第10話 掴めないものほど、美しく
森の中を歩く。
昼の太陽はすでに傾き、長く伸びた木々の影が風に揺れる。
ルードは歩きながら周囲を見渡す。
さっきの襲撃があったばかりだ。追手がいるかもしれない。
それにしても、妙な話だった。
名指しで指定してきたくせに、次々と賞金稼ぎを送り込んでくるとは――。
最初の襲撃の時から、どこかおかしいとは思っていた。
(……痺れを切らしたのか?)
実際、エレナシアの体調や自分の怪我もあって足止めは続いた。
動きは目立ち、痕跡も残るようになっている。
なのに――
王族の追手は、一度も現れていない。
本来なら、とっくに捕まっていてもおかしくないのに。
まるで、最初から“追う気がなかった”かのように。
整いすぎてる。
ほんの一瞬、ルードの眉がわずかに動いた。
(……向こうも、思ったより手際が悪いってことか)
だが、今は考えている暇はない。
まずは、目の前の現実に向き合うしかない。
(あれからどれくらい歩いた?)
感覚的には二、三時間ほど経っているはずだ。
森を抜ける道は長く、木々の間から差し込む陽光が少しずつ赤みを帯びてきていた。
やがて、森の中に静けさが広がる。
鳥のさえずりも減り、夕闇が近づいているのがわかる。
エレナシアは、静かにルードの隣を歩いていた。
頬の傷は浅いものだったが、それでもあの時、無防備なまま傷ついたことがルードの胸をざわつかせる。
(……クソ、余計なことを考えるな)
ルードは無言で前を向く。
今は、敵の追跡を警戒するほうが先だ。
森の木々が徐々にまばらになり、遠くから水音が聞こえ始める。
空がゆっくりと群青に染まり、森の影がより濃くなったころ——
視界が開けた。
目の前には、静かな湖が広がっていた。
夜の帳が降り、世界は闇に包まれている。
だが、その湖はまるで別世界のように輝いていた。
満天の星々が、水面に映り込み、ゆらめきながら煌めいていた。
風が吹けば、波紋が生まれ、星の光がさざめくように揺れる。
まるで天と地の境が消え、星空に抱かれているかのような光景だった。
こんな景色は、旅をしていればいくらでも見かける。
湖に映る夜空も、星の揺らめきも、特別なものじゃない。
だが——
隣に立つエレナシアを見た瞬間、違和感を覚えた。
彼女は、息をすることさえ忘れたように立ち尽くしていた。
その瞳は、大きく見開かれている。
まるで、触れたら壊れてしまいそうなものを前にしているようだった。
震える指先で筆談用の紙を取り出し、素早く筆を走らせる。
『……夢みたい』
ルードは眉をひそめる。
(……夢?)
この景色が?
だが、すぐに理解した。
エレナシアにとって、この夜空は「当たり前」ではないのだ。
彼女はずっと閉ざされた場所にいた。
夜の静けさも、湖に映る星も、こんな風に空を仰ぐことさえ——自由にはできなかった。
(……そりゃ、そうなるか)
ルードにとっては見慣れた景色でも、エレナシアにとっては、初めて触れる世界。
それが、今ようやく自由に目の前に広がっている。
そう思うと、なんとなく落ち着かなくなった。
ルードは、隣で空を見上げる彼女に目をやる。
その横顔はどこか幼く見えたが、月明かりに照らされた姿に思わず目を奪われる。
星の光を反射するように、エレナシアの銀の髪がそよ風に揺れていた。
(……ああ、そういえば)
昼間、市場で彼女がふと足を止めて見ていた髪飾り。
欲しがっていたわけじゃない。
ただ、“綺麗だなと思って”と筆に書いたその文字が、妙に心に残っていた。
それを見たとき、不意に――彼女がそれをつけている姿が頭に浮かんだ。
不思議と、よく似合いそうだと思った。
