第9話 見えぬ鎖に繋がれて
市場での買い物を終えた後、エレナシアはルードとともに村の外れへ向かった。
日が傾きかけた森の中、焚き火の準備をするルードの姿を横目で見ながら、エレナシアは思う。
(……やっぱり、宿には泊まらないんだ)
旅を続けるうちに気づいたことだが、ルードは理由がない限りなるべく野営を選ぶ。
昨日の宿泊も、体調を気遣っての一時的な判断だったのだろう。
きっと、宿よりこうして外にいたほうが、彼にとっては気楽なのだ。
「……飯でも作るか」
薪をくべながら、ルードが無造作に言う。
エレナシアは筆を手に取り、さらりと書いた。
『今日も、焼くだけ?』
ルードは一瞬だけ手を止める。
「……まぁな」
エレナシアは無言でじとっとした視線を向ける。
(また、あの適当すぎる料理……)
野草の丸焼き。
干し肉を炙るだけ。
缶詰の中身をそのまま温める。
ルードの食事に思いを馳せると、エレナシアは無言で深くため息をついた。
(……せめて塩を振るとか、もうちょっと工夫してほしい)
筆を取り、静かに書く。
『……私が作る』
ルードは焚き火に薪をくべる手を止め、顔を上げた。
「……は?」
エレナシアは迷いなく頷く。
「お前、料理なんかできんのか?」
『知識なら、ある』
その言葉に、ルードが一瞬だけ視線を細める。
「……どこで覚えた?」
エレナシアは少し考え、筆を動かした。
『……昔、料理の本を読んでもらった』
「誰に?」
筆を持つ手がわずかに止まる。
一瞬の躊躇いの後、慎重に筆を走らせた。
『……知り合いに』
ルードが何かを思ったような顔をする。
エレナシアは何も言わずに視線を落とし、そのまま調理の準備に取りかかった。
◇
エレナシアは手際よく食材を切り分け、先ほど買った鍋に油を敷く。
香草を入れた途端、焚き火の上でいい香りが立ち上った。
ルードはぼんやりと、その様子を眺める。
(……なんか、不思議だな)
料理なんて、ただの食事の手段でしかない。
うまかろうがまずかろうが、腹が満たされればそれでいい。
だが、エレナシアが作るそれは、どこか「食事」という行為そのものを大切にしているように見えた。
具材が煮えるにつれ、鼻をくすぐるような優しい香りが広がる。
(……腹、減ったかもな)
そんなことを思うのは、ずいぶん久しぶりだった。
エレナシアが鍋を火から下ろし、ルードの前に小さな木皿を差し出す。
鍋の中には、肉と野菜が煮込まれたスープ。
シンプルだが、見た目からして明らかにうまそうだった。
ルードは無言のままスプーンを手に取る。
一口、口に運ぶと──
「……」
やけに、やさしい味がした。
香草の風味と、じっくり煮込まれた肉と野菜の旨味。
出汁のようなものが効いているのか、滋味深く、体に染み込むような味だった。
(……こんなもんが、作れるのか)
ルードはしばらく黙って食べ続ける。
エレナシアが筆を手に取り、問いかけるように書いた。
『どうかな?』
ルードは一瞬、視線を上げる。
そして、無言のままもう一口スープをすくって飲み込んだ。
「……うまい」
◇
「……うまい」
ルードの言葉を聞き、エレナシアは静かに瞳を伏せた。
(……よかった)
そう思いながら、彼の横顔を見やる。
ルードは、いつもと変わらずスープをすくっていた。
ただ、彼はスプーンを左手で持っていた。
(……やっぱり、左手)
旅をともにするようになってから、何度も見かけた仕草だった。
剣は右手で扱っているはずなのに、食事のときはなぜか左手を使う。
最初は、利き手を怪我しているのかと思った。
でも、そうではないらしい。
筆を手に取り、ひとことだけ尋ねてみる。
『どうして、左手で食べるの?』
ルードは一瞬手を止めると、肩をすくめるように言った。
「……訓練、だな」
『訓練?』
「どっちの手でもある程度は動かせた方が、いざってとき困らねぇ」
「……そう教わった」
(教わった?)
