第5話 衰弱と癒し、理外の静謐

街道へと続く道を進む途中、ルードは徐々に体調が悪化していくのを感じていた。 熱は高まり、視界は揺れ、足元がふらつく。 だが、エレナシアには悟られないよう、無理にでも歩を進める。 そして、森を抜ける手前―― 草むらの奥で、何かが動いた。 獣の気配。 次の瞬間、突如として飛び出してきたのは、巨大なイノシシ型の魔物だった。 通常のイノシシよりも遥かに大きく、膨れ上がった筋肉と鋭い牙を持つ異形。 ルードはとっさに剣を抜き、エレナシアの前に立つ。 「……手ェ出すなよ」 そう言いながらも、自分の体調が最悪なタイミングであることを自覚していた。 (……くそ、今は面倒な相手すぎる) 魔物は唸り声をあげ、ルードをロックオンすると、迷いなく突進してきた。 通常なら軽く捌ける攻撃。しかし―― 足がふらつく。 視界がぼやける。 刹那の判断が遅れる。 「っ――」 完全には避けきれず、肩を裂く鋭い痛みが走る。 体が弾かれ、地面に膝をついた。 流れ出る血。眩む視界。 それでも、ルードは奥歯を噛み締め、立ち上がる。 (……これくらいで、倒れてる場合じゃねぇ) イノシシ型の魔物は二度目の突進のために距離を取る。その動きを見て、ルードは剣を構え直した。 次の攻撃は避けられない。なら―― 「……こいよ」 低く呟くと同時に、魔物が突進する。 ルードは動かない。 限界ギリギリの体を酷使し、狙いを定める。 そして―― 一瞬の隙を突いて、ルードは剣を振り抜いた。 刃が真っ向から魔物の頭部を貫き、その勢いのまま首を裂く。 ――ドシュッ! 鈍い音が響き、血が噴き出した。 巨体が勢いのまま倒れ込み、地面が揺れる。 魔物の咆哮は、もう響かない。 ルードは息を荒げながら剣を振り払い、血を払い落とす。 (……倒した、か) だが、安堵した瞬間、膝がガクリと落ちた。 強引に体を動かしすぎたせいで、限界が近い。 エレナシアが駆け寄ってくる。 そして、何も言わずに、ルードの肩にそっと手を伸ばす。 その瞬間だった。 「やめろッ……!」 ルードの声が鋭く空気を裂いた。 伸ばされたエレナシアの手を、叩き落とすように振り払う。 彼女の瞳が、驚きと戸惑いに揺れる。 「お前の力を使わせるわけにはいかねぇ」 息を荒げながら、それでも力強く言い放つ。 力を込めて言い放つ。 「俺の傷なんざ……放っておけば治る」 「……お前が無駄に力を使う方が、問題だ」 エレナシアは迷うように筆を動かしかけたが――。 ルードの瞳が、鋭く彼女を射抜いた。 沈黙。 エレナシアは、ゆっくりと筆を置いた。 『……わかった』 消え入りそうな文字だった。 ルードはそれを確認すると、ようやく深く息を吐く。 そして、血を拭いながら無理やり立ち上がった。 「……行くぞ。モタモタすんな」 そう言って、ふらつく足取りで歩き出す。 エレナシアは黙ったまま、その背に寄り添うように後を追った。 ◇ 長い時間をかけ、ようやく街の灯りが見えてきた。 空はすでに群青色に染まり、沈みかけた太陽の名残が西の地平線にわずかに滲んでいる。 街の入り口付近では、橙色のランタンがぽつぽつと灯り始め、通りを行き交う人々の影を長く落としていた。 ルードの意識は限界に近い。 視界は霞み、足元がふらつく。 頬に当たる風は、日中よりも冷たく、少しずつ夜の気配が満ちてくるのを感じた。 遠くから、酒場のざわめきや馬車の軋む音が微かに聞こえる。 ルードは目を細め、ちらりと隣を見た。 エレナシアは無言でついてきていたが、心配そうにこちらを窺っているのが分かる。 (……クソ、情けねぇ) 唇を噛み、気力を振り絞って歩を進める。 今は、ひとまず宿を探すことが先決だった。 (……あと少し、あと少しで) 街の門を通る際、門番の視線がこちらに向いたが、ルードは構わず足を進めた。 どこか適当な宿を――。 ようやく、それらしき建物を見つける。 