第15話 偽証なき虚構、或いは未完の命題
華やかな音楽とざわめきが響く大広間に、一組の貴族――いや、貴族の“代理”が足を踏み入れた。
ルードは場違いな空間に内心うんざりしながらも、表情は涼しげに装っていた。
(……めんどくせぇ)
だが、その姿は完全に貴族そのものだった。
普段の無造作な髪は整えられ、依頼主から借りた礼服をまとったルードは、
どこから見てもそれなりに“品のある青年貴族”に見えた。
会場の入り口で、執事が高らかに宣言する。
「バルツ・フォルスター卿、ご到着です」
(……マジかよ)
ルードは微妙に目を細めたが、何も言わずに歩を進めた。
「おや……バルツ・フォルスター卿?」
目の前に現れた初老の貴族が、目を細める。
「こんなにお若かったかな?」
(……やべぇ)
ルードは一瞬だけ思考を巡らせる。
エレナシアは隣で控えていた。
静かに様子を見守りながらも、筆を握る手には力が入っていない。
彼女が助け舟を出す気はないようだ。
「……さ、最近は、健康に気を使っていて」
ルードが適当に言葉を繋ぐと、貴族は納得したように頷いた。
「ほう、なるほど。やはり節制は大事ですな」
(……納得すんのかよ)
エレナシアは視線を落とし、淡々とした筆跡で書いた。
『こういう場は、堂々としてるほうがそれらしく見える』
ルードがちらりとそれを見て、小さく息を吐く。
「……ふーん」
貴族の女性たちは、ルードのもとへ次々と寄ってきた。
彼が口数が少ないことを、彼女たちは「寡黙で洗練された貴族」と都合よく解釈している。
「バルツ・フォルスター卿、お酒をどうぞ」
「まあ、素敵……あまり社交には出られないの?」
「お話しませんか?せっかくの夜会ですし」
ルードはちらりとワイングラスを見たが、すぐに視線を逸らした。
「ご厚意に感謝するが……今夜は控えておこう」
柔らかく微笑む――つもりだった。
しかし、実際には口角がほんのわずかに動いただけで、
無表情のまま冷淡な印象すら与えてしまう。
それでも、令嬢たちは目を輝かせた。
「まあ……なんて紳士的なのかしら」
「お酒を強要しないなんて、洗練されているのね」
「ぶっきらぼうな方かと思いましたけれど、意外と落ち着いた雰囲気……」
(……どこをどう見たらそうなるんだ)
「ねえ、ダンスは?」
ルードは一瞬、反射的に断ろうとした。
(できるわけねぇだろ……)
だが、この場で不用意に拒絶すれば「社交性に欠ける貴族」と思われるかもしれない。
「申し訳ないが、ご遠慮させていただく」
「まあ……」
「もしかして、踊る相手がもう決まっているとか?」
「ふふ、焦らされるのもまた一興ね」
――どうやら、この言い方も誤解を生むらしい。
(……くそ、なんか逆に変な感じになっちまったじゃねえか)
ちらりとエレナシアの方を見ると、彼女はなんともいえない表情で筆を走らせていた。
『貴族らしくてよかったと思う』
どこかはしゃいでるような筆跡だった。
(……こいつ、楽しんでないか?)