一瞬、誰に――と考えそうになる。
けれど、すぐに思考を閉じる。
エレナシアは、ふと自分の筆を持ち直し――わざと、左手で握ってみる。
「……何してんだ」
筆先がぶるぶると震えて、思うように線が引けない。
書きかけの文字が、ぐにゃりと歪んだ。
ルードが眉をひそめる。
「……すげぇことになってるぞ」
それでも、エレナシアは小さく笑い、もう一度だけ試してみる。
今度は、少し時間をかけながら、慎重に文字をなぞった。
『ルード』
書き終えると、彼女は満足げに、ふうっと息を吐く。
そして、得意げにその紙をルードに見せた。
嬉しそうに筆を置くエレナシアを見て、ルードは思わず鼻を鳴らす。
「ったく……何をやってんだか」
けれど、目はその紙に書かれた文字をしばらく見つめていた。
筆をまた取り直し、今度は右手で書く。
『おかわりもあるよ』
そう筆に書くと、ルードはちらりとエレナシアを見て、無言のまま手を伸ばした。
(……気に入ったみたい)
エレナシアはその様子を見て、静かに微笑む。
焚き火の炎が揺れる中、二人は静かに食事を続けた。
やがて、ルードがぽつりと呟く。
「……また、作れるか?」
エレナシアは少し驚き、そして迷わず頷く。
『うん』
「……なら、頼む」
ルードはそう言い、またスープをすくった。
エレナシアは筆を置き、静かに自分の皿を手に取る。
(……よかった)
それだけを思いながら、彼女もまた、スープを口に運んだ。
◇
ルードが焚き火の前で、静かに目を閉じていた。
彼はいつも野営の際、ほとんど眠らない。
目を閉じることはあっても、周囲の気配に気を張っているのが常だった。
けれど、今は違った。
深くゆっくりとした呼吸。微かに動く胸の起伏。
まるで何も警戒していないかのように、静かに眠っている。
(……眠った?)
エレナシアは思わず驚いた。
(お腹いっぱいになって、気が緩んだのかな)
そう思うと、自然に笑みが浮かぶ。
焚き火の光がルードの頬を照らしている。
黒髪がさらりと額にかかり、淡い琥珀色の瞳は閉じられている。
普段はその瞳が鋭く光を宿し、冷ややかな視線を向けてくるのに――
今はただ、眠りの中に沈んでいるだけだった。
ふと、揺れる炎に照らされて、彼の耳に光るものが目に入った。
左の耳に、小さな銀のピアス。
普段は気にしたこともなかったけれど、焚き火の灯りに照らされると、わずかに光を反射している。
――戦いの最中、鋭い視線を向けるときも、この小さな飾りは彼の耳にあったのだろうか。
そう考えると、なんだか不思議な気がした。
彼の無骨な雰囲気には似合わないような気もするし、でも、彼らしい気もする。
エレナシアは再びルードの顔を見た。
(……こんな顔、してたっけ)
こうして間近で見てみると、彼の顔立ちは驚くほど整っていた。
無駄のない、すっきりとした骨格。
鋭い目元に通った鼻筋。
普段は不機嫌そうな口元も、今はわずかに緩んでいる。
ちらりと覗いた犬歯が、いつもより少しだけ幼く見えた。
(なんか、ずるい……)
普段は目つきが鋭く、どこか近寄りがたい雰囲気があるのに――
眠っているときだけは、どこか柔らかい。
それが、妙に気に入らなかった。
無意識のうちに視線を落とすと、長いまつ毛が薄く影を作っていた。
(……)
エレナシアは、思わず手を伸ばしかけた。
指先がルードの頬に触れそうになったところで、はっとして手を引っ込める。
(な、何してるの……?)
自分の行動に驚き、少し頬が熱くなった。
(触れたら、起こしちゃうかもしれない)
そう思うと、ますます意識してしまう。
焚き火の薪が弾ける音が、やけに大きく聞こえた。
(……そういえば)
ふと、エレナシアは あの夜のこと を思い出す。
ルードが熱を出して倒れ、どうしても薬を飲ませられなかったとき。
――だから、仕方なく、口移しで。
(……っ)
エレナシアは急に顔が熱くなり、思わず俯いた。
今更ながら、どうかしてたと思う。
(ルードは気付いてない、よね……?)