「……宿だ」 かすれた声で呟く。エレナシアは何も言わず、ただ傍に寄り添っていた。 扉を押し開け、宿の主人が驚いた顔をするのが見えた。 「お、おい、大丈夫か?」 「部屋を……1つ」 掠れた声でそう言いながら、カウンターに手をつく。銀貨を置くと、宿の主人は渋々鍵を渡してきた。 ――部屋の扉を開けた瞬間、限界が来た。 足がもつれ、膝をつく。 「……っ」 それでも、踏みとどまろうとするが、無理だった。 視界が揺れ、重力に引かれるまま、床へと崩れ落ちる。 頭が割れそうに痛む。喉は焼けるように渇き、関節が軋むように痛い。 (……クソ、最悪だ) 体が言うことを聞かない。 床の冷たさが、熱を持った皮膚にじわりと伝わる。 だが、次の瞬間――何かが腕に触れた。 (……?) ぼんやりとした意識の中で、誰かが自分を引き起こそうとしているのが分かった。 力が弱い。 何度か体がぐらつき、それでも諦めずに支え続けてくる。 (……エレナシア、か) 視界の端で、彼女の銀髪が揺れるのが見えた。 「……放っとけ」 声に出したつもりだったが、喉がひどく渇いていて、かすれた音しか出ない。 それでも、エレナシアの動きは止まらなかった。 肩を貸すように支えられ、ゆっくりと寝台へと運ばれる。 シーツの感触を背に感じた瞬間、全身の力が抜けた。 それでも、まぶたを重く感じながらも、意識を手放さないように踏みとどまる。 そんな中、ふと、微かな音が耳に届いた。 (……何かを探している?) 視界の端で、エレナシアが鞄を漁っているのが見えた。 「……何してる」 かすれた声で問いかけると、エレナシアはちらりとこちらを見た。 その手には、包帯と薬草の入った小袋が握られている。 (……手当て?) ルードは眉を寄せた。 「……いらねぇよ」 だが、エレナシアは無言のまま、椅子に腰を下ろし、ルードの服に手をかけた。 「……おい」 微かな抗議の声。だが、力が入らない。腕を上げるのも億劫で、抵抗する気力すらなかった。 エレナシアは慎重に服の襟元を押し広げ、はだけさせる。 ひんやりとした空気が傷口に触れ、ルードはわずかに眉を寄せた。 かすかに滲んだ血が見える。ひどい怪我ではないが、放っておけば悪化しかねない。 エレナシアの指先が、震えているのが分かった。 (……こいつ、慣れてないのか) そういえば、エレナシアは幼い頃から閉じ込められていたと言っていた。 知識はあっても、実際に誰かの傷を手当てしたことはないのかもしれない。 (なら、余計なことすんな) そう言いたかったが、喉が思うように動かない。 エレナシアはそっと布を濡らし、血の滲んだ部分を拭い始めた。 だが、力加減がうまくいかないのか、布が傷に引っかかる。 「……ッ、いてぇ……」 かすれた声が漏れた。 エレナシアの手が、ぴたりと止まる。 (……痛かったかって、聞きたいのか) だが、筆談の道具は手元にない。 エレナシアはじっとルードを見つめたまま、小さく息を吸うと、再び慎重に血を拭い始めた。 ――妙に、ゆっくりでぎこちない手つきだった。 薬を塗る指も、不器用に迷いがちで、包帯を巻く手もどこか頼りない。 だが、ルードは何も言わなかった。 (……こいつなりに、必死ってことか) 包帯を巻き終えたエレナシアが、そっと手を止める。 微かに息を吐き出すのが聞こえた。 「……もう、好きにしろよ」 かすれた声でぼそりと呟くと、エレナシアはじっとこちらを見ていた。 だが、ルードの視界はもう定まらない。 (……やばい……意識が……) 頭が重い。痛みと熱で、思考がまとまらない。 視界の端で、エレナシアが何か言いたげに口を開くのが見えた。 だが、その声を聞く前に―― 音が、遠のいた。 暗闇が視界を覆い、ルードの意識は深く、沈んでいった。 ◇ ルードの体が、完全に動かなくなる。 エレナシアは、筆談の道具を探そうとしたが――無駄だった。 彼の意識は、もうない。 