第3話 沈黙に宿る声

――空が白み始めてから、しばらく経った頃。 宿を出ると、ひんやりとした朝の空気が肌を撫でた。 村の市場へ向かう道は、朝日を浴びてまだ柔らかい光に包まれている。 店主たちはせわしなく準備を進め、露店のあちこちから焼きたてのパンや干し肉の香りが漂っていた。 人通りはそれほど多くなく、地元の人々が早朝の買い物を済ませている程度だ。 「動きやすいのを適当に選べばいいだろ」 ルードは店先の服をざっと見回し、機能的なものを選び取る。 シンプルなシャツと、膝丈のコート。ここまでは問題ない。 だが、次に手に取ったパンツを見て、ふと眉をひそめた。 (……待てよ。女だし、スカートの方がいいのか?) 自分で考えておいて、どうでもいいことに悩んでいる気がして、内心舌打ちする。 (別にどっちでもいいだろ……いや、でも動きやすさならパンツか? ) (いや、でもスカートの方が女っぽいし……) 頭の中でぐるぐる考えた末、「まぁ、足さばきの良さを考えればスカートの方が適してる」と、無理やり理由をつけてスカートを選んだ。 「ほら、これでいいだろ」 雑に服を手渡すと、エレナシアは黙ってそれを受け取る。 ルードはさっさと金を払い、店を出ようとする。だが、背後で店主の声が聞こえた。 「試着されるなら、奥のスペースをお使いください」 「……試着?」 ルードが振り返ると、エレナシアがほんの少し裾をつまみ、ルードを見上げていた。 (……そういや、今すぐ着替えたほうがいいか。) 元の服はボロボロで、歩き回るには心もとない。 ルードはため息をつきながら、試着スペースの場所を確認すると、エレナシアに促した。 「……さっさと着替えちまえ」 エレナシアはこくりと頷き、奥の試着スペースへと消えていく。 ルードは適当に店の棚を眺めながら待つことにしたが、しばらくして、控えめな気配が近づいてきた。 「……?」 振り返ると、エレナシアが新しい服に着替え、そっと袖を握って立っていた。 膝上のスカートにコルセット風の上衣を合わせ、肩にはケープを羽織っている。 派手さはないが、上品で静かな雰囲気が彼女によく馴染んでいた。 ルードは一瞥し、短く言った。 「……問題ねぇな。行くぞ」 そう言って歩き出すが、エレナシアがすぐに後ろをついてくる気配を感じる。 そして、数歩歩いたところで、彼女の足がふと止まる。 じっと、とある店先を見ていた。 ──紙と筆が並ぶ文具店。 「……」 ルードはしばらく考えた後、めんどくさそうにため息をつくと、店の中へと入った。 「……欲しいのか?」 店の奥から適当な紙と筆を手に取り、エレナシアに向けて見せる。 彼女は無言のまま、小さく頷いた。 「ったく……」 小さくぼやきながらも、ルードは店主に金を払い、エレナシアに紙と筆を渡す。 「これでいいだろ」 エレナシアはそれを受け取ると、少しだけ目を細めた。 「……」  筆談道具を手渡したあと、ルードは何気なく目を逸らした。   「……まぁ、会話できねぇのも不便だしな」 そうぼやいて、さっさと歩き出す。 何か言いたげに、ルードをちらりと見たが結局、何も言わずに紙と筆を大切そうに抱える。 ルードはその様子を見て、ぼそっと呟いた。 「……やっぱ変な女だな」 エレナシアはしばらく考え込むような表情をしていたが、迷いながらも筆を動かした。 やがて、彼女が書いたのは、たった一言。 ──『ありがとう』 ルードはそれを見た瞬間、一瞬だけ眉をひそめた。 思っていたよりも、あっさりと書かれたその言葉が、妙にすとんと胸に落ちる。 「……別に、大したもんじゃないだろ」 軽く手を振るように言いながら、ルードはさっさと踵を返す。 エレナシアはそんな彼の背中を見つめ、もう一度紙に筆を走らせた。 『お礼言われるの、いや?』 ルードはそれを見て、一瞬、息を詰まらせる。 「……めんどくせぇな、お前」 そうぼやきながらも、どこか微妙な表情で視線を逸らし、先を歩き出した。 エレナシアは微かに笑ったような気配を見せながら、静かにその後をついていった。 ◇ 市場を抜けた先の、あまり人通りの多くない通りを歩いていると、エレナシアがふと足を止めた。 ルードが前を歩いていたが、すぐに気づいて振り返る。 「……なんだ?」 エレナシアは、迷うように視線を落としながら、新しく手に入れた筆談用の紙を取り出した。 少しだけ迷ったあと、さらさらと文字を書く。 『どうして、賞金稼ぎをしているの?』 ルードは、その文字を見て、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。 「……は?」 唐突な問いに、思わず問い返す。 だが、エレナシアはじっと紙を差し出し、答えを求めるようにルードを見つめていた。 ルードは、めんどくさそうに頭を掻きながら、何気なく答える。 「……仕事だからな。」 エレナシアはしばらく黙っていたが、また紙に書き足した。 『他の仕事じゃ、だめなの?』 ルードの動きが、ほんのわずかに止まる。 (……そうくるか) 少しだけ目を細め、エレナシアの顔を見る。 彼女は、ただ静かに紙を差し出しているだけだったが、その筆跡はどこか慎重だった。 ルードは、片方の口角をわずかに引き上げ、鼻で笑う。 「……他にできることがなかっただけだ」 エレナシアは筆を止め、少し考えるように視線を落とした。 