彼があのとき何も言わなかったのは、意識が朦朧としてて気づかなかったのか。
それとも気づいていてあえて触れなかったのか。
考えれば考えるほど、心臓が落ち着かなくなる。
(……あのときの唇、熱かったな)
――そう思った瞬間、エレナシアは自分の思考に驚き、慌てて首を振った。
(私、なに考えてるの……)
かすかに頬を押さえながら、ルードの寝顔をちらりと見る。
やっぱり、起きる気配はない。
(……今なら)
ほんの少しだけ、そっと触れてみても――。
(……)
指先がわずかに動く。
けれど、その直前でふと止めた。
触れてしまえば、何か変わってしまうような気がして。
(……ダメ)
ただ静かに、彼の寝顔を見守る。
焚き火の灯りが揺れ、ルードの穏やかな寝息が、夜の静寂に溶けていった。
その夜、エレナシアは 初めて「ルードの寝顔を見守るだけの時間」 を過ごした。
◇
朝の光が差し込み、森の中は静かに目覚めつつあった。
焚き火の残り火がかすかに燻り、夜の冷え込みの名残を感じさせる。
鳥のさえずりが遠くで響き、しっとりとした空気が肌に馴染む。
ルードはゆっくりと目を開けた。
寝過ごしたわけではない。
だが、昨日の食事のせいか、思った以上にぐっすりと眠ってしまっていたらしい。
これまで野営では浅い眠りしか取らなかったが、昨夜は妙に体が重く感じた。
身を起こし、焚き火の方へ目を向けると、エレナシアがすでに起きていた。
彼女は静かに薪を組み、火をつけようとしていた。
炎がゆらりと立ち上ると、その光に彼女の銀髪が照らされ、幻想的な輝きを放つ。
じっと火を見つめる横顔は、どこか落ち着いた雰囲気を醸していた。
ルードは、無意識にその様子を眺めていた。
「……お前、朝からそんなことしてたのか」
エレナシアが筆を取る。
『寒かったから』
ルードはそれを見て、少し眉を寄せた。
「なら起こせよ。俺が焚き火をつけた方が早いだろうが」
エレナシアはゆっくりと首を横に振る。
そこに深い意味はない。
ただ、自分の手でできることはやりたかっただけかもしれない。
ルードは何か言いかけたが、口をつぐんだ。
二人の間に静寂が流れる。
(……なんだろうな)
この静かな時間が妙に心地よく感じるのは。
昨夜、何か夢を見た気がする。だが、はっきりとした記憶はない。
ただ、一瞬だけエレナシアの姿が見えたような気がして。
それが何を意味するのか分からず、ルードはぼんやりと火を見つめた。
「……そろそろ行くか」
そう言って立ち上がると、エレナシアも素直に頷いた。
焚き火を消し、荷をまとめ、二人はその場を後にした。
◇
森を抜ける道を歩く。
昼近くなり、木々の隙間から差し込む陽光が、ゆるやかに地面を照らしていた。
葉が風に揺れ、枝の間からこぼれる光と影がちらちらと踊る。
ルードは、やや広めの木陰を見つけると足を止めた。
「ここで少し休む」
エレナシアも頷き、岩に腰を下ろす。
──その瞬間。
首筋を、嫌な寒気が駆け抜けた。
(──ッ)
反射的に声が出る。
「……動くな」
ルードが低く呟いた、その刹那――
次の瞬間、何かが炸裂した。
「ッ……!」
突如として辺りが閃光に包まれる。
ルードは即座にエレナシアの腕を引き、木の影へと身を隠した。
爆煙が立ちこめ、土埃が視界を遮る。
「おいおい、いい勘してるな」
霧のような煙の中から、低い声が響いた。
「でも──それだけじゃ足りねぇよ」
同時に、数本の矢が弧を描いて飛来した。
「チッ……!」
ルードは剣を抜き、迎撃する。
刃が鋭く鳴り、飛来した矢を弾き落とした。
(……三人か? いや、もっといる。囲まれてるな)
足音の数が多い。準備も周到だ。
視界が晴れると、黒ずくめの男たちが姿を現した。
「さぁ、女を渡してもらおうか」
「……てめぇら」
ルードの声が低く響く。
敵の一人が懐から何かを取り出した。
──銀の首輪。
ルードの目が細まる。
(……なるほどな)
それは、以前ルードがエレナシアに着けていたものと酷似していた。
不要と判断し、とっくに捨てたはずのもの――
(同じ依頼人から渡されたもの、ってことか?)