額に手を当てると、火のように熱い。 荒い息がかすかに震え、眉間にはうっすらと苦痛の皺が寄っていた。 (……こんな顔、初めて見た) いつもは強くて、冷たくて、近寄りがたいのに。 今のルードは、まるで――壊れそうなほど弱々しい。 けれど、その姿に湧き上がるはずの何かは、眉間の皺ひとつで、胸の奥に沈んでいった。 (……すごい熱) 傷の手当ては終えたが、このままでは危険だ。 エレナシアは迷わず手を伸ばしかける。 この手を彼にかざせば―― ――癒せる、かもしれない。 けれど、指先が震えた。 (……だめ) この力を使ったのは、まだ二度だけ。 一度目は、遠い昔。 二度目は、彼が私をかばって怪我をしたとき。 どちらも、心から「助けたい」と思った。 だからこそ、力が応えた。 そのときの自分には、確かに“そうしたい”という意思があった。 けれど―― でも、もしまた“思い”だけで動いてしまったら。 それが、彼にとって本当に救いになるとは限らない。 エレナシアの指先は、彼の額に触れる寸前で止まる。 癒したい。助けたい。 けれど、自分の中にある力が、 いつ、どんな形で応えるのか――まだ、わからない。 彼が目を覚ましたとき、 その瞳が、自分を―― (……怖がられるのは、もういや) エレナシアは、強く首を振った。 怖い。 自分自身が、怖い。 (他の方法を……) すぐにでも、何かしなければ。 エレナシアは、迷わず立ち上がる。 (……薬を) その一心で、彼女は部屋を飛び出した。 ◇ 宿の主人はカウンターの奥で帳簿をつけていたが、エレナシアの姿を認めると、少し驚いた顔をした。 「おや、どうした?」 エレナシアはすぐに筆と紙を取り出し、素早く書く。 『熱があるので、薬をもらえませんか』 宿の主人は眉を寄せた。 「……そうか。怪我してるってのは見りゃわかってたが、熱もか」 少し考え込んだあと、棚の奥から小さな瓶を取り出した。 「風邪薬ならある。そこまで強いもんじゃねぇが、熱を下げるには十分だろ」 エレナシアは強く頷く。 「……あんたも大変だねぇ」 宿の主人は小さくため息をつきながら、瓶を手渡した。 「水で薄めて飲ませるといい。少し苦いが、効果はある」 エレナシアは深く頭を下げ、瓶を大切に抱えながら部屋へと戻った。 ◇ ルードの傍に座り、エレナシアは瓶を開ける。 中には透明な液体が揺れていた。 言われた通り、水と混ぜてスプーンにすくう。 しかし――。 横になったままのルードは、意識が朦朧としているようだった。 (……飲める、かな) エレナシアは少しだけためらった後、そっとスプーンを唇にあてる。 「……っ」 ルードの唇が微かに動く。 けれど、薬は喉を通らず、そのままこぼれ、首筋を伝ってシーツへと染み込んだ。 エレナシアは困ったように眉を寄せた。 (このままじゃ……) 時間をかけすぎれば、熱がさらに上がるかもしれない。 しばらく考え――。 エレナシアは決意するように、薬を口に含んだ。 そして、そっとルードの顔へと身を寄せる。 唇が触れるか触れないかの距離で、一瞬ためらう。 しかし、意を決し、そのまま口づけるように薬を流し込んだ。 少しずつ、少しずつ。 やがて、ルードの喉がわずかに動く。 ――ごくり。 ちゃんと、飲んでくれた。 エレナシアはゆっくりと顔を離し、安堵の息をついた。 (……よかった) だが――。 唇に残る微かな温もりが、なぜか気になって仕方がない。 鼓動が、少し速い。 自分でも驚くほど、胸がどくどくと鳴っているのが分かった。 そっとルードの顔を見下ろす。 彼は、相変わらず熱に浮かされている。 (……気を失ってるはず……だよね?) そう分かっていても、妙に落ち着かない気持ちが残る。 エレナシアは小さく息を吐き、頬を覆った。 ――そして、ただ静かに、ルードの傍に座り続けた。 ルードの荒い息は、徐々に落ち着きを取り戻していた。 