第4話 静寂を裂く雨と名もなき距離
エレナシアの呼吸が落ち着き、ようやく夜の静けさが戻ってきた。
(……なんだったんだ、さっきのは)
目の前で起きたことが、まだ頭の中でうまく整理できていない。
血の匂い。魔力の嵐。そして、呆然としたような彼女の瞳。
(あんなもん、制御できるわけねぇだろ)
震えてた。間違いなく、本人も怖がってた。
……それが、なんか、妙に引っかかって離れない。
(助けられた……?いや……)
そこまで考えて、ルードは頭を振った。
(……くそ、わけがわからねぇ)
ルードは短く息を吐き、彼女の腕を支えたまま、そっと座らせた。
「……今日はここで休むぞ」
この場を捨ててもいいが、今はエレナシアの体力が持たない。
それに、襲撃者どもは片付いた。余計な痕跡さえ消せば、ここに留まるほうが安全だ。
エレナシアは疲れ切った表情で、かすかに頷いた。
彼女の指先はまだ微かに震えている。
魔力を暴走させた影響か、それとも、ただ単に寒さのせいか。
ルードは手早く地面の乱れた落ち葉を払い、代わりに乾いた布を敷いた。
その上に彼女を横たえ、自分の外套を脱ぎ、無言で肩に掛ける。
エレナシアは驚いたようにルードを見上げたが、何も言わず、そのまま目を閉じる。
(……本気で厄介なことになってきやがったな)
心の中で悪態をつきながらも、ルードは剣を握りしめ、周囲に意識を研ぎ澄ませた。
──夜は、静寂に包まれていた。
◇
朝が来るころには、空はどんよりと重たく曇っていた。
夜を照らしていた灯りは消え、冷たい風が木々を揺らしている。
ルードは体を起こし、エレナシアの様子を確認する。
彼女はまだ眠っていたが、呼吸は落ち着いていた。昨夜の疲れが残っているのか、顔色はあまりよくない。
ルードは短く息を吐くと、空を見上げた。
(……天気が悪くなりそうだな)
分厚い雲が垂れこめ、湿った風が肌をなでていく。
「……雨か」
ぽつり、と頬に冷たい滴が落ちた。
すぐに、それは数を増し、空気を濁らせるように降り始める。
「クソッ、早く避難しねぇと」
眠っていたはずのエレナシアが、ゆっくりと目を開けた。
意識はまだ朦朧としているようだが、雨の冷たさに気づいたらしい。
ルードはエレナシアの肩を軽く押して、あたりを見渡す。
その視界の端で、彼女が小さく身をすくめているのが見えた。
すでに服は濡れ始め、身体に張りついている。
「こっちだ!」
迷っている暇はない。
彼女の手をとって、近くの岩陰へと駆け込む。
雨はどんどん強くなり、地面を叩きつける音が耳をふさぐようだった。
岩場の影は思ったより広く、二人が身を寄せるには十分だった。
ルードは落ちていた枝を拾い上げる。
手早く薪を組み、火打ち石を打ちつけると、やがて細い炎が生まれた。
焚き火の灯りがちらちらと揺れ、冷えた空気を押し返していく。
火が安定したのを確認すると、ルードは外套の下のシャツを脱いだ。
耳元の銀のピアスが揺れ、焚き火の光を受けて一瞬きらめく。
ルードはそのまま脱いだシャツをエレナシアに放るように差し出した。
「……ほら、着とけ」
エレナシアは、一瞬だけ戸惑ったようにそれを見つめる。
温もりの残る布を、そっと両手で受け取ると、少しだけ指先が震えていた。
彼女は何かを迷うように視線をさまよわせたあと、岩陰の隅へと歩いていく。
ルードに背を向け、そっと服を脱ぎはじめた。
(……なんだ、あの間)
視線を逸らしながらも、どこか引っかかる。
エレナシアの仕草が、妙に落ち着かない。
(……流石に着てたやつ渡すのはまずかったか?)
けれど、着替えなんてそう何着も持ち歩いているわけじゃない。
それに、洗濯もちゃんとしている。衛生面だって気をつけてるつもりだ。
(……大体、また熱出されても困るだろうが)
ルードは舌打ちして顔をそむける。
シャツを渡したせいで、今の彼は上半身裸のままだった
冷えた風が吹き込み、湿気が肌に貼りつく。
焚き火の明かりが揺れるなか、彼女の着替える気配だけが背後にあった。
──ふと、短く息を呑む音がする。
(……?)
振り向く間もなく、エレナシアが突然しがみついてきた。
「っ……!」
突然の接触に、ルードの思考が一瞬だけ止まる。
濡れたはずの彼女の体温が、やけに近い。
(……近い)
雨に濡れて冷えたはずの身体は、思ったよりも温かくて。
柔らかな感触が、服越しに伝わってくる。
「お、おい……離れろよ……!」
動揺を隠せない声が、思わず漏れる。
(なんだこいつ……急に……)
けれど、腕の中で震える肩に気づいて、ルードはふと息を呑む。
(……怯えてるのか?)
エレナシアの指先が、シャツの裾をぎゅっと掴んでいる。
まるで、そこにしがみつかなければ立っていられないように。
そっと、手を伸ばしかけた。
震える背中に、ほんの少しでも触れてやろうと。
……だが、途中で止める。
(何をしようとしてんだ、俺は)
自分の中に生まれかけた衝動を振り払うように、ルードは目を伏せた。
そのとき、視界の隅で何かが動いた気がした。
(……?)
雨のせいで視界は悪い。だが、ほんの一瞬、黒い影が岩陰を這うのが見えた気がした。
「……もしかして、蜘蛛か?」
ルードの言葉に、エレナシアの体がピクリと震える。
「……」
彼女は何も言わない。ただ、小さく震えながら、さらにルードの服の端をぎゅっと掴んだ。
答えは、明らかだった。
「……ったく」
ルードはそっと身体をずらし、岩場の隙間に目をやる。
視界の中で小さな黒い影が動くのを見つけると、近くの小枝を拾い、それを軽く突いた。
小さな蜘蛛は、あっけなく影の奥へと這って消えていった。
「ほら、いなくなったぞ」
ついでのように言いながら、少し間を置いてから、呟く。
「……いい加減、離れろよ」
強くも、優しくもない声音だった。
エレナシアは数秒の沈黙のあと、ようやくそっと身体を離した。
けれど、指先はまだ、服の端を名残惜しそうに掴んでいる。
離れた彼女の姿が、ふと視界の端に映る。
シャツの裾がふわりと揺れた。
濡れた服から着替えたせいか、どこか頼りなく見える。
(……ぶかぶかだな)
男物のシャツが、彼女の細い体に合っていない。
袖が余り、肩も落ちて、まるで服に包まれているようだった。
エレナシアが軽く体勢を整えると、ちらりと覗いた太ももに見覚えのある白い包帯が巻かれている。
雨で濡れたのに、ほどけることなく、しっかりと脚に馴染んでいる。
その肌の上に、自分の手が触れた記憶がよみがえった。
細くて、柔らかくて、思ったよりも体温があって——
(……いや、何考えてんだ俺は)
視線を逸らし、焚き火に意識を戻す。
包帯の白さだけが、妙に焼き付いて離れなかった。
ルードは、静かに息を吐いた。
それにしても、まさか――。
あのエレナシアが蜘蛛ごときに怯えるとは思わなかった。
――誘拐されたときも、動じることなくただ静かに受け入れていた。
命を狙われても、血を浴びても、逃げ出すどころか表情1つ変えなかった。
ルードが寝ている間に姿を消すこともなく、ひたすら無言で従っていた。
それなのに。
今は、小さな蜘蛛ひとつに、こうして震えている。
そのギャップに、妙な違和感を覚える。
エレナシアは筆談用の紙を取り出し、素早く筆を走らせる。
『ごめんなさい』
その文字を書き終えたあとも、彼女はしばらく筆を持ったまま、視線を伏せていた。
紙を見つめる指先が、ほんの少しだけ震えている。
その文字を見たルードは、一瞬だけ呆れたように目を細めた。
「……別にいいけどよ」
「こんなことで動揺してたら、この先やっていけねえぞ」
そう言いながらも、心のどこかでほんの少しだけ安堵している自分に気づいた。
エレナシアが、こういう反応をするのは、少し意外だった。
(……こいつにも、怖いもんがあるんだな)
自分の中で妙な発見をした気分になり、ふと息をついた。
──と、それに気づいたエレナシアが、じっとルードを見つめる。
焚き火の揺らめく光の中、その視線は妙にまっすぐで、ルードは不意に気まずくなった。
「……なんだよ」
目をそらしながらぼそりと呟く。
だが、エレナシアは視線を逸らさず、筆を手に取って何かを書いた。
『今、笑った?』
ルードは思わず息を呑んだ。
「は?」
そんなわけがない、と思ったが、確かに自分の口元は緩んでいた。
それを見られたのかと思うと、途端に顔が熱くなる。
「笑ってねぇよ」
否定しながら、ルードは咄嗟に顔を背けた。
エレナシアは、ほんの少しだけ口角を上げると、さらに筆を走らせる。
『……今まで、”ふん”って笑ったことはあった』
ルードの眉がピクリと動く。
「……なんだ、そりゃ」
『でも、今のは違った』
ルードの指が、焚き火にくべようとした薪の上で止まる。
「……どう違うんだよ」
『いつもは鼻で笑うだけ』
『でも、ちゃんと笑ったの、初めて見た』
さっきまでの怯えが嘘のように、彼女の表情にはわずかに余裕が戻っていた。
ルードの表情が、一瞬固まる。
(ちゃんとってなんだよ……)
じわりと胸の奥に変な感覚が広がる。
そんなこと、いちいち気にするようなことか?