ルードは無言のまま、じり、と足を踏み出す。
「また、首輪をつけるつもりか?」
ルードが問いかけると、男はニヤリと笑った。
「何を勘違いしてる?」
見下ろすような口調で、男は銀の首輪を弄ぶ。
「依頼は"エレナシアを渡せ"だったろ?」
ルードは冷ややかに目を細める。
「……それがどうした」
「お前がぐずぐずしてるから、こっちにも話が回ってきたんだよ」
「……」
「さっさと済ませりゃよかったのによ。おかげで、俺たちが"代わりに"動くことになっちまった」
ルードは薄く笑う。
「……代わりに、ねぇ」
皮肉がよぎるが、すぐに振り払う。
ルードは片手をポケットに突っ込み、低く笑った。
「お前らは"仕事"の意味を履き違えてるぜ」
男たちがわずかに身構える。
──その刹那、ルードは動いた。
刃が疾る。
「ッ……!」
敵の一人が反応するが、もう遅い。
ルードの剣が、一瞬で敵の腕を切り裂く。
「ぐあああッ!!」
悲鳴が響くと同時に、ルードは次へと踏み込んだ。
膝を蹴り砕き、崩れた男の顔面を柄で殴りつける。
「が……ッ!!」
男が吹き飛び、動かなくなる。
残った一人が、エレナシアの腕を掴んだ。
「クソッ……!」
ルードは剣を握り直す。
(さっさと終わらせる)
そう思ったそのとき――
男が彼女を引きずろうとした瞬間、エレナシアが身をよじる。
刹那、ナイフが彼女の頬をかすめた。
──スッ……と、一筋の血が流れる。
ルードは、動けなかった。
熱くなったのか、冷えたのかもわからない。
何かが弾けたような感覚だけが残って――
気づけば、剣を振りかぶっていた。
視界の端で、頬を伝う赤い線が揺れる。
それだけで、腹の奥がぐしゃぐしゃにかき乱された。
「……そいつに、触るな」
喉が低く鳴る。
自分でも驚くほど、感情がむき出しの声だった。
理屈なんてなかった。
ルードの拳が、男の顎を砕いた。
敵は白目を剥いて、崩れ落ちる。
ルードは深く息を吐いた。
喉の奥に残る怒りと、焦燥。
(……守れなかった)
致命傷じゃない。分かってる。
でも、たったそれだけのことなのに、胸の奥が焼けるように熱かった。
(……傷、つけさせた)
視線の先で、エレナシアがじっとこちらを見つめている。
無言で。まるで、すべてを受け入れるような目で。
「……」
ルードは雑に前髪をかきあげる。
言葉もなく、伸ばした指が彼女の頬をなぞった。
「……ッ」
彼女の身体が、びくりと震える。
けれど、逃げない。
(なんで、黙ってる)
怒りのせいか、それとも別の何かか――
手は、いつもより無遠慮に肌へ触れていた。
少しだけ、力がこもる。
呼吸の仕方がわからない。
言葉が、喉の奥でつかえて出てこない。
指先が、頬の血を拭う。
何度も、ゆっくりと。
思わず舌打ちしそうになる。
こんなことしても、意味はない。
でも、触れる指が離れない。
「……俺は」
続きそうになった言葉を、慌てて飲み込む。
エレナシアは、まだ見ていた。
静かに、痛むような目で。
「……」
ルードはふっと目を伏せる。
(……手じゃ、だめだ)
指先が、火傷したみたいに熱い。
短く息を吐き、腰の布を無造作に引きちぎる。
(こっちのほうがマシだ)
それでようやく、布越しに血を拭った。
それでも、彼女の視線が熱くてたまらない。
もう一度、布を握りしめて手を離す。
「……二度と、こんなことになるな」
抑え込んだ声が、想像以上に低く響いた。
エレナシアは小さく頷いた。
その視線だけが、まだ彼の指の熱を追っていた。
ルードは何も言わず歩き出す。
エレナシアもその後ろを静かに追いかけた。