薬が効いたのか、先ほどまで燃えるように熱かった体も、今は幾分かましになっている。 エレナシアは額にそっと手を当て、その熱が下がりつつあることを確認すると、小さく息をついた。 けれど、まだ安心するには早すぎる。 傷は深く、体力も落ちている。 このままでは回復が遅れ、傷口が悪化するかもしれない。 エレナシアは迷わず、宿の主人を頼ることにした。 筆談で事情を伝えると、主人は腕を組みながら「確かに、このままじゃまずいな」と唸る。   「街の外れに〈癒しの葉〉が生えてる場所がある。それを使えば、傷の治りも早くなるはずだ」 宿屋の主人はそう言って、棚の奥から一冊の古びた本を取り出した。 ぱらぱらとページをめくり、ある挿絵を指さす。 「これがそうだ。淡い青緑の葉で、光に当てるとほんのり光る。傷薬にしてもいいし、乾かしてお茶にしても効くらしい」 エレナシアはその絵に目を留める。 淡くにじんだ線と、絵本のようなやさしい色合い。 どこか懐かしい気がした。 (――昔、見たことがある) 小さなころ、よく似た葉の絵を、本で見た。 ページをめくる音。静かな声。 自分よりも少し高い場所から聞こえる、落ち着いた口調。 あれは――たしか、あのひとが読んでくれていた。 もう声の輪郭までは思い出せない。 けれどその時間の静けさだけが、今も胸に残っていた。 「ただな……ちょっと遠い。馬を出すほどじゃねえが、歩いて行くには時間がかかる」 遠い。 その言葉が胸に引っかかったまま、エレナシアは黙って頭を下げ、受付をあとにした。 ルードは変わらず、寝台に身を沈めていた。 かすかな寝息の奥に、まだ熱の残滓が感じられる。 エレナシアの眉がわずかに寄る。 魔力の鎖のせいで、ルードがそばにいなければ動ける範囲は限られる。 彼が意識を失っている今、制限を解除できるのは――自分だけだ。 視線が、首輪へと落ちた。 鍵さえあれば、今すぐにでも外せる。 エレナシアは、寝台に横たわるルードの顔を見つめた。 (……鍵を、探せば) ポケットの中にあるはずだ。 ほんの一瞬、ためらいがよぎる。 だが、このまま何もしなければ、ルードの回復が遅れるのは明らかだった。 エレナシアは小さく息を吐き、慎重に手を伸ばす。 ルードの服の隙間に指を滑り込ませ、そっと探ると――冷たい金属が指先に触れた。 鍵だ。 彼の寝顔を一瞥し、静かに取り出す。 (……外せば、どこにでも行ける) 首輪を外すこと自体は簡単だった。 錠前に鍵を差し込み、ひねるだけ。 カチリ。 小さな音を立て、首輪が外れる。 ――自由になった。 エレナシアは、首をさすりながらゆっくりと立ち上がる。 今なら、どこへでも行ける。 けれど。 足は、部屋の出口ではなく、寝台のほうへと向かっていた。 ルードは眠ったまま、微かに眉を寄せていた。 その顔を見て、ふと脳裏に疑問が浮かんだ。 (……どうして、私はまだここにいるの?) 逃げられるはずなのに、なぜか動けなかった。 自分は、自由を求めていたはずなのに。 (ルードが……) 目を閉じたままの彼の顔を見つめる。 彼を置いて、一人で逃げる。 その選択肢が頭をよぎった瞬間、強烈な違和感が胸に広がった。 エレナシアは知らず知らずのうちに、手をぎゅっと握りしめていた。 (……今は、そんなことを考えてる場合じゃない) 薬草を取りに行く。 それだけが、今の優先事項。 エレナシアはもう一度、深く息を吸い、扉へと向かった。 夜の空気は、少しひんやりとしていた。 街の外れへと向かう道を、一歩ずつ進んでいく。 (ルードは……どうして、あんなに無茶をするんだろう) 傷を負っても、平気な顔をして。 体調が悪くても、意地でも「大丈夫だ」と言い張る。 その姿を思い出し、エレナシアはゆっくりと視線を落とした。 最初に会ったときの、冷たく、無慈悲な態度。 けれど、その奥には――。 (……わからない) 金のために自分を攫った男。 それなのに、なぜこんなにも気になるのか。 エレナシアは、ふと足を止めた。 街外れに続く道の先、木々の間から月光が淡く降り注いでいる。 そこに、目的の〈癒しの葉〉が生えているはずだ。 (ルードの傷が、少しでも早く治ればいい) そう思いながらも、胸の奥でくすぶるものが消えない。 冷徹なはずの彼が、時折見せる微かな優しさ。 それを、どう受け止めればいいのだろう。 考えても、答えは出なかった。 けれど――。 今はただ、薬草を探すことだけに集中する。 エレナシアは、そっと夜の森へと足を踏み入れた。 ◇ 夜の森は、昼間とはまるで違う顔をしていた。 木々は黒く影を落とし、足元の枯れ葉が音を立てるたびに、心臓が跳ねる。 月明かりは雲に遮られ、道はほとんど見えなかった。 それでも、エレナシアは足を止めない。 エレナシアは慎重に夜道を進みながら、宿の主人の言葉を思い出した。 (この辺りに生えてるはず……) しばらく探し続けると、茂みの隙間に見覚えのある葉が見えた。 (……あった) 淡い青緑の葉に、うっすらと朝露のような光を宿した薬草――癒しの葉。 宿屋で見た図鑑の挿絵と、かつて誰かに読んでもらった本の記憶が重なる。 落ち着いた声で、「これはね、傷の治りが早くなる葉なんだ」と語る声が耳の奥に蘇る。 指先が、そっとその葉に触れた。 エレナシアは静かに膝をつき、慎重にそれを摘み取る。 だが、そのとき――。 背筋に、冷たい感覚が走った。 (……誰か、いる?) いや、"何か"が、いる。 ゆっくりと視線を上げる。 闇の中に、光るものがあった。 じっと、こちらを見つめる黄色い光。 ――獣の目だ。 (……気づかれてない) エレナシアは、息を殺す。 相手は、夜行性の魔獣。 大きさまでは分からないが、目の高さから察するに、狼のような体格かもしれない。 視線を逸らせば、追ってくる。 だから、じっとしたまま、静かに後ずさる。 (ゆっくり……ゆっくり……) 慎重に、足音を殺しながら距離を取る。 幸い、魔獣は今のところ動く気配はない。 狩りの直前のように、様子をうかがっているだけ。 そのまま数歩、下がった――その瞬間。 魔獣の耳が、ピクリと動いた。 (……っ) 咄嗟に、エレナシアは手に持っていた癒しの葉を投げた。 草は闇の中に落ち、小さな音を立てる。 魔獣の視線が、わずかにそちらへと逸れた。 ――今だ。 エレナシアは、一気に駆け出した。 背後で、低い唸り声が響く。 だが、魔獣は追ってこない。 慎重に振り返ると、茂みの向こうで、まだこちらを見つめている影があった。 しかし、すぐに闇の中へと溶けるように消えていった。 エレナシアは、大きく息を吐く。 (……戻らないと) 手の中には、しっかりと摘み取った癒しの葉が残っていた。 それをぎゅっと握りしめながら、エレナシアは宿へと走った。 宿へ戻る道すがら、エレナシアは無意識に首元へ手をやった。 魔力の鎖は外れたまま。 ――なのに、なぜか胸の奥に妙な引っかかりを感じる。 (私は……自由になれたはずなのに) それでも、迷わず宿へ戻る足が止まらない。 息を切らしながら、宿の明かりが見えてきた瞬間、エレナシアはそっと胸に手を当てた。 (……ルード) 彼のことを考えるたび、心の奥で何かが揺れる。 それが何なのかは分からない。 ただ――。 今は、この手の中の薬草が、少しでも彼を楽にしてくれることを願うだけだった。 ◇ 漆黒の闇の中、ルードは立っていた。 足元に広がるのは、崩れた建物と雪に覆われた大地。 真っ白な景色に、血の赤が滲んでいた。 風もなく、音もない。ただ、静寂だけが支配する空間。 降り積もる雪がすべてを覆い隠し、世界はどこまでも冷たい。 ルードは、ぼんやりと前を見つめる。 視界の隅で、何かが横たわっているのがわかった。 倒れた人々と、血に濡れた手。 遠くから誰かの声がした気がしたが、それも雪に吸われて消えた。 雪に埋もれた木片が風に舞い、白い灰とともに空へと消えていく。 