第12話 私に雪を見せてくれる?

翌朝、宿の外は曇り空だった。 重たい雲が空を覆い、時折、湿った風が通り抜ける。 昨夜の疲れが残っているのか、エレナシアの足取りは少し重かった。 (……もう、一日ぐらい休ませてやったほうがよかったか) ルードはちらりと横目で彼女を見るが、エレナシアは気丈に歩いていた。 荷物は最小限。 町の通りを抜け、市場のざわめきが聞こえる前に、ルードは一度足を止める。 (……最近、妙に襲撃が増えてる) 最初は、たまたま追手に見つかっただけだと思っていた。 けれど―― この数日、出発するたびに、何かしらの影がついてくる気配がある。 (偶然にしちゃ、多すぎる) (やっぱり、依頼人の差し金……なのか?) 焦りのようなものが、静かに胸をざわつかせた。 (だったら――早く引き渡せばいい) それが一番、簡単な道のはずだった。 依頼をこなせば、それで終わる話。 (じゃあ、俺は……何をやってる) 思考が、行き場を失う。 「……あんまり人目につく場所は避ける。裏通りを行くぞ」 ルードはそう言って歩き出す。 エレナシアは頷き、黙ってついてくる。 まるで、その背中を見失いたくないかのように。 その途中、ギィ、と古びた扉が軋んだ。 物陰から、気配が忍び寄る。 (……また、かよ) ルードはわずかに剣に手をかけ、静かに目を細めた。 そのとき――頬に冷たい感触が落ちた。 雨。 空を見上げるまでもなく、にわか雨がぽつぽつと降り出している。 冷たい風が肌をなで、じわじわと濡らしてくる。 ちらりと隣を見やると、エレナシアがわずかに肩をすくめていた。 まだ回復しきっていない身体には、この雨と冷えは堪えるだろう。 (……ちっ、タイミングが悪い) ルードは周囲に目を走らせ、すぐ近くの古びた倉庫を見つける。 敵の気配が迫る中、そこなら一時的にでもしのげそうだった。 「……ついてこい。あそこなら、雨も避けられる」 そう言うと、エレナシアも無言で頷き、彼の後を追った。 途中、風にあおられてフードがずり落ちかけた彼女の肩に、ルードは無言で自分の外套の端をかぶせる。 エレナシアが小さく目を見開いたが、ルードは気づいていないふりをした。 「走れ。見つかってる」 声を低く、静かに告げる。 二人は雨の中、倉庫へと身を滑り込ませた。 倉庫の中は薄暗く、木の壁の隙間から風がしみ込んでいた。 雨音が屋根を叩き、外の様子を曖昧に遮っている。 ルードは扉近くに身を寄せ、背中を壁につけた。 剣を抜くには、まだ早い。 外の気配は、複数。 様子をうかがっているのか、それとも囲もうとしているのか。 エレナシアもすぐそばにいた。 マントを肩にかけたまま、静かに呼吸を整えている。 体調は万全とは言えないが、それでも冷静だった。 「……今動くのは危険だ。大人しくしてろ」 低い声でそう告げると、彼女は小さく頷いた。 その手には、筆と紙が握られていたが、何も書こうとはしなかった。 それだけで、今は黙って従うという意思が伝わる。 ルードは微かに目を細め、気配に意識を集中する。 (……来る) ――ガタン。 扉の外で何かが揺れた音とともに、踏み込む気配が増す。 そして―― 「……へぇ、やっぱり逃げるのは得意みたいだな」 男の声が響く。 低く、揶揄するような調子。 気配からして、少なくとも三人以上。 先導しているのは、重い鎧をまとった大柄の男だった。 「ルード、で間違いねぇよな? いや、お前の名前なんざ今さら関係ねぇか」 ルードは剣の柄に手をかけ、返事もせずに相手をにらむ。 「誰の差し金だ」 「さあな。ただ、俺たちは“荷物”を回収するよう頼まれてるだけだ」 男がにやりと笑いながら、視線をルードの隣――エレナシアへと滑らせる。 「おとなしく渡せ」 倉庫の扉が軋み、外からの雨音と共に、濡れた足音が近づいてくる。 ルードは剣を引き抜き、静かに構えた。 「……交渉の余地はねぇってわけか」 「こっちは急いでてな。なるべく血を見たくねぇんだが……まぁ、無理か」 それを合図に、敵が一斉に倉庫へなだれ込んできた。 剣戟が、雨音を裂いた。 鉄と鉄がぶつかる音が狭い空間に響く。 ルードは次々と襲いかかる敵を捌きながら、最後尾に見慣れない影を捉えた。 1回りも大きな体格。 分厚い鎧。 重戦士――それも、近接戦に特化した厄介なタイプだ。 (……こいつだけは、まともにやり合っちゃダメだ) ルードは間合いを測りながら、軽く剣を振る。 だが、打ち込んだ一撃は、相手の鎧に弾かれ、甲高い音を残した。 (チッ――) 手元が大きく跳ねる。体勢が崩れる前に、ルードは剣を手放す。 すぐに腰へと手を伸ばし、もう1つの武器を引き抜いた。 短剣――刃渡りは短いが、素早い接近と急所狙いには向いている。 (切り札が、こんな形で役立つとはな……) だが、重戦士は止まらない。 ルードの突きをいなし、押し込んでくる。 そのときだった。 微かな違和感が、背後から押し寄せた。 風――ではない。 空気の流れが歪んだ。 (……やめろ) ルードは即座に察した。 (使うな、エレナシア――!) だが、もう遅い。 背後から、白い光が奔った。 衝撃。空気が爆ぜ、重戦士が弾かれたように吹き飛ぶ。 その巨体が木箱に激突し、倉庫の一角が崩れた。 ルードは荒い息を吐き、ゆっくりと背後を振り返る。 エレナシアがそこにいた。 肩で息をし、足元はおぼつかない。 それでも、歯を食いしばるようにして立っていた。 「……バカが」 そう呟くと、ルードは剣を拾い、最後の追撃に向かった。 ◇ 戦闘が終わる頃には、雨は止んでいた。 だが、湿った空気と焦げたような匂いが、倉庫に漂っていた。 「……無事か」 問いかけには答えがない。 エレナシアは、膝をついたまま動かない。 筆談用の紙を探す余裕もなさそうだ。 ルードはただ、苦い顔で彼女を見下ろす。 (……やっぱり、こうなる) (こいつの力は……代償がでかすぎる) 何も言えなかった。 あのタイミングで力を使わなければ、自分がやられていたかもしれない。 それは事実だった。 (それでも、俺は……) こんな状態にさせるわけにはいかない。 二度も、三度も。 ルードはそっとエレナシアに手を伸ばし、肩を支える。 「……立てるか?」   ふと、ルードは言葉を投げた。 エレナシアは少し驚いたように瞬きをした後、筆談用の紙を取り出した。 『大丈夫』 短い返答。 けれど、筆を握る指先がわずかに震えているのが分かる。 (……無理、してるな) そう思った。 けど――それだけじゃない。 表情の奥に、微かに“怯え”の色が滲んでいた。 (力の反動ってだけじゃない……か) 誰の目にも触れないよう、必死に押し殺しているのが分かる。 その感情の正体に、ルードは思わず目を逸らした。 (……今さら、何を迷ってんだ) 渡せば、終わる。 仕事も、責任も。 なのに、なぜ足が前に進まない。 夜風が冷たいわけじゃない。 冷えてるのは、自分の迷いのせいだった。 さっきの戦闘は、ただの追手とは違った。 あの男の言葉——「おとなしく“渡せ”」という命令口調。 まるで依頼人の直轄の人間のようだった。 (……もうすぐだな) 引き渡しの期限が迫っている。 つまり、選択の時が近いということだ。 (俺は……どうする) ルードは自分に問いかけながら、夜の冷たい空気を吸い込んだ。 ◇ ルードは無言のまま、古びた小屋の扉を押し開けた。 埃っぽい空気の中、簡素な木の床と、角に積まれた干し草の束が見える。 明らかに人が住んでいた形跡はない。だが、今夜をしのぐには十分だった。 エレナシアもまた、一言も発さずに、後ろからついてくる。 静かだった。 「……」 ルードは剣を壁際に立てかけ、無造作に干し草の上へ腰を下ろした。 エレナシアはそっと荷物を下ろし、筆を取り出した。 『ルード』 彼女はルードをまっすぐに見つめながら、次の言葉を綴る。 『私のこと、後悔してる?』 ルードは眉をひそめた。 「……なんで、そんなこと聞く」 エレナシアは少しだけ迷うように視線を落としたが、それでも筆を走らせた。 『……また、力を使ったから』 ルードは短く息を吐いた。 「……別に、後悔してるわけじゃねぇよ」 嘘ではない。 だが、胸の奥に引っかかるものがあるのも事実だった。 ルードはエレナシアの手元をじっと見つめた。 彼女の指は、僅かに震えている。 「……お前は」 言葉を選びながら、ゆっくりと口を開く。 「本当に、あの力を使ってもいいと思ってるのか?」 エレナシアは、一瞬だけ目を伏せた。 筆が、迷うように止まる。 しかし、すぐに書き始めた。 『……怖い』 ルードの眉が僅かに動く。 『でも、守りたい』 『ルードも、私自身も』 その言葉が、胸の奥を微かに震わせた。 ルードは短く息をつく。 (……俺は、こいつをどうしたい) 守りたいのか。 自由にしてやりたいのか。 それとも——。 「……」 エレナシアが雪を見たいと言ったことは覚えている。 あの時の彼女は、少しだけ目を輝かせていた。 (……そんなことで、いいのか) だが、それが「自由の象徴」だと言うのなら。 それを叶えてやるのが、俺の役目なんじゃないのか。 「……行くか」 ルードはぼそりと呟いた。 エレナシアが首を傾げる。 「雪が見たいんだろ」 エレナシアは、僅かに息をのむように目を見開いた。 それから、ゆっくりと筆を動かす。 『……行けるの?』 「行くんだよ。お前の望みなんだろ?」 ルードは、半ば自分に言い聞かせるように言った。 エレナシアはしばらく彼を見つめていたが——やがて、ゆっくりと笑った。 ルードはその表情を見て、妙な感覚を覚えた。 まるで、心の底から安心したような。 そして、その瞳の奥には確かに「信頼」があった。 『ありがとう』 ルードは、少しだけ目を逸らした。 「……礼を言うのはまだ早ぇよ」 だが、その横顔は、どこか吹っ切れたように見えた。 エレナシアは、言葉を綴る手を止め、そっと小屋の窓から外を見やる。 ルードもその視線を追うように、夜の森を眺めた。 この旅の終わりがどうなるかは分からない。 だが、今はただ、この道を進むしかない。 ルードは立ち上がり、剣を手に取った。 「明日、出るぞ。早めに準備しとけ」 エレナシアは静かに頷いた。 ◇ 夜の静けさが、小屋の隅々にまで染み込んでいた。 雨上がりの湿った空気が、木の匂いを運んでくる。 ルードは、壁際にもたれかかるようにして目を開けた。 膝を立て、剣を抱くようにして座ったままの姿勢。 まだ、油断できる状況じゃない。 小さな寝具のほうで、かすかな気配が動く。 「……っ」 エレナシアが寝返りを打った……のとは、少し違う。 眉を寄せ、身体を小さく縮めるように震えていた。 (……夢でも見てるのか) ふとした衝動で、ルードはそっと手を伸ばした。 肩に触れた瞬間、彼女の体がぴくりと跳ねる。 しばらくして、ゆっくりと瞼が持ち上がる。 紫水晶の瞳が、ぼんやりとこちらを映した。 「……大丈夫か」 問いかけると、彼女は小さく頷き――そのまま、彼の袖をそっと掴む。 「……」 その手は、かすかに震えていた。 何かを確かめるように、ぎゅっと力がこもる。 (……まさか、こんなことになるなんてな) そもそも、こんな選択をするなんて、自分らしくもない。 依頼を果たせば、それで終わるはずだった。 感情も、責任も、どこかに置き去りにして――ただ、次の道を進むだけだった。 それなのに、今は。 「もう寝ろ」 そう言って、気づけば彼女の頭に手が伸びていた。 柔らかな髪が指に触れる。 だが、すぐに手を引いた。 (なにやってんだ、俺は) ため息の代わりに、目を伏せる。 けど、エレナシアが静かに目を閉じるのを見て、どこか、ほんの少しだけ――ほっとしていた。 (……バカみてぇだな) でも、もしも。 いつか、こいつがちゃんと笑って、心から安心できる場所にたどり着けるなら。 その未来を想像しただけで、不思議と悪い気はしなかった。 ルードは剣を抱え直し、小さく身を丸めた。 再び目を閉じると、小屋の梁が静かに軋む音が聞こえた。 夜は、まだ深い。 ◇ ──ページをめくる音が、夢の底で微かに響いていた。 誰かが隣に座っていて、本を読んでくれていたような気がする。 子どもの頃の記憶――あるいは、願望が混じった夢の中のひとこま。 怖い夢を見た夜。 震えた手を、誰かがぎゅっと握ってくれた。 その温もりだけが、いまも指先に残っている気がする。 まだ、“声”というものを、持っていた頃。 「雪って、どこで見られるの?」 記憶の中の、自分の声。まだ小さくて幼い声だった。 「このあたりじゃ見られないかな……」 「ここからずっと北にある、雪国に行かないと」 「……そうなんだ」 しょんぼりとうつむいた自分に、少し間を置いて返ってきた声があった。 「いつか、見に行けるといいね」 名前も、顔も、ちゃんと覚えている。 でも――思い出すたび、胸の奥が少しだけ痛む。 誰よりも近くにいて、いつもそばにいてくれたのに。 今、どこにいるのかさえ、もうわからない。 それが、ただ少し、寂しかった。