「……いや、そもそも笑ってねぇし」
若干ムキになりながら言うが、エレナシアはじっとこちらを見つめている。
その視線が、やけにまっすぐで、落ち着かない。
「……あんまり見んな」
ぶっきらぼうにそう言って、焚き火に薪をくべる。
無理やりにでも話を終わらせたかった。
エレナシアはそれ以上何も言わなかったが、ルードを見つめる視線はどこか温かかった。
(……なんなんだ、こいつ)
ルードは咳払いをして、エレナシアから視線を逸らした。
妙な間が空いたせいで、どうにも気まずい。
(……考えるだけ無駄だ)
そう自分に言い聞かせながら、焚き火を見つめた。
自分に言い聞かせるようにしながら、外套を椅子代わりに敷く。
湿っているせいで余計に体温を奪われる気がした。
焚き火の明かりが揺れ、エレナシアの横顔を照らしている。
彼女は静かに火を見つめていたが、ふと指先で筆を弄びながらこちらを伺うような視線を向けてきた。
ルードは焚き火の炎をじっと見つめ、僅かに息を吐いた。
「……昨夜のことだが」
静寂の中で、その言葉がわずかに空気を震わせる。
エレナシアが小さく瞬きをし、筆を取ろうとする。
焚き火のはぜる音だけが、静かに響いていた。
しばらくして、ルードが口を開く。
「……あれは、お前の意思で使ったのか?」
エレナシアがゆっくりと筆を取り、しばらく迷うように止まる。
やがて、筆が動いた。
『……わからない』
『でも、そうだったと思う』
ルードはその文字を見て、短く息を吐く。
「なら、これからは使うな。……できるだけでいい」
焚き火がぱち、と音を立てる。
「制御できないまま暴れられても困る」
淡々とした口調だったが、その目はまっすぐに彼女を見ていた。
ルードの言葉に、エレナシアの指が止まる。
「お前の力は、異常すぎる」
焚き火の橙色の光が彼の横顔を照らす。
低く、冷静な声だったが、その中には確かな警戒があった。
「さっきの賞金稼ぎどもを吹き飛ばした時、お前は完全に制御できてなかった」
「あのまま俺が止めなかったら、どうなってた?」
ルードは炎を見つめたまま続ける。
「森の木をなぎ倒して、地面を砕く奴がいたら……周りはどう思う?」
エレナシアは視線を落としたまま、筆を握りしめていた。
「お前を利用する奴も出てくる」
「逆に、怖がって消そうとする奴もな」
「……どっちにしろ、面倒なことになる」
一拍、間が空いたあと。
「……別に、お前が何者でもいい。けど、無駄に目立って困るのはお前だ」
それだけ言い切ると、ルードは黙った。
静かな焚き火の音が、二人の間に満ちる。
エレナシアは迷うように筆を握りしめている。
何かを考えているのか、それとも納得していないのか。
だが、やがて迷いがちに筆を走らせる。
『……じゃあ、あなたが危ない時は?』
ルードは、紙の文字を見て、わずかに目を細めた。
(……何言ってんだ、こいつ)
(人のこと気にしてる場合かよ)
「俺のことはいい」
短く、淡々とした口調で返す。
「こっちは今まで一人でやってきたんだ」
「……今さら他人にどうこうしてもらうつもりはねぇよ」
言い切った瞬間、自分の口にした「他人」という言葉に、かすかな違和感が残る。
(他人……のはずだ)
言い淀むほどではなかったが、何かが胸の奥で引っかかる。
だが、それを言葉にすることはない。
エレナシアは、ほんの一瞬だけ筆を止めたあと、静かに紙の上を滑らせた。
『でも……』
そのひと言に、ルードはわずかに眉を寄せた。
「でも、じゃねぇ」
少し語気が強くなる。
「……お前は、自分の心配だけしてろよ」
エレナシアは、筆を握る指に力を込める。
言い返すことはなく、ただ黙って彼の言葉を受け止めているようだった。
焚き火のはぜる音が、二人の間を埋める。
「それと……治癒の力もだ」
ぽつりと続いたルードの声に、エレナシアが顔を上げる。
「治癒の力を使ったあとに暴走したんだ。偶然ってだけじゃ、片づけられねぇ」
炎の明かりが、彼女の横顔を淡く照らす。
「関係があるかは知らねえ。でも、今は自分の力を制御できてねぇんだ」
「だったら、余計なリスクは避けるべきだ」
しばらくの沈黙ののち、エレナシアは再び筆を動かした。
『わかった』
その文字を見て、ルードは小さく頷いた。
「……わかってんなら、いい」
焚き火の火の粉が、ぱちんとはじける。
交わされた言葉は少なかったが、静けさのなかに、確かに何かが残っていた。