目の前にあるのは、確かに知っているはずの景色だった。 だが、思い出せない。 かつてそこにいたはずの家族の顔が、朧げに滲む。 目を凝らせば凝らすほど、輪郭が薄れ、焦点が合わなくなる。 父、母、妹――。 何かを言っていたはずなのに、声が聞こえない。 ただ、遠ざかっていく背中だけが残った。 その時、別の記憶が割り込むように浮かび上がった。 誰かの背中。 雪の中に立ち尽くす、ひとりの男。 顔は見えない。だが、その背中だけははっきりと覚えている。 幼い頃、戦い方を教えられた相手。 生きる術を叩き込まれた男。 だが、その姿もまた、じわじわと雪に溶けていく。 振り返ることはない。 ルードは、その背を追いかけようとした。 走り出そうとする。 だが、足が動かない。 雪が足元を覆い、身体が沈んでいく。 その瞬間――。 世界が崩れ始めた。 地面がひび割れ、空がねじれ、すべてが闇に飲み込まれていく。 手を伸ばしても、何も掴めない。 ただ、すべてが消え去るのを見ているしかなかった。 (……俺は、何を探している?) 答えはない。 ただ、喪失感だけが胸を満たしていく。 ――その時。 暗闇の中に、ぽつりと光が灯った。 ふと目を向けると、その先に彼女が立っていた。 銀色の髪が、淡く輝いて見える。 エレナシアが、静かにこちらを見つめていた。 表情は読めない。 だが、彼女はそこにいた。 無言のまま、ただこちらを見つめている。 その瞳には、どこかあたたかいものが宿っていた。 ――奇妙だった。 この夢の中では、すべてが消えていく。 何も掴めず、何も残らない。 だが、エレナシアの存在だけは、はっきりとしていた。 ルードは無意識に手を伸ばした。 今度こそ、消えないように。 けれど―― 指先が触れる直前、彼女の姿がふっとかき消えた。 「……!」 思わず拳を握る。 今までの幻影と同じ。 触れようとした途端、跡形もなく消え去る。 それなのに、さっきまでそこにいたという確信だけが残る。 (……なんなんだ、これは) 心臓が妙に重い。 何かを強く求めていた気がする。 ……でも、それが何かはわからなかった。 その答えが出る前に、世界がゆっくりと暗闇に沈んでいった。 そして、意識は――ゆっくりと現実へと引き戻されていく。 ルードは、どこかまだ夢の続きを見ているような感覚を抱えたまま、目を開けた。 静寂の中、微かな光が差し込んでいた。 視界に映るのは、木漏れ日が揺れる天井。 どこか遠くで鳥の鳴き声が響いていた。 ――朝だ。 瞬きを繰り返しながら、周囲を見渡す。 身体はまだ重く、関節が軋むように痛い。 だが、ひどい熱に浮かされていたときに比べれば、いくぶんマシになっている。 肩の痛みも、少しだけ引いていた。 気絶する前よりは、ずっと楽だ。 何が効いたのかはわからないが――助かったのは確かだった。 倒れたのは、いつだった? 体の感覚があまりに鈍く、時間の流れすら曖昧だった。 そう思った瞬間、すぐ近くに気配を感じる。 視線を動かすと、椅子に座ったまま机に突っ伏し、静かに眠るエレナシアの姿があった。 寝息は静かで、かすかに肩が上下している。 彼女の前には、筆談用の紙と空になった薬瓶が置かれていた。 ルードは、目を細める。 (……こいつ) ずっと自分のそばにいたのか? その事実が、なぜか妙に引っかかった。 寝ている間に、逃げる機会はいくらでもあったはずなのに――。 何とも言えない感情を抱えながら、ルードは身を起こす。 しかし、その僅かな動きでエレナシアが微かに身じろぎし、ゆっくりと目を開けた。 紫水晶の瞳が、眠たげに瞬きをする。 そして、次の瞬間―― 目が合うなり、彼女の表情がぱっと変わった。 驚いたように目を見開き、息を呑む音がする。 だが、その後、ほんの一瞬だけ、安堵の色が滲んだ。 ルードは、それを見逃さなかった。 (……なんで、そんな顔するんだよ) エレナシアは、すぐに筆を取り、紙に何かを書いた。 『……目が覚めて、よかった』 淡々とした文字のはずなのに、その言葉には妙な温かみがあった。 ルードは、それをじっと見つめる。 「……お前、ずっとここにいたのか?」 エレナシアは頷いた。 「……なんで」 何度も逃げる機会はあったはずだ。 俺はお前を誘拐したんだぞ? その疑問に、エレナシアは再び筆を走らせる。 『ルードが、心配だったから』 ルードの指が、一瞬止まった。 その言葉が、妙に胸に刺さる。 誰かにそんなふうに言われたのは――いつぶりだ? 思わず、喉を鳴らしながら視線を逸らす。 「……心配なんて、する必要なかっただろ」 努めて淡々と返す。 だが、エレナシアは静かに首を振った。 そして、新しい紙を取り出し、筆を走らせる。 『ルードを助けたかった。』 『……でも、どうすればいいのかわからなかった』 その一文に、ルードは息を詰めた。 (……俺を……助けたかった、だって?) 自分を誘拐した男のために、ここに残った。 どうしていいかわからなかった、なんて――。 不意に視線を逸らし、額に手を当てる。 (……バカみてぇだな、俺) そこで、エレナシアがそっと手を伸ばした。 ルードの前に置かれたのは――首輪。 ルードは、その物体を見て、ほんの一瞬、眉を寄せた。 首輪が外れていることに、今気づいた。 鍵は、自分のポケットに入れたままだったはずだ。 (……自分で、外したのか?) なおさら意味がわからない。 逃げる準備を整えたうえで、なんでここにいる? 何もなかった顔で、すぐそばに座ってる――いったい、どういうつもりだ。 「……なんでだよ」 ルードは思わず、口に出していた。 「なんで、外したのに逃げなかった?」 エレナシアは筆を取り、迷いなく書いた。 『薬草を取りに行くために外したの』 その文字には、迷いの跡がかすかに残っていた。 でも、それでも彼女は書いた。 まるで“他に選べなかった”と言うように―― 『……ルードの傷が、よくなるように』 ルードは、一瞬だけ言葉を失った。 視線を落としたまま、無言で拳を握る。 (……そんなことのために) その行動に、何の見返りもなかった。 逃げても責められない立場だったのに、こいつは―― エレナシアの手がそっと動く。 筆を取り、紙に一言だけ書いた。 『……つける?』 ルードは、思わず目を細める。 逃げる機会があったのに、こいつは逃げなかった。 それどころか、わざわざ首輪を俺に差し出している。 ルードは、しばらく沈黙した後、ゆっくりと首輪を手に取る。 そして、指で軽く捻る。 バキッ――! 亀裂が走り、魔力が揺らぐ。 そのまま、ルードは力を込め、首輪を握り潰すように捻じ切った。 砕けた金属の破片が床に落ちる。 完全に、壊れた。 エレナシアは、目を見開いていた。 ルードは、ふっと息を吐き、何事もなかったかのように首輪の残骸を転がす。 「もう必要ねぇ」 低く呟く。 「お前が逃げたら、その時はまた捕まえりゃいい」 そんなこと、できるわけがないのに。 エレナシアは、それをじっと見つめていたが、やがて筆を取った。 『……それでいいの?』 ルードは鼻を鳴らす。 「もう決めたことだ。文句あんのか」 エレナシアは、少しだけ迷ったような素振りを見せた後、小さく首を振った。 そして、砕けた首輪の破片を見つめながら、静かにテーブルの端へと押しやる。 ルードはそれを横目で見ながら、小さく息を吐く。 「……もう少し寝る」 そう言って、再び目を閉じた。 エレナシアはそれをじっと見つめていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。 ルードが意識を手放す直前、微かな気配があった。 ふと、額の上に柔らかなものが触れた気がした。 それが、彼女の指だったのか――それとも、ただの夢だったのか。 ルードは、確かめることなく、深い眠りへと落ちていった。 ◇ ルードが再び目を閉じたあと、静かな時間が流れた。 ──そして、次に目を覚ましたときには、窓の外はすっかり明るくなっていた。 微かに差し込む光が、薄いカーテン越しにぼんやりと部屋を照らしている。 静寂の中、遠くから聞こえる市場の喧騒が、外の世界がすでに動き出していることを知らせていた。 (……どれくらい、寝てたんだ) 体を起こそうとして、思ったよりも違和感がないことに気づく。 熱はほぼ引いている。喉の渇きも幾分かましになっていた。 肩にまだ鈍い痛みはあったが、動かせないほどではない。 包帯越しにわずかなつっぱりを感じるたび、昨日の出来事がよみがえる。 隣を見ると、エレナシアはすでに身支度を整えていた。 ケープを羽織り、筆談用の紙を手に持ったまま、じっとこちらを見ている。 「……どれくらい寝てた?」 低くかすれた声で問うと、エレナシアが近づいてきた。 『昼を少し過ぎたくらい』 差し出された紙にそう書かれていた。 (……まる一日以上か。そりゃあ体も重いはずだ) それだけ眠ったおかげで、だいぶ回復したようだった。 ルードは軽く息を吐き、ベッドの端に腰掛ける。 (……また随分と足止めを食っちまったな) 無理なく立ち上がれることを確認し、ゆっくりと伸びをした。 「……そろそろ、行くか」 エレナシアは頷き、ルードとともに部屋を出た。 階段を下りると、宿屋の主人がカウンターの奥で帳簿をつけていた。 エレナシアは立ち止まり、筆を取る。 『お世話になったから、お礼を言いたい』 そう書かれた紙をルードに見せると、ルードは無言で頷き、そのままカウンターへ向かった。 宿屋の主人は二人の姿を認めると、顔を上げてにっこりと笑った。 「おお、しっかり歩けるようになったか。良かったな」 ルードは小さく鼻を鳴らしながら、ぶっきらぼうに言う。 「……世話になったならしいな」 「いやいや、こっちは何もしてねぇさ。嬢ちゃんのほうが、大変だったろ」 ルードの眉がわずかに動いた。 「……あいつが?」 宿屋の主人は頷き、どこか嬉しそうに目を細めた。 「あんたが倒れてる間、ずっと付きっきりだったよ。水を汲んで、氷嚢を替えて、夜通しそばについてた。」 「若いのに、えらいしっかりした彼女じゃないか。大事にしなよ?」  ルードは一瞬、言葉を失う。 「……そんなんじゃねえ。こいつはただの同行者だ」 宿屋の主人は肩をすくめ、どこか楽しげな声を返した。   「はは、そうかい」 宿屋の主人は悪びれもせず、愉快そうに笑った。 「けど――今はそうでも、この先どうなるかはわからないだろう?」 「……ッ」 余裕を持って否定するつもりだったのに、なぜか喉が詰まったような感覚がして、上手く言葉が出なかった。 その沈黙を、宿屋の主人は楽しそうに見ていた。 (……なんでこんなくだらねぇことで動揺してんだ) ルードは舌打ちを飲み込み、話を打ち切るようにそっけなく言い放った。 「……じゃあな」 宿屋の主人はにこやかに手を振る。 「おう、元気でな」 ルードはさっさと宿を出ようとするが、その横でエレナシアが筆を走らせた。 『ありがとう』 短く書かれた文字を宿屋の主人に見せると、彼は一瞬驚いた後、優しい笑みを浮かべた。 「おう、礼なんていいさ。お前さんたち、いい旅をな」 ルードはエレナシアを見下ろした。 「早くしろ」 エレナシアは静かに頷き、ルードの後を追った。 宿の扉をくぐったあと、少し歩いてから、ルードはふと呟くように言った。 「……そんなんじゃねえって言ってんのに……」 その横で、エレナシアが筆を動かす。 『そんなんって?』 ルードは、わずかに肩をすくめると顔を背けた。 「……別になんでもねえよ」 返事はそっけない。 だけど、その声にはほんの少しだけ照れたような響きが混じっていた。 エレナシアは、なにも言わず、ただその隣を歩く。 ルードはひとつ息を吐いて、肩を回しながら前を見据えた。