そして今、月明かりの下で風に髪を揺らす彼女を見て、
そのイメージが、ふたたび浮かぶ。
(……まぁ別に、高価なもんでもなかったし)
誰に聞かれたわけでもないのに、そんな風に言い訳する。
深い意味なんてない。――そう言い聞かせるように。
湖に視線を戻し、ポケットに手を突っ込む。
指先に触れたものを取り出した。
「エレナシア」
彼女がゆっくりと振り向く。
ルードは無造作に手を伸ばした。
「……これ」
差し出したのは、銀の髪飾りだった。
月光を受け、繊細な細工がほのかにきらめく。
エレナシアは目を瞬かせ、筆談の紙にそっと筆を走らせた。
『これ……』
『市場で見てたやつ?』
ルードは目を逸らしながら、短く答える。
「……たまたま目に入っただけだ」
エレナシアは、もう一度じっと髪飾りを見つめた。
指先でそっと触れ、まるでそれが本当に自分のものなのか確かめるように、繊細に撫でる。
そして、ゆっくりと筆を走らせた。
『つけてくれる?』
ルードの手が、思わず止まる。
「……は?」
エレナシアは、まっすぐこちらを見つめていた。
『……自分じゃ見えないから』
紙に書かれた言葉は静かなのに、その仕草はどこかためらいがちだった。
小さく首をすくめ、髪飾りを両手で包み込みながら、そっと差し出してくる。
ルードは、一瞬迷った。
(……なんで俺が)
だが、すぐに言葉を飲み込む。
考えてみれば、エレナシアはこれまで、誰かに何かを「頼む」ことすら、ほとんどできなかったはずだ。
何をするにも制約があって、命令で縛られてきた。
だから、こんなささいなお願いですら、彼女にとっては勇気がいることなのかもしれない。
(……仕方ねぇな)
ルードは、ため息をつくように髪飾りを受け取った。
「……じっとしてろ」
エレナシアは素直に頷く。
ルードは手を伸ばし、彼女の銀髪にそっと触れた。
指の間をすり抜ける髪が、驚くほど滑らかで柔らかい。
夜風に揺れ、月光を帯びたその髪は、触れるだけで消えてしまいそうなほど儚く感じた。
髪を少し持ち上げ、そっと飾りをつける。
小さな金具を留めるために指を滑らせると、エレナシアの肩がかすかに揺れた。
ほんの一瞬だった。
だが、そのささやかな仕草が、妙に意識に残る。
喉が、ひどく渇いたような気がした。
(なんで、こんなに意識してんだ、俺)
ようやく髪飾りをしっかりと留めると、エレナシアがそっと指先でそれをなぞる。
そして、ゆっくりと筆談の紙を差し出した。
『ありがとう』
たった五文字。
けれど、それを伝えた時の彼女の微笑みは、満天の星々よりもよほど眩しく見えた。
ルードは、無意識に息を呑んだ。
胸の奥のざわつきを、そっと吐き出すようにため息をつく。
(……礼なんか、いらねぇよ)
声に出しかけて、喉の奥で飲み込んだ。
それを言ってしまったら、本当に“優しさ”になってしまいそうで。
エレナシアは、まるで星明かりに包まれるように、静かに笑っていた。
——この光景が、妙に心に焼きついた。
◇
夜の湖は、星を映して静かに輝いていた。
エレナシアは、ただその光景に見入っていた。
目の前に広がる、広大な夜空。
水面に映る無数の星々。
ルードにとっては、何の変哲もない風景なのだろう。
だが、エレナシアにとっては、この湖も、夜空も、こんな風に空を仰ぐ自由も——全てが新しい。
ずっと、閉じ込められていた。
何も知らないまま、何も触れられないまま、ただ狭い世界で生きてきた。
だからこそ、今この瞬間が、信じられないほど美しかった。
その時だった。
遠くの空から低い振動が伝わり、やがて雷鳴が重々しく響き渡った。
(……雷?)
エレナシアは、ふとルードを見た。
——そして、違和感に気づく。
ルードの肩が、かすかに揺れていた。
今まで何が起きても、ルードは動じなかった。
敵に囲まれても、矢が飛んできても、彼はいつも冷静だった。
けれど今——
ルードの指が、かすかに震えている。
遠くの空に稲光が走るたび、彼の視線がそちらに向かい、そのたびに一瞬だけ表情が強張る。
エレナシアは、そっと筆を走らせた。
『どうしたの?』
ルードがピクリと肩を揺らす。
「……別にどうもしねえよ」
そっぽを向いたまま、短く答える。
けれど、その直後——
天地が揺れるような雷鳴が、まるで頭上で炸裂したように響き渡った。
「ッ……!」
ルードの体が、またピクリと跳ねる。
エレナシアは、思わず目を瞬かせた。
(……もしかして)
ルードが小さく息を飲む音が聞こえた気がする。
拳を握る指先に、少しだけ力がこもる。
確信は持てない。
でも、さっきからの反応が、なんとなく気になる。
その時。
木々の間で、気配が揺れた。
雷鳴に紛れるように、闇の中から何者かが飛び出してくる。
エレナシアの背筋が、ひやりと冷えた。
ルードは、すぐに剣を抜く。
だが、雷鳴が響くたび、 刹那の違和感 が動きを鈍らせる。
相手は、一瞬の隙を狙っている。
このままでは、ルードの防御が間に合わない。
エレナシアは、迷うことなく手を伸ばした。
——空気が震えた。
地面が、かすかに揺れる。
鋭い音と共に、敵の足元が突然ひび割れた。
「ぐあっ!?」
見えない衝撃が走り、襲いかかろうとした男が吹き飛ぶ。
砂埃が舞い、地面に魔力の余韻が残る。
ルードが、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「……お前」
その目が、明らかに怒っている。
エレナシアは、静かに筆を走らせた。
『大丈夫?』
「……使うなって言っただろ」
エレナシアは、少しだけ肩をすくめた。
(……やっぱり怒ってる)
けれど、彼の雷への反応を見ていたからこそ、黙って従う気にはなれなかった。
筆を動かす。
『今は、大丈夫』
ルードは、眉をひそめる。
「何が『大丈夫』だ」
「お前の力がどれだけ危ねぇか、わかってんのか」
エレナシアは、一瞬だけ考え込むように視線を落とす。
(……どう言えばいい?)
どう説明すれば、納得してもらえる?
……わからない。
筆を握り直したものの、何も書かないまま止まる。
ルードが、険しい顔のまま問いかける。
「……なんだよ」
エレナシアは、ただ静かに目を伏せた。
「お前な……」
納得できない顔のまま、ルードは短く息を吐いた。
「いいから、無茶すんなよ」
ルードは短く息を吐き、そう言った。
エレナシアは、手元の筆を握る。
(……心配、してくれてる?)
ほんの少し、胸が温かくなる。
けれど。
エレナシアは、一瞬だけ目を伏せ、それから迷いなく筆を走らせた。
『でも、動けなかったでしょう?』
ルードの表情が、一瞬だけ歪む。
——図星、なのだろう。
エレナシアは、そっと彼を見上げた。
雷が怖いことを、きっと認めたくないのだ。
そんな自分を、誰にも知られたくないのだろう。
ルードは、唇を噛みしめた後、乱暴に髪をかき上げた。
「……次は、使うな」
その声が、ひどく低く響いた。
けれど、雷鳴に怯えていた時よりも、ずっと力が戻っているように見える。
エレナシアは、小さく微笑むと、静かに筆談の紙をしまった。
ふと、風の匂いが変わった。
乾いた夜気に、湿った土と水の匂いが混じる。
すぐに、湖面にぱらりと波紋が広がった。
小さな雨粒が、星の映る水面をゆっくりと崩していく。
ルードが空を見上げ、低く呟いた。
「……降ってきやがったか」
すぐ近くにあった岩壁のくぼみに視線を向けると、短く言う。
「あそこでやり過ごす」
エレナシアは頷いて、彼のあとに続いた。
少しだけ張り出した崖のような地形があり、その陰に体を寄せる。
雨は次第に強くなり、開けた湖面に無数のしぶきを描いていた。
だが、ふたりが身を隠した場所までは、ほとんど届かない。
岩壁のひんやりとした感触。
静かな空気。
ルードの隣に座りながら、エレナシアは静かに息を吐いた。
彼の指先はまだかすかに震えていたけれど――
さっきより、ほんの少しだけ、落ち着いているようにも見えた。
遠くの空に、再び雷が瞬いた。
その光が、ルードの影を静かに揺らしていた。
◇
雷鳴は、夜の湖に響き続けていた。
遠くで鳴っていたはずの音は、次第に近づき、時折閃光が夜空を裂く。
湖の水面に稲光が映り込み、一瞬だけ銀色の波が揺れる。
(……眠れねぇ)
ルードは寝転がったまま、苛立たしげにため息をついた。
横になってはみたものの、雷鳴が鳴るたびに意識が覚醒する。
頭では「気にするな」と思っている。
だが、体が勝手に反応する。
遠くで雷鳴が響く。
(……近い)
まばゆい閃光が走り、直後に轟音が鳴り響いた。
「……ッ!」
拳に力が入る。
体が勝手に硬直する。
(……クソが)
目を閉じたまま、ルードは歯を食いしばる。
その時、隣で何かが動いた。
『大丈夫?』
ルードは、その筆談をちらりと見ると、そっぽを向いた。
「……なにがだよ」
『眠れないの?』
「……寝る」
そう言ったものの、雷が鳴るたびに肩がわずかに強張る。
(……寝られるわけがねぇ)
エレナシアはしばらくじっとしていたが、やがて静かに筆談の紙をしまった。
——夜が更けていく。
雷は次第に遠ざかり、湖の水面は再び静かになっていく。
空気がひんやりと冷たくなり、夜の闇が濃くなる頃——
朝が来た。
「……朝じゃねぇか」
ルードは、うっすらと明るくなった空を見上げて呟いた。
結局、一睡もできなかった。
エレナシアはすでに身支度を整えており、筆談の紙に筆を走らせる。
『出発する?』
「……ああ」
ルードは重い体を引きずるように立ち上がった。
寝不足のせいで、頭がぼんやりとする。
(……歩けば目が覚めるだろ)
そう思いながら、湖を後にした。
——数時間後。
「ちょっと休む」
ルードは、適当な岩に腰を下ろした。
エレナシアも隣に座り、静かに筆談の紙を広げる。
だが、その文字を見る前に——
(……眠い)
まぶたが、勝手に落ちる。
(……ちょっとだけ……)
頭がガクンと傾き、ルードの意識は、そのままふっと途切れた。
◇
ルードは、ぼんやりとまぶたを開けた。
(……寝ちまったか)
昨夜、一睡もできなかったせいで、気づけばうたた寝していたらしい。
体が重い。
頭がぼんやりする。
(……クソ、情けねぇ)
軽く顔をこすりながら、隣に視線を向けた。
(……ん?)
——そこには、エレナシアの背中があった。
(着替えてる……のか?)
彼女は、少し離れた場所で服を整えていた。
上半身を軽く前に傾け、長い銀の髪を肩越しに流している。
普段は見えない背中が、朝の光を浴びてなめらかに映る。
(……気付いてないのか)
ルードは、ぼんやりとした頭でそう思った。
エレナシアは、何の警戒もなくそこにいる。
気にしていない、というより、そもそも意識していないのか。
(……まあ、いつもは見ないようにしてるしな)
だが、今は寝起きで頭が働かない。
ぼんやりとしたまま、無意識に彼女を見てしまう。
(……いや待て、なんでそんな近くで……)
ルードの目が、ようやく少しだけ冴えてきた。
普段なら、もっと離れて着替えているはずだ。
なのに、すぐそばで服を整えている。
ぐっすり寝てると思ったのか、それとも——
ルードの眉がわずかに寄った。
(……なんだ、あれ)
肩甲骨の間。
肌の中心に、うっすらと浮かぶ模様。
焼き付けられたようなそれは、まるで呪印のように刻まれていた。
ルードは、思わず手を伸ばした。
指先が、紋様の縁に触れる。
「――ッ」
エレナシアの肩が、ぴくりと震えた。
瞬間、ルードの動きが止まる。
エレナシアは振り返り、目を見開いた。
ルードは、手を引きながら低く訊いた。
「……その紋様、何だ?」
「……」
一瞬、沈黙が落ちる。
エレナシアは、きょとんとした顔をしていた。
その視線が、自分の背中からルードへと移る。
(……いや、そうじゃねぇだろ)
ルードは無言のまま視線を逸らし、片手でエレナシアの服の方を指さす。
エレナシアは、一拍置いて——ようやく理解したように、ぱたぱたと服を羽織る。
(……遅ぇよ)
着替えが終わると、彼女は何事もなかったように筆を取った。
そして、静かに紙に綴る。
『これは、封印』
「……封印?」
エレナシアは、小さく頷いた。
そして、少し迷うようにして、再び紙に文字を綴る。
『感情を抑制するもの』
ルードは、思わずエレナシアの顔を見た。
(……それ、本当か?)
彼女は、確かに口を開くことはできない。
けれど、感情が抑えられているかと言われると——
(……まあ、確かに表情は多少乏しいか?)
驚いたり、少し不満そうな顔をしたりはするし、微笑むことも増えた。
けど、それがハッキリとした感情表現かと言われると、微妙なところだった。
「……そうか」
ルードがぼそっと呟くと、エレナシアは少しだけ目を伏せた。
そして、静かに筆を走らせる。
『負の感情を抑えるもの』
ルードの眉がわずかに動く。
「負の感情……?」
『怒りや、悲しみや、恐怖。』
『そういうのが強くなると……力が暴走する』
『だから、封印で制御してるの』
ルードは、その言葉を見て、ふっと納得したように息をつく。
(なるほどな……)
確かに、エレナシアが怒ったり、怯えたりすることはほとんどなかった。
けれど、完全に無感情というわけではない。
それは封印の影響なのか、それとも——。
ふと、気になることがあった。
「……喋れないのも封印のせいなのか?」
その問いに、エレナシアの手がピクリと止まった。
彼女は、一瞬迷うように視線を揺らした後、ゆっくりと筆を走らせた。
『……違う』
エレナシアは筆を止め、わずかに俯いた。
静けさの中で、肩が小さく揺れる。
ルードは少しだけ息を詰めてから、声を落とす。
「話したくないなら、無理に話さなくていい」
けれど、彼女はゆっくりと首を振った。
『ルードには、知っておいて欲しい』
『……なんとなく、そう思うの』
ルードは小さく目を細めた。
どこか、引っかかった。
どうでもいいことのはずなのに、
一度心に入った言葉が、なかなか消えてくれなかった。
「……なら、話してみろ」
「ゆっくりでいい」
少し間を置いて、再び筆が動く。
『封印は、感情を抑えるもの。』
『……でも、喋れないのは、封印のせいじゃない』
ルードの指が、ピクリと動いた。
「……じゃあ、何のせいだ」
エレナシアは、筆を持つ指に、少しだけ力を込めた。
『昔……』
筆の動きが、わずかに遅くなる。
『声を出すと、狭くて暗い部屋に閉じ込められた』
しばらく、沈黙が落ちる。
ルードは、無意識に息を詰めていた。
エレナシアは、小さく息を吸い、続きを書く。
『……何日も。食事も出されないで、そのまま』
文字の端が、わずかに乱れていた。
「……ッ」
ルードの拳が、無意識に握られる。
エレナシアの手が、一瞬だけ止まる。
けれど、再び筆が動いた。
『喉が渇いても、お腹がすいても、声を出したらまた……』
そこまで書いたところで、また手が止まる。
そして、ほんの少し、震えた。
ルードは、それを見ているしかなかった。
「……最後に声を出したのは、いつなんだ」
エレナシアは、ゆっくりと筆を走らせた。
『……覚えてない』
その言葉を見た瞬間、ルードの奥歯が軋んだ。
(……そんなの、ありかよ)
エレナシアは、幼いころからずっと。
喉の奥に、言葉を閉じ込めて生きてきた。
喋ることを許されず、声を出せば罰を受ける。
——だから、もう「声の出し方」がわからない。
ルードは、拳を握った。
「……くだらねぇ」
エレナシアが、少しだけ顔を上げる。
ルードは、低く吐き捨てた。
「そんなもんに縛られて、生きてきたのかよ」
エレナシアは、静かにルードを見つめた。
それは、泣くでもなく、笑うでもなく——ただ、穏やかで、どこか痛むような目だった。
ルードは、それ以上言葉を出せなかった。
(……クソが)
胸の奥に、苛立ちのような感情がゆっくりと渦巻いていく。
(こいつは、それが普通だったって顔をしてやがる)
(当たり前みたいに、"そういうもんだ" って思い込んで……)
(……それが、気に食わねぇ)
無意識に拳を握りしめ、ルードは息を吐いた。
そして、頭を軽く掻く。
「……いいか、お前さ」
ルードは、ふと視線を逸らしながら言った。
「……次からは着替えるとき、せめて見えねぇところに行け」
エレナシアは、少し考えるようにしてから、筆を動かす。
『……寝てると思ったから』
「……」
ルードは、言葉に詰まり、肩をすくめる。
(まあ、確かに俺は寝てたけどよ……)
「……いいから、そうしろ」
エレナシアは、よくわかっていないようだったが、ひとまず素直に頷いた。