◇
ルードは、貴族の女性たちに囲まれていた。
彼女たちは、控えめな笑みを浮かべながら、彼に話しかける。
ルードの反応はいつも通り淡々としていたが、それでも彼女たちは熱心だった。
(別に、不思議じゃない……)
もともと整った顔立ち。
いつも無愛想で無頓着なのに、どこか涼しげな印象を与える鋭い目元。
そして今日は、髪が整えられている。
普段は適当に撫でつけるだけの黒髪が、今日はちゃんと整えられている。
自分がやったのだから、当然だ。
でも、思った以上に。
(……似合ってる)
そのせいか、いつものぶっきらぼうな雰囲気が和らぎ、貴族らしさすら漂っていた。
無愛想な態度ですら、余裕のある貴族の「気だるげな振る舞い」に見える。
だからこそ、女性たちが惹かれるのも、仕方がない。
……なのに。
エレナシアは、無意識に筆を握りしめた。
筆を持つ指に、いつもより少しだけ力が入る。
そんなときだった。
「ねえ、バルツ・フォルスター卿」
おだやかで柔らかな声。
振り返れば、艶やかなドレスに身を包んだ若い女性が、品のある笑みを浮かべて立っていた。
淡いローズピンクの髪は美しく巻かれ、片側で軽く結ばれている。
明らかに他の女性よりも積極的。
けれど、その所作には無理のない優雅さがあった。
「少しくらい、お相手してくださるでしょう?」
すらりとした指先が、ためらいもなくルードの腕へと伸ばされる。
けれど“触れる”までには至らず、ほんの寸前で止まる。
どこかで、“この人には触れない方がいい”と理解しているようにも見えた。
ルードは、ちらりとその手を見た。
特に動じた様子もない。けれど、その目の奥が一瞬だけわずかに細まった。
エレナシアの視線が、無意識にルードへ向く。
彼はどうするのだろう。
ルードは、ふっと息を吐き――
「……今宵はすでに相手がいるのでね」
――涼やかな笑みを浮かべた。
エレナシアの思考が、一瞬止まる。
ただの営業スマイルのはずだった。
それは、社交の場では必要なもので、貴族なら当たり前に身につけている“技術”のひとつ。
自分でそう言ったのに。
ルードに「まず見た目や印象が大事」と教えたのは、エレナシア自身だ。
だから、こうして彼が実践するのも当然のことなのに。
(……自然にできちゃうんだ)
いつもは仏頂面ばかりの彼が、まるで慣れた貴族のように微笑む。
それが、思った以上に様になっていて――違和感がない。
それが、少しだけ。
(……なんだか、変な感じ)
別に、何かが違うわけじゃない。
ルードは、ちゃんと貴族の代理として振る舞っているだけ。
けれど、その事実が、エレナシアの中で妙に引っかかった。
「まあ……!」
女性たちが、一斉に息を呑む。
まるで、まばたきを忘れたかのように。
「フォルスター卿が微笑まれるなんて」
「やっぱり洗練された方なのね」
「無口な方かと思っていましたが……ふふ、素敵」
小さなざわめきが広がる。
それは、どこか嬉々とした――それでいて、興味を惹かれた人間特有の熱を孕んでいた。
ルードは、そんな彼女たちの反応を気にも留めず。
傍らにいたエレナシアの手を取った。
「ほら、俺の“お相手”だ」
エレナシアの意識が一瞬、跳ね上がる。
(……私?)
だが、ルードはお構いなしに、さらりとその手を持ち上げた。
まるで、本物の貴族のように――手の甲に口を寄せる。
「貴族ってのはこうするんだろ?」
皮肉めいた口調。
しかし、その所作は妙に様になっていた。
ほんの一瞬、エレナシアの動きが止まった。
貴族の作法として、正しい。けど。
(……ルードが、こんなことするなんて)
そう考えた途端、微かに指先が冷える感覚がした。
――なんだろう、これ。
エレナシアはそのまま筆を走らせた。
『……本当に、踊るの?』
そう書かれた文字を見たルードは、ふっと小さく笑った。
けれどその笑みには、少しだけ照れたような、柔らかさが滲んでいた。
「無理に決まってんだろ」
ルードが少しだけ照れてる空気。
でもそれを悟られまいとしているのか、早足で背を向ける。
「……もう十分だろ、行くぞ」
エレナシアもすぐに立ち上がった。
◇
最初は誰かの笑い声だった。
けれど、それが少しずつ、違う種類のざわめきに変わっていく。
「……?」
ルードの足が止まる。
エレナシアも、不安げに視線を上げた。
遠くの方で、誰かが叫んでいた。
「武装した男が――!」
「誰か、止めろ!」
ざわめきが波紋のように広がっていく。
(……嫌な予感がする)
誰かの呟きとともに、視線が一斉にある一点へと集中する。
長身の男が、一人、会場の奥から歩いてくる。
視線はただ一方向――ルードをまっすぐに見据えていた。
(……なんだ?)
ルードの指先がわずかに動く。
腰にある剣へと意識が向かいそうになるのを、寸前で止めた。
今は“バルツ・フォルスター卿”として振る舞っている。
剣を抜くことは、すなわちこの仮面を砕くということ。
けれど、男の歩みは止まらない。
エレナシアもまた、男の異様さに気づいたのか、隣でわずかに身を寄せる。
男が立ち止まり、無言のまま、ルードを見据える。
そして――口を開いた。
「お前が、"バルツ・フォルスター"だな」
その声に、空気が一段冷える。
数人の貴族が顔を見合わせ、ひそひそと何かを囁いた。
ルードはまっすぐに男を見返す。
「……誰だ」
「知らないとは言わせないぞ」
にやり、と男が笑う。
けれどその笑みに、冗談の温度はなかった。
「俺は……あんたのせいで、婚約者を失った。家も、立場も、すべて」
男の言葉に、会場の空気が張り詰めていく。
「――酔っ払ったバカが、面白がって“誰かの不倫”をネタにしてたって」
「――その“バカ”が、あんただって話なんだよ」
「……で?」
ルードは眉ひとつ動かさずに応じた。
「それで、今夜ここで復讐しに来たってわけか?バルツを見つけたと思って」
男がルードを睨みつける。
「さっき入口で高らかに宣言されてただろう!」
「――だったら、お前がバルツじゃなくて、なんだって言うんだ!」
怒鳴り声が、会場の空気を揺らした。
(……こっちは"フリ"させられてるだけだってのに)
ルードは、肩越しに周囲の視線を感じながら、小さく舌打ちする。
瞬間、男が腰のあたりに手を伸ばすのを、ルードは見逃さなかった。
(武器か……)
ルードの体が動きかけた――が。
次の瞬間、男の視線が――エレナシアに移った。
「……その女、お前の“付き人”か?」
ルードの目が鋭くなる。
「やめろ。そいつは関係ない」
「関係ない? ハッ、あんたに仕えてる時点で充分関係あるだろうが」
「てめぇ……」
エレナシアの腕が、ぐっと引かれる。
「っ――!」
(まずい――暴走……)
一瞬、そんな最悪の可能性が脳裏をかすめた。
ルードが一歩、踏み出す。
剣に手がかかりそうになる――その瞬間。
エレナシアが、ルードを見た。
『――大丈夫』
まるでそう言いたいかのように、彼女の目はまっすぐだった。
ルードは、喉奥で舌打ちしながら、手を止めた。
「……離せ。今なら、見逃してやる」
「フン。なに様のつもりだ、“フォルスター卿”」
男は、エレナシアを引き寄せながら、ナイフを抜いた。
そして――ルードの瞳が、すっと細まる。
(……仕方ねえ)
剣に触れずとも、彼の身体はすでに獣のように構え始めていた。
男がエレナシアの肩を引き寄せ、ナイフの切っ先をその喉元へと近づけた。
「近づけば、この女がどうなるか……わかってるんだろうな」
鋭く光る刃が、月のような照明に反射する。
エレナシアは驚きに目を見開いたものの、悲鳴を上げることはなかった。
ただ、ルードを――まっすぐに見ていた。
(……信じてる、ってことか)
ルードの奥歯が、わずかに軋んだ。
だが、手はまだ剣に触れない。
「……なあ、“フォルスター卿”」
男がねっとりとした声で続ける。
「命乞いでもしてみろよ」
ルードは、一歩、静かに前へ出た。
「おい」
「……なんだよ」
「……さっきから聞いてりゃ――お喋りが過ぎるぞ」
自分で言いながら、どこか馴れない響きに、内心で舌打ちする。
だが、その言葉と同時に、ルードの体が弾かれたように動いた。
会場が、息を呑んだ。
誰も、ルードの脚が床を蹴る音すら聞き取れなかった。
次の瞬間、男の背後に影が回り込んでいた。
「……え?」
驚きの声が漏れたときには、ルードの左腕が男の首をとらえていた。
一拍の空白。
そして――
がつん、と何かが鈍くぶつかる音。
男の手からナイフが滑り落ち、床に転がった。
その刹那、ルードの足が男の膝裏を払う。
「……っぐ、あ……!」
制圧は、わずか三手。
音も叫びもなく、男は床に膝をつき、ルードに押さえつけられていた。
仮面は――剥がれていなかった。
ルードは、騒然とする会場を一瞥し、静かに言った。
「……失礼、少し手荒になった」
服の乱れを直すように、軽く手で胸元を整えた。
言葉を発する者は、ひとりもいなかった。
エレナシアは、その場に立ち尽くしていた。
彼女に、何も傷はない。
けれど、指先がわずかに震えていた。
ルードが、彼女にだけ向けて――目を細める。
(……怖かったのか)
だが、それでも彼女は――逃げなかった。
エレナシアは、そっと筆を取りかけ――
けれど、何も書かずに手を止めた。
ただ、まっすぐルードを見て、小さく頷く。
その瞳には、恐れではなく――確かな信頼が宿っていた。
ルードはその様子を確認すると、押さえつけていた男の襟を無言で掴み、警備兵に突き出した。
「連れてけ」
◇
夜の庭園に出ると、冷たい夜風が頬を撫でる。
ルードは大きく息を吐き、ネクタイを緩めた。
「やっと解放された……」
ルードは脱力したように椅子へ身を預けた。
肩の力が抜けると、張り詰めていた空気が、ようやくその場から消えていく。
ちらりとエレナシアの方を見やる。
「……怪我、しなかったか?」
平静を装ったつもりだったが、声に滲んだ心配までは隠せなかった。
エレナシアは、こくりと頷く。
「……正直、暴走するかと思った」
あの瞬間を思い出す。
ナイフを突きつけられた彼女の首、ひりついた空気。
「前にも、似たようなことがあっただろ」
初めて彼女の力を目の当たりにした日。
賞金稼ぎに追い詰められた彼女は、抑えきれない恐怖の中で、自分でも制御できない力を解き放った。
エレナシアはほんの少し目を伏せて、ゆっくりと筆を取る。
『……今回は、大丈夫だった』
『ルードが助けてくれるって、信じてたから』
その文字を見た瞬間、不意を突かれたように胸が熱くなる。
何かが、ぎゅっと、奥の方で掴まれた気がした。
彼女はさらに筆を走らせる。
『でも、ちょっとだけ怖かった』
紙を差し出すと、そっと胸元を押さえた。
かすかに震えるその手が、妙に頼りなく見える。
思わず、その震えを包み込みたくなった。
けれど、それが何かを壊してしまいそうな気がして、衝動を押し殺す。
「ちょっとだけ、ねえ……」
気持ちを誤魔化すように、わざと気の抜けた口調で呟いた。
「俺が攫ったときは、全然怯えてなかったくせに」
冗談めかして言ったその一言が、自分の胸に刺さる。
エレナシアの方を見ると、きょとんとした顔をしている。
『あのときは……』
何かを考えるように少し間を置き、再び筆を動かした。
『ルードが、私を傷つけるつもりじゃないってわかってたから』
その言葉に、息が止まりそうになった。
「……なんだよ、それ」
ただの依頼だった。ただの“荷物”だった。
なるべく傷つけずに届ける。それが仕事で、それ以上でも以下でもない。
でも――
(なんで、そんなことがわかったんだ)
ふいに、前にエレナシアに言われた言葉が脳裏をよぎる。
『誰かを傷つけるのが、怖いんじゃない?』
――そうだ。
あのときは、深く考えなかった。
けれど今になって、その言葉がずしりと響いてくる。
まるで、自分の奥底にある“何か”を、彼女だけが知っていたみたいに。
そのときは、自分でも気づかない本心まで見透かされているようで。
少しだけ、居心地が悪かった。
ルードは黙ったまま、視線をそらす。
すると、エレナシアが一拍置いてから、ふいに筆を走らせた。
『貴族のふり、案外うまかった』
「……なわけあるかよ」
意表を突かれたように返すと、彼女はまたさらさらと文字を綴る。
『少なくとも、適当に話を合わせるのは得意みたい』
「おい」
今度は笑いが漏れた。
ルードは小さく息を吐き、空を見上げた。
しばらく沈黙が続いた。
ルードが何気なく視線を落とした、その瞬間。
エレナシアがぴょんっと前に飛び出した。
ルードは思わず眉をひそめた。
エレナシアは振り返り、ルードをじっと見つめる。
ほんの少し、目を輝かせたように見えた。
夜の灯りに照らされた銀の髪がふわりと揺れる。
スカートの裾も軽やかに揺れて、動きに合わせて小さな影が地面に落ちる。
すぐに筆を取り、すっと文字を綴った。
『ちょっと、やってみたい』
ルードは、一瞬だけその筆記よりも、エレナシアの仕草のほうに意識が向いた。
「……何を?」
エレナシアはじっとルードを見上げる。
夜の灯りに照らされた瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
一歩、近づいてくる。
彼女は静かに首を傾げる。
耳が、わずかに赤い気がした。
『さっき私のこと、“お相手”って言ったでしょ?』
筆を走らせるエレナシアの指が、少しだけ迷うように揺れた。
『……型だけでも』
ルードは眉をひそめる。
ふわりと、スカートの裾が揺れる。
エレナシアは何も言わずに、自分の腰にそっと手を添える。
ルードは、それだけで心臓が跳ねるのを感じた。
(……マジかよ)
渋々と手を伸ばし、エレナシアの腰に触れる。
柔らかい。
細い。
体温が、思った以上に、はっきりと伝わる。
喉が詰まるような感覚に、ルードは何も考えないようにした。
そうしなければ、無意識に力を込めてしまいそうだった。
「……で?」
エレナシアは何も言わず、ルードのもう片方の手を取る。
細い指がそっと自分の肩へと導いていく。
軽く触れた肩が、小さく震えた気がした。
ルードはそれに気づきながらも、何も言わなかった。
(……こんな距離、今まで何度だってあった)
なのに。
今はなぜか、視線を合わせるだけで息苦しい。
エレナシアの睫毛が、夜の灯りに照らされて揺れる。
髪の間から覗く白い肌が、いつもより近く感じる。
(なんで……)
ルードは何かを振り払うように、口を開いた。
「……思ったより、くだらねぇな」
エレナシアがこちらを見上げる。
まるで、すべてを見透かしているような瞳で。
彼女の唇が、微かに動く。
声にはならなかったが、確かに笑った気がした。
ルードは、耐えられずに視線を逸らした。
エレナシアは何も言わず、そっと手を離し、筆を取る。
『案外、向いてるかも』
「ねぇよ」
ルードは即座に言い返し、つい手を振り払う。
けれど、指先の感触は、もう振り払えなかった。
(……ダメだ)
何がダメなのか、まだ理解はしていない。
でも、これ以上ここにいたら、何かが決定的に変わる気がした。
夜風が静かに吹き抜ける。
ルードは無言のまま、ほんの一歩だけ距離を取る。
その時だった。
エレナシアが、筆を握る手をぎゅっと強く握りしめた。
小さな仕草だったが、どこか決意の色があった。
ルードは、その手の動きをぼんやりと見ていた。
そして、次の瞬間――
『……依頼は?』
夜風が静かに吹く。
遠くの建物の中から微かに音楽が聞こえるが、それすらも遠く感じた。
(……今、聞くのかよ)
貴族ごっこのことではない。
「エレナシアを依頼人に引き渡す」ことを指しているのは明白だった。
ルードはゆっくりと息を吐いた。
答えは、もう決まっている。
でも、それを口にした瞬間、次に来る言葉まで決まってしまう気がした。
――「なんで?」
そう聞かれたら、どうする?
別に、今すぐ答える必要なんてない。
適当に流せば、それで終わる話だ。
「今考えても仕方ねぇだろ」
淡々とした声でそう言うと、エレナシアはじっとこちらを見上げた。
すぐに筆が動くことはない。
ただ、その手が少し強く握られているのが分かった。
ルードはふっと目を逸らす。
「……どうでもいいだろ、今は」
それは、意識せずに口をついて出た言葉だった。
静かに、エレナシアの筆が動く。
『どうでも、いいの?』
ルードは、答えなかった。
代わりに、ポケットに手を突っ込みながら、夜空を見上げる。
その問いに、簡単に「そうだ」と言えないことに気づいた。
エレナシアの筆跡を見つめたまま、ルードはほんの数秒、沈黙する。
夜風が静かに吹き抜けた。
けれど――
ルードは、ふっと肩をすくめる。
「……今はこっちの依頼が先だろ」
淡々と、しかしどこか軽く流すように言った。
エレナシアはじっとルードを見つめていたが、やがて、何も言わずに筆を置く。
「ほら、戻るぞ」
ルードはそう言いながら、庭園の出口へ向かう。
エレナシアも少し遅れて歩き出した。
夜の空気が、妙に冷たく感じた。
◇
「おー、戻ったか戻ったか!」
バルツ・フォルスター卿は、相変わらずどこか軽い調子でワインのグラスを揺らしていた。
「……戻ったか、じゃねえんだよ」
ルードは低く吐き捨てるように言って、無造作に椅子へ腰を下ろす。
その動作には、どこか疲労と苛立ちが混じっていた。
「何が貴族の代理だ。お前の悪行の尻拭いまで請けた覚えはねえぞ」
グラスの脚を指で弄んでいたバルツが、面白そうに眉を上げる。
「なんかあったのか?」
「……お前に秘密をバラされたとかいうやつに襲われた」
「秘密ねえ……」
バルツは一瞬だけ考え込むような素振りを見せたが――次の瞬間、あっけらかんと肩をすくめた。
「心当たりが多すぎて、なんのことやらだな」
そのあまりに悪びれない態度に、ルードの眉がぴくりと動く。
「ふざけんじゃねえ」
低く、押し殺した声。
「こいつが人質に取られたんだぞ」
ちらりと視線を横に送る。
エレナシアはすでに落ち着いているように見えたが、指先にはまだわずかな緊張が残っていた。
バルツは彼女の方をちらりと見ると、途端に愉快そうな顔をする。
「ただの連れかと思ったら、お前ら、そういう関係か?」
「……そんな話はしてねえだろ」
冷静に返すつもりだった。
だが、自分でも気づかぬほどわずかに、声が揺れていた。
エレナシアがルードを見上げる。
その表情はいつもと変わらない――けれど、ほんの少しだけ頬が赤いのは気のせいだろうか。
「でも、そういうことも織り込み済みの依頼だったはずだぜ?」
バルツは悪びれもせず、ワインを口に運ぶ。
「条件にも書いてあったろ。“武芸の心得があること”ってな」
言われてみれば、確かに。
だが、それが命の取り合いになるとは――依頼書には、そんなこと一言も書いていなかった。
(まぁ、結果的に無事だったわけだし……これ以上は時間の無駄か)
ルードはひとつ、長く息を吐いた。
「で、どうだった? ちゃんと貴族ムーブはこなせたか?」
「……まぁな」
ようやく、少しだけ肩の力が抜ける。
ルードが気だるげに答えると、バルツは満足げに頷いた。
隣でエレナシアが、小さく微笑んだような気がした。
「いやぁ、お前、思った以上に向いてると思うぜ?」
「……そりゃどうも」
「顔が整ってるのは最初から思ってたけどよ、なんつーか、こう……妙に馴染んでるよな」
バルツはニヤニヤしながらワインを口に運ぶ。
ルードは不機嫌そうに眉をひそめた。
「俺は貴族向きじゃねぇ」
「まぁ、そうだろうな。愛想はねぇし、口は悪ぃし」
「……余計なお世話だ」
「でもよ、場慣れすりゃワンチャン貴族としてやってけたんじゃねぇか?なんならうちの家名でも貸してやろうか?」
「遠慮しとく」
ルードは即答し、バルツは大げさに肩をすくめる。
「ちぇっ、面白ぇのによ」
バルツは懐から金貨の詰まった袋を取り出し、机に置いた。
「ほら、約束の報酬だ」
ルードは無言でそれを受け取り、軽く袋を持ち上げる。
ずしりとした重み。
(まぁ、これでしばらくはなんとかなるか)
「それにしても、お前の付き人ちゃんもなかなかだな。いい目をしてる」
バルツが何気なくそう言うと、ルードは少し目を細めた。
「何が言いたい?」
「いや?なんとなくよ。大人しいのに、妙に肝が据わってる感じがするっていうか?」
バルツは適当なことを言いながらグラスを揺らす。
ルードは何も言わず、軽く舌を打った。
「……余計な詮索はすんなよ」
バルツはそこで、ふっと口元だけで笑った。
ワインを口に含んだまま、何も答えない。
「……なんだよ」
ルードが睨むように言うと、バルツは肩をすくめた。
「……案外、お前みたいなヤツが、いちばんハマるのかもしれないな。こういう舞台にはさ」
「……なにが言いたいんだよ」
「ああ、悪い悪い。こっちの話だ」
バルツは意味ありげな笑みを浮かべたが、それ以上なにか言うことはなかった。
◇
バルツ・フォルスター卿の屋敷を出て、夜の街を歩く。
パーティーの喧騒は遠ざかり、静かな夜の空気が広がる。
「……やっと終わったな」
ぼそりと呟くと、エレナシアが少しだけ首を傾げた。
『そう?』
ルードは、何気なく彼女を見る。
エレナシアは、それ以上何も書かなかった。
代わりに、夜空をちらりと見上げる。
ルードは適当にピアスをつけ直しながら、ふっと息を吐いた。
「ま、もう貴族ムーブはコリゴリだな」
そう言って歩き出すと、エレナシアも小さく微笑んでついてくる。
けれど、ルードの背を見つめる彼女の目は、どこか思案げだった。
ふと、エレナシアが筆を動かした。
『貴族の服、似合ってたよ』
ルードは足を止める。
「……急になんだよ」
『もうちょっと見てたかった』
ルードは思わず「冗談だろ?」という顔をする。
「……あんなもん、着慣れねぇよ」
『でも、かっこよかった』
「……」
ルードは微妙に視線を逸らす。
(おいおい、さらっと言うな)
『でも、やっぱりいつものルードがいい』
――その一言で、ルードの思考が止まる。
「……」
エレナシアは、淡々と筆を走らせる。
『そっちの方が落ち着く』
ルードの喉が詰まる。
(……なんだ、それ)
「貴族の服似合ってた」とか言ってたくせに、「でもいつもの方がいい」とかどういうことだ?
そう思うのに、妙に胸の奥がざわつく。
「……そうかよ」
短くそう返すのがやっとだった。
エレナシアは、ただ静かに微笑んでいる。
夜の空気は冷たく澄んでいた。
風が吹き抜け、エレナシアの銀の髪が微かに揺れる。
エレナシアが筆を走らせた。
『……寒い』
ルードはちらりと彼女を見た。
マントの裾を握る細い指先が、わずかに震えている。
「そりゃ、雪の気配がするからな」
エレナシアは筆を握ったまま、一瞬だけ空を見上げた。
『……でも、嫌いじゃない』
ルードは、思わず眉をひそめる。
「……寒いのに?」
エレナシアは、小さく微笑むようにして、筆を動かした。
『寒いって、外にいる証拠だから』
ルードは一瞬、返す言葉を失う。
そんなことを、今まで考えたこともなかった。
――エレナシアにとっては「寒さ」すら自由の証なのか。
けれど。
(それでも、寒いもんは寒いだろ)
エレナシアの肩が、かすかに震えているのが見えた。
ルードは、無意識に口を開いた。
「……温めてやるか?」
エレナシアが、ぱちりと瞬きをする。
それから、迷いもなくルードの外套の中にするりと入り込んだ。
「……!」
ルードの肩が、こわばる。
柔らかい髪が肩に触れ、エレナシアの細い指がそっと外套を握る。
そして、静かに筆を走らせた。
『あったかい』
ルードは無言で夜空を仰ぐ。
(……言わなきゃよかった)
軽いノリで言ったつもりが、思ったよりダメージがでかい。
外套の中、彼女の指先がそっと動くのがわかる。
「……お前な」
『寒いの、嫌いじゃない』
「だったらそんなにくっつくな」
エレナシアは、微かに体を預けるように寄ってきた。
夜の冷たい風が、静かに二人を包む。
肩を寄せるように外套を共有しながら、ルードとエレナシアは静かに歩いていた。
さっきまでの喧騒が嘘のように、夜の世界は静かだった。
ルードが、ふと夜空を見上げた。
「……雪、降るかもな」
その言葉に、エレナシアが筆を走らせる。
『雪、降るといいな』
ルードは、一瞬だけ息を止めた。
エレナシアが、もう一度筆を握り直す。
少し迷うような仕草。
そして、ゆっくりと書いた。
『でも、雪を見たら……その次は?』
ルードの足が、止まりかける。
「……さあな」
答えになっていない。
いや、答えられない。
エレナシアは、静かに筆を握る。
そして、続けた。
『依頼は、どうするの?』
ルードの指が、無意識にポケットの中でこわばる。
「……今は、それよりメシと宿探しが先だ」
適当に答え、歩き出す。
エレナシアの筆が止まる。
でも、彼女は追及しない。
エレナシアの筆が、そっと走る。
『雪、降るかな』
それは、ただの独り言のようだった。
けれど――
ルードは、夜空を見上げながら思う。
エレナシアの「雪が見たい」という願いは、ルードがここにいる理由だった。
じゃあ、もし雪が降ったら?
そうしたら、俺は――
(……もう、ここにいる理由がなくなる)
けれど。
もし、雪が降らなかったら。
まだ、ここにいる理由を探せるんじゃないか。
そんな考えが、一瞬でも頭をよぎった自分が、嫌になる。
(……バカか、俺は)
ちらりと横を見る。
エレナシアもまた、夜空を見上げていた。
静かに、何かを待っているような、そんな表情だった。
……もし、こいつも同じことを考えてたら。
(それを理由に、まだ俺のそばにいてくれるのか?)
そんな「ありもしない期待」をしてしまう自分が、一番厄介だった。
◇
静かな部屋だった。
書類の山も、魔力の道具も脇へ押しやられ、机の中央には一枚の地図だけが置かれている。
男はそれをじっと見つめていた。指先が紙の端をなぞるたび、長くはない沈黙が室内に流れる。
地図の上には、細い赤線で引かれた予定ルートが記されていた。
その線は、途中でぷつりと切れている。
本来なら、すでに引き渡しは済んでいたはずだった。
そのために、彼はあの男を選んだ。
若く、腕が立ち、どこにも属さない一匹狼。
過去に目立った問題もなく、報酬さえ約束すれば動く──そういう人物。
彼女に危害を加えることもなく、感情のやりとりを生むこともない、
あくまで“運搬役”として機能するはずだった。
「……予定外、だな」
小さく、吐き出すように言った声に、誰かが静かに応じた。
「これから、どうするの?」
黒いドレスの少女が、音もなく背後に立っていた。
紅い瞳は揺れず、問いには温度もなかった。
ただ、それでも、どこか“選ばせよう”とする気配だけが残る。
男は視線を地図から離さずに言った。
「……まだ、選べる」
言葉の意味は不明瞭だったが、それでも彼女は頷いた。
「私はあなたの決めたことに従う」
それだけ言うと、静かにその場を去っていった。