そして、また紙に文字を綴る。 『お金のため?』 ルードは、軽く肩をすくめる。 「他に何がある?」 エレナシアは筆を止め、ほんの少しだけ躊躇してから、もう一言書き足した。 『……誰かを傷つけることが怖くないの?』 その言葉を見た瞬間、ルードの視線が止まった。 目を伏せるエレナシアの横顔。 その問いは、まるで自分自身に問いかけているような、そんな静けさを纏っていた。 ルードは、わずかに目を細めてから、目線を逸らす。 「……怖がってたら、やってけねぇよ」 そう答えながらも、胸の奥がざわつくのを止められなかった。 エレナシアは、ほんのわずかに口元を引き結んだあと、筆を取った。 『……これ、買ってくれたよね』 そう書いたあと、手元の紙と筆をそっと持ち上げて見せる。 目を伏せるでも、探るでもなく―― まっすぐ、まるで何かを信じきっているような顔で、こちらを見つめてくる。 『すごく、嬉しかった』 『“必要ない”って言われると思ってた』 『……でも、私の言葉、聞いてくれるってことだよね?』 その瞳は、どこまでもまっすぐで、どこまでも素直だった。 まるで“これを信じてもいいんだよね”と、問いかけるような希望を湛えていて―― ルードは無意識に視線を逸らす。 「……会話できなきゃ、こっちも困るだろ」 小さく息を吐いて、目を逸らす。 そりゃ、“荷物”は静かに越したことはない。 でも、なんかあったときに喋れなかったらどうする。 結局、熱を出したときだって―― 喋れていれば、もう少し早く気づけただろうに。 紙を受け取ったエレナシアは、少し筆を止め、それから新たな言葉を綴った。 『昨日、私が熱を出した時、あなたは怒らなかった』 『……それに、看病もしてくれた』 ルードは視線を逸らしながら、ぼそりとこぼす。 「……なんで怒る必要があるんだよ」 病人に怒ったって意味がない。 熱なんて、好きで出すもんじゃない。 誰だってそうなるときはそうなる。それだけの話。 「……さっきから、なにが言いてえんだよ」 逃げずに、じっとこちらを見ていた。 目を逸らすことも、筆をしまうこともせず―― ただ、まっすぐに問いかけてくる。 言葉を発することのない彼女のその瞳に、 冗談で言ってるわけではないことを、ルードは無意識に理解していた。 だからこそ、苛立つ。 冷たくあしらうほどに、見透かされそうで。 薄皮をめくられるような不快感と、正体不明のざわつきが腹の底で渦を巻く。 そして、次の言葉が差し出された。 『……本当は、誰かを傷つけることが怖いんじゃない?』 ルードのまぶたが、ぴくりと痙攣した。 胸の奥に、小さな棘が突き刺さるような感覚。 それは痛みというより、不快な違和感―― その正体が分からないまま、思わず舌打ちが漏れた。 俺にとって、エレナシアはただの“王族”で。 “仕事の対象”で。 “勝手に拾った厄介な荷物”でしかなくて――。 (……いや、厄介なのは間違いねぇ) だけど―― なんで、こいつの言葉がこんなにも引っかかる? ルードは舌打ち混じりに頭をかきむしった。 イライラする。わけがわからない。 「……あのなぁ、お前」 怒鳴るでもなく、なだめるでもない。 自分でもどういう感情なのか、わからなかった。 だが、声を荒げることもできなかった。 否定すればするほど、何かが図星に触れていく。 言いかけた言葉を飲み込み、ルードは短く息を吐いた。 「……看病したのは……死なれたら困ると思っただけだ」 そう断言したが、彼女の目を見ることはできなかった。 「……ほらよ」 そう言って、紙を片手で押し返す。 エレナシアは何も言わず、じっとその紙を見つめ、また筆を走らせた。 『……本当に、それだけ?』 ルードは声にならない音を吐いて、顔を背けた。 そのまま何も言わずに、踵を返して歩き出す――が、数歩後に振り返り、 「それ以外に、何があるんだよ。」 感情を抑え込んだつもりのその声は、どこか掠れていた。 「……もういいだろ。さっさと行くぞ」 エレナシアはルードの後を黙ってついていく。 エレナシアは筆談用の紙を握りしめながら、じっとルードを見上げる。 そして、少しの沈黙の後、また筆を走らせた。 『あなたの名前は?』 唐突な質問に、ルードは眉をひそめた。 何か意図があるのか――そう疑うような目でエレナシアを見やる。 だが、彼女はただ静かに、真っ直ぐに紙を差し出しているだけだった。 「……名前?」 少しの沈黙の後、肩をすくめるように答える。 「ルードだ」 エレナシアは少し目を見開いたあと、筆を取り、紙の上に静かに書き記した。 『ルード』 その反応を見て、ルードは一瞬、彼女が何かを知っているのかと考えた。 しかし深く追求することはせず、ただ無関心を装うように視線を逸らした。 「いい加減日が暮れるぞ」 それだけ言って、ルードは踵を返した。 足元にまとわりついていた空気が、ようやく動き出す。 エレナシアはルードの後を黙ってついてきた。 市場の喧騒はまだ遠くで続いていたが、 二人の間には、それとは別の、静かな気配があった。 ◇ ルードは商店街の最後の店で、旅に必要な物資を確認しながら、ぶっきらぼうに店主へ金を渡した。 (これで全部だな) 必要なものは揃った。 すでに買い物は済ませていたが、出発する直前にふと思い出して追加で薬草を購入していたのだ。 (……昨日、熱を出したