?」 ルードが眉をひそめると、男は気楽な調子で続けた。 「簡単な話だ。俺の代理をやってくれりゃいい」 「……代理ってのは?」 「つまり、社交の場ってやつよ」 「……は?」 一瞬、理解が追いつかなかった。 依頼の内容には「貴族の代理」とだけ書かれていたが、まさか本当に「貴族として振る舞え」って話なのか? ルードの困惑をよそに、男は酒をもう一口飲んでから、話を続ける。 「なぁ、正直な話、社交の場とかマジでめんどくさいんだよ」 「……知らねぇよ」 「そもそも、俺が行く予定だったんだけどな……」 男は肩をすくめ、わざとらしくため息をつく。 「ま、貴族の家に生まれたとはいえ、俺は礼儀作法とかまるでダメでな?」 「……知らねぇって」 「その点、お前はそこそこ見た目もいいし、なんかシュッとしてるし、貴族っぽくね?」 「だから、知らねぇよ」 ルードは心の底から面倒くさくなってきた。 「昔の俺に似てるし?」 「知るか」 「だから、俺の代わりに行ってくれ。もちろん報酬は弾む」 「……」 ルードは、依頼主の顔をじっと見つめた。 その男は自身を「バルツ・フォルスター」と名乗った。 ――胡散臭い。 いくら貴族社会に馴染んでいないとはいえ、こんな適当な態度で生きてこられるものなのか。 そもそも、こんなふざけた依頼を受けるメリットが本当にあるのか……? 「ちなみに、衣装は貸すぞ」 「貴族らしく振る舞うには、それなりの服装が必要だろ? そこは用意してやる」 「……」 ルードは、一瞬だけ思考する。 ――確かに、今は金がない。 このままでは雪を見に行くどころか、まともな宿代すら稼げなくなる。 わざわざ命の危険がある賞金首の依頼を受けるよりは、安全かもしれない。 「……報酬次第だな」 そう言うと、バルツはニヤリと笑った。 「まぁまぁ、そう焦るな!」 焦るのはそっちだろ、とルードは思う。 「それと、お前の付き人も連れてけよ」 「……付き人?」 「そっちの美人ちゃん、メイドにでもしとけ」 ――メイド? ルードが横を見ると、エレナシアが「……?」と目を瞬かせていた。 そして、彼女の視線がゆっくりとルードへと向く。 筆を走らせる音が聞こえた。 『え?』 「え?」 「え?」 ……数秒の沈黙のあと、ルードは深いため息をついた。 ◇ 「お前のサイズに合わせた服を貸してやる。こっち来い」 バルツはワインを片手に、のんびりと立ち上がった。 ルードは無言でついていく。 (……めんどくせぇ) なぜ、こんなことになったのか。 金がないから――という理由だけではあるが、それにしたってこれは妙な展開だ。 奥の部屋へ通されると、そこにはいくつかの貴族服が並んでいた。 黒を基調としたもの、白と金で刺繍されたもの、深紅のベルベット生地のもの―― 「お前は……そうだな、黒がいいか?」 「……まぁ、なんでもいい」 もともと黒っぽい服しか着ないので、そこに違和感はない。 ただ、細かい装飾や襟の高さには若干の違和感があった。 「こっちで着替えとけ」 ルードは無言で服を受け取り、更衣室へと入った。 ◇ 一方、エレナシアも別室へ案内されていた。 「お嬢さん、悪いが貴族の付き人ってことで、もう少しそれっぽい恰好をしてくれよ」 と、バルツが軽く言い放つ。 エレナシアは、静かに筆を走らせた。 『それっぽい恰好って?』 「メイド服とか?」 (……) エレナシアは、しばらくじっと彼を見つめた。 その視線には、「今、なんて?」という冷静な困惑が浮かんでいた。 「ま、そういうことだ。ほら、これ着ろ」 エレナシアの手の中に、ふわりとした布が押し付けられる。 見ると、それは黒と白のクラシカルなメイド服だった。 (……なるほど) エレナシアは、服を広げてじっと観察する。 最近は旅のために動きやすい服しか着ていなかったので、こんなに重ねの多い服は久々だった。 (これを着ればいいのね) そう納得すると、彼女は静かに着替えを始めた。 ◇ ルードが着替えを終えて部屋を出ると、バルツがグラス片手に目を細めた。 「おぉ、意外と似合ってんじゃねぇか」 「……そうかよ」 黒を基調とした貴族服は、思ったよりもルードの体格に合っていた。 普段の無骨な格好と違い、肩や襟元のラインが引き締まって見える。 「うんうん、顔立ちも悪くねぇし、立ってるだけなら充分貴族って感じだな。……立ってるだけなら」 「うるせぇよ」 ルードは肩をすくめ、椅子に腰を下ろした。 「……けどな」 バルツが再びワインを揺らしながら、じろりと彼の頭を見やった。 「……で、お前、その髪のまんまで行く気か?」 バルツが、呆れ顔でワインを揺らしていた。 「は?」 「そんなボサボサ頭で貴族のフリしても、浮くだけだぞ?」 ルードは思わず眉をひそめた。 ……確かに、いつもは無造作なままだった。 さすがにボサボサのままではまずいかもしれない。 「じゃあ、どうすんだよ」 「決まってるだろ。メイドにやらせろ」 「…………」 ルードは、一瞬だけ沈黙した。 「必要ねぇだろ……」 「お前、他人に髪セットしてもらったことねぇのか?」 「……ねぇよ」 バルツはため息をつきながら、手をひらひらさせた。 「いいから、後でメイドに頼め。見た目は重要だからな」 ルードは眉を寄せながら、無言で視線を逸らした。 (……やるなら適当に自分でやる) そう心に決めながら、ルードは着替えを終え、鏡の前に立った。 整えられた服の襟を少し引っ張り、肩に馴染ませる。 「……やっぱ、こういうのは落ち着かねぇな」 ふと、前髪の一束が視界にかかり、無造作に指で払いながら小さく舌打ちした。 「まさか……その剣、持ったまま行く気じゃないだろうな?」 バルツが服を指さしながら、ふと眉をひそめた。 「……ああ?」 「帯剣してたらただの“戦う気まんまんの成金”だ。貴族らしくねぇよ」 ルードはちらりと剣を見下ろし、しばらく黙り込む。 「さすがに……剣を置いて行くのは、無理だ」 「はぁ……やれやれ」 バルツはワインを煽りながら肩をすくめる。 「ま、いいさ。どうせ使わねぇことを祈れよ、代理人サマ」 ルードは無言で鞘に手を添え、剣を腰に刺したまま身だしなみを整えた。 ◇ ルードは、テーブルに肘をつきながら、ふっと息をついた。 貴族の屋敷なんてガラじゃない。 この服も落ち着かない。 (さっさと終わらせて報酬だけもらうか) そんなことを考えていたとき―― 「……へぇ」 無意識に、声が漏れた。 エレナシアが、目の前に立っていた。 メイド服姿で。 『どう?』 筆を走らせたエレナシアは、無邪気な顔をしていた。 ルードは、思わず目をそらす。 (……思ったより、似合ってんじゃねぇか) 普段の旅装とは違い、品のある黒い布地が身体に沿っている。 袖口や裾のレースが、妙に華奢なラインを引き立てていた。 白いエプロンとカチューシャが加わっただけで、ずいぶん雰囲気が変わる。 (普段と、全然違うな……) どこか大人びて見える。 そして――なぜか。 (……"支配欲"をくすぐるな) エレナシアは、一瞬だけ首をかしげ―― くるり、とスカートをつまんで、小さく会釈した。 『ご主人様』 そう書いた紙を見せてくる。 「……」 ルードは、じっとエレナシアを見た。 (……こいつ、わかってやってんのか?) いや、多分違う。 この顔は完全に天然だ。 “ただ、それっぽいことをしただけ” の顔。 ルードは、腕を組んで椅子の背に寄りかかった。 そして、試しに軽く口の端を持ち上げる。 「……そのまま、俺の酒でも注いでくれんのか?」 わざと、低めの声で言ってみた。 茶化すように、冗談めかして。 エレナシアは、筆を止め―― 素直に頷いて、ボトルを手に取った。 「は?」 ルードの表情が固まる。 「ちょ、やめろ、冗談だって」 エレナシアは何が問題なのかわからない、といった表情できょとんとしている。 「……いや、お前な」 ルードは、ぎりぎりのところでボトルを取り上げ、思わず天を仰いだ。 (ダメだこいつ、完全に何も考えてねぇ) エレナシアは、ルードの反応をじっと見つめて―― 『ご主人様って言うの、変?』 「……変に決まってんだろ」 『そう?』 ルードは、息を吐きながら椅子に座り直し、 無駄にドキドキしてしまった自分を誤魔化すように、わざとぶっきらぼうに言った。 「まぁ……似合っては、いるけどな」 エレナシアは、一瞬ぱちりと瞬きし―― くすっと笑った。 (……あっぶねぇ) このままでは完全にペースを握られる。 ルードは無理やり視線を逸らした。 「……ほら、そろそろ仕事だろ。行くぞ」 エレナシアは、素直に頷いてついてくる。 ――その姿がまた、目の端に入る。 (……クソ、落ち着かねぇ) ルードは、無駄に大きく息を吐きながら、 一刻も早くこの役目を終わらせたいと願った。 ◇ 「……ほら、そろそろ仕事だろ。行くぞ」 ルードがそう言って立ち上がる。 エレナシアは、一度彼を見上げ―― ふと、手元の紙に筆を走らせた。 『髪、ちゃんとしないと』 ルードが怪訝そうに眉を寄せる。 「は?」 『貴族の代理をするなら、身だしなみは大事』 ルードは面倒くさそうに息をついた。 「別に、そんな……」 エレナシアは少しだけ眉をひそめ、続けて書く。 『せっかくおめかししたのに』 ルードの手が、わずかに止まる。 わざわざ直すことに対して億劫そうにしている。 エレナシアは、すっと椅子を引いた。 手のひらを上向けて、示す。 ルードはしばらく彼女を見ていたが、ため息をつき、しぶしぶ腰掛けた。 エレナシアは椅子の背後に回る。 そっと指先を髪に触れた。 無造作に流れる髪は、思ったよりも柔らかい。 手櫛で形を整えながら、癖のついた毛束をそっと撫でる。 (こういうの……初めて) 旅の間は、そんなことを気にする暇もなかった。 ルードの髪を整えるなんて、考えたこともない。 けれど――今は、気になった。 後ろ髪を撫でながら、乱れた部分を手で整える。 余分な毛束を抑えるように、指を耳の後ろへと添えた。 その瞬間。 ルードの体が、わずかに強張った。 (……?) 思わず手を止める。 何かまずかっただろうか? ルードは何も言わない。 (……気にしすぎ?) そう思い、再び手を動かす。 柔らかい毛先に指を滑らせながら、そっと整える。 額にかかる前髪も、少し整えて―― ふいに、ルードが小さく喉を鳴らした。 指先の動きが止まる。 気のせいかと思いながら、ちらりと横顔を盗み見る。 ルードは、どこか落ち着かないような顔をしていた。 少し考え―― エレナシアは、最後の仕上げに毛先を撫でた。 (……できた) ルードは短く息を吐き、無意識に髪に手を伸ばす。 エレナシアは、さっとその手を押さえた。 筆談ではなく、指で制するように伝える。 ルードは不満げに目を細めたが、それ以上は何も言わずに手を下ろした。 無造作だった髪が整えられ、端正な顔立ちが際立つ。 貴族の衣装とも相まって、普段よりもずっと―― (……)   見惚れていたことに気づき、慌てて視線を逸らす。 ルードは、不思議そうに眉をひそめる。 けれど、それ以上深くは聞かずに、ゆっくりと立ち上がった。 「じゃあ、行くか」 エレナシアは、こくりと頷く。 けれど―― (……なんか、落ち着かない) さっきの感覚が、まだふわふわと残っている。 ルードが歩き出し、その後ろ姿が視界に入る。 すっかり整った髪は、今までの彼とは少し違って見えた。 (……いつもと、違う) 理由はわからない。 けれど、エレナシアは微かに頬を熱くしながら、その後を静かについていった。 エレナシアは、ルードの後ろに立つと、そっと手を伸ばした。 指先が髪に触れると、わずかに無造作な毛束が指に引っかかる。 (やっぱり、ちょっと跳ねてる) 普段は気にせずそのままにしているのだろう。 ルードは、そんな細かいことを気にする性格ではない。 だけど、今日だけはいつものままではいられない。 エレナシアは、静かに手櫛を通しながら、少しずつ毛流れを整えていく。 ルードは特に何も言わずにされるがままだった。 けれど、肩がほんのわずかに強張っているのがわかる。 (……慣れてないのかな) そう思うと、少しだけ微笑ましくなる。 いつもは余裕のある態度を見せるくせに、こういう場面では不器用なのかもしれない。 ――と、そのとき。 ふと、ルードの耳元に目が留まった。 左耳のピアス。 普段、当たり前のようにそこにあるもの。 ルードの印象を決める特徴のひとつ。 筆を取り、『ピアスも外す?』 と書く。 ルードはちらりと視線を寄越し、少し考えてから―― 「……そうだな」 短く答えた。 ルードはゆっくりと指を伸ばし、自分でピアスを外す。 小さな金属の輝きが、一瞬だけ揺れたあと、彼の手の中に収まる。 (……なんか、変な感じ) ピアスがなくなっただけで、少しだけ印象が違う。 でも、それは見た目の問題だけじゃなくて―― (……いつもと違うルードみたい) ほんのわずかに、寂しさを覚える。 でも、それを口にするほどのことではないとも思う。 そのまま黙って、再び髪へと指を戻した。 ルードはふと目を逸らし、ぼそりと呟く。 「……そんなじろじろ見んな」 エレナシアは、はっとして視線を落とす。 別に、じろじろ見ていたわけじゃない。 けれど、確かに「見てしまった」自覚はあった。 ――少しだけ、頬が熱くなる。 気づかれないように、そっと息を吐いた。 ◇ バルツは、ルードをじろじろと見ながら、ワインのグラスを揺らしていた。 「うーん、やっぱお前、無愛想すぎるな」 「は?」 ルードは不機嫌そうに眉をひそめる。 「貴族の代理ってのはな、見た目だけじゃなくて、それなりに品のある振る舞いも求められるわけよ。」 「お前、そのツラで無言とか、ただの賞金稼ぎにしか見えねぇぞ?」 「……実際そうなんだから、しょうがねえだろ」 「貴族の代理なんだぞ。少しは愛想よくしろっての」 エレナシアは、そのやりとりを横で見ながら、ふと筆を手に取った。 ルードは確かに愛想がいいとは言えないけれど、それがこの人の普通だ。 表情の変化が乏しいわけでもない。 ただ、口を開けばぶっきらぼうで、余計なことを言わないだけ。 でも、社交の場ではそれが通じないことも知っている。 『私も、昔そう言われたことがある』 ルードが視線を向ける。エレナシアは軽く頷いた。 『社交の場では、何を話すかよりも、まず見た目や印象が大事なの』 かつて、王宮で過ごしていた頃のことを思い出す。 あの頃は、笑顔ひとつで場の空気が変わることを何度も見てきた。 「……マジで言ってんのか」 エレイナシアは頷いた。 ルードは露骨に嫌そうな顔をしている。 でも、それを見ていると、昔の自分を思い出して少しだけ笑いそうになった。 社交の場での作法や振る舞いなんて、最初は誰だってぎこちない。 何を話せばいいのかわからず、どう振る舞うべきかも掴めなくて、結局「黙って笑っていればいい」と言われる。 『まずは形から慣れればいい』 「……お前は元々そっち側の人間だから簡単に言うけどな」 『だからこそ、経験者の言うことは信じたほうがいい』 ルードは深くため息をついた。 「……ちっ、仕方ねぇな」 「じゃあ、愛想よくすりゃいいんだな?」 ルードは渋々、口を開く。 けれど、次の瞬間。 「……ふっ」 鼻で笑った。 「……」   『……ちがう』 エレナシアが即座に筆を走らせる。 ルードはムッとした表情で視線を向けた。 「なんだよ、今笑ったろ」   『そういうのじゃない』   「じゃあどれだよ」 エレナシアは少し考えてから、そっと手を伸ばした。 ルードの顔の横に指を添え、口角を軽く持ち上げる。 持ち上げられた唇の隙間から、白い犬歯が覗いた。 「……?」 ルードが僅かに目を見開いた。 指先で形を整えるようにして、彼の口元を軽く上げる。 『こんなかんじ』 口元から指を離し、紙に書く。 「……」 ルードは何とも言えない表情でこちらを見ていたが、しばらくして諦めたように息を吐き、自分で表情を作り直した。 その瞬間。 エレナシアの呼吸が、ふっと止まる。 視界の端で、バルツがグラスを落としかけたのが見えた。 でも、そんなことよりも。 ルードが、笑っている。 普段の無愛想な表情とはまるで違う。 目元の鋭さが和らぎ、驚くほど穏やかで、爽やかで。 (……こんな顔、するんだ) 何か言おうとしたけれど、うまく筆が動かない。 この場にいるのはルードなのに、違う人を見ているみたいで。 胸の奥が、不思議な感覚でざわつく。 「……なんだよ」 ルードが不思議そうにこちらを見る。 エレナシアは慌てて筆を握り直した。 『……もう少し、力を抜いたほうがいいかも』 でも、自分の手が少し震えていることに気づく。 バルツは腕を組み、じっとルードを見つめながら唸るように言った。 「……まぁ、いいんじゃねぇか? そのままいけば、妙に色気のある若貴族って感じで、女どもにはウケるかもな」 「ふざけんな」 ルードが即座に否定する。 しかし、バルツはまだ満足していない様子だった。 「いや、待て待て。顔はそれでいい。だがな、問題は話し方だ」 ルードは、眉をひそめる。 「……話し方?」 「お前、普段の喋り方じゃただの無愛想な賞金稼ぎのままだぞ? もっとこう、品よく話せねぇのか?」 ルードは面倒くさそうに腕を組んだ。 「別に、どう喋ろうが関係ねぇだろ」 『関係ある』 エレナシアが即座に筆を走らせる。 『貴族は、言葉遣い1つで印象が変わる』 ルードが、少し不機嫌そうに視線を向ける。 「……じゃあ、どうすりゃいいんだよ」 エレナシアは、しばし考えたあと、筆を動かした。 『例えば……“別に、どう喋ろうが関係ねぇだろ”じゃなくて』 『“どう話しても、変わらないのでは?”』 ルードは顔をしかめた。 「……そんな言い方、ガラじゃねえって」 『だから、練習』 エレナシアが静かに微笑む。 ルードは、明らかに嫌そうな顔をしたが――しぶしぶ口を開く。 「……どう話しても、変わらないのでは?」 『もっとゆっくり』 「どう……話しても、変わらないのでは?」 『語尾をやわらかく』 「どう話しても、変わらないのでは……ないか?」 『あとは、少し余裕を持って』 「……どう話しても、変わらないのではないか?」 エレナシアが、満足げに頷く。 ルードは、わずかに目を細めた。 「……俺には向いてねぇな」 バルツが吹き出す。 「ははっ、お前、やればできるじゃねぇか」 エレナシアは、ルードの様子をじっと見つめていた。 口調ひとつで、印象が変わる。 少し喋り方を変えただけで、ここまで貴族らしく見えるのか―― ルードは不満げに腕を組みながら、もう一度ため息をつく。 「……めんどくせぇなぁ」 けれど、もう一度ルードが言葉を口にしたとき、エレナシアの筆が止まる。 「どう話しても、変わらないのではないか?」 落ち着いた口調。 ゆっくりとした言い回し。 (……なんか、別人みたい) エレナシアは、自分の心臓が少し速くなっていることに気づいた。 『……もう少しだけ、練習してみる?』 自分の動揺を隠すように筆を走らせる。 ルードは不満げに唸りながらも、渋々頷いた。 「……仕方ねぇな」 けれど、もう一度ルードが貴族らしい口調で話したとき。 エレナシアの耳の先が、微かに赤く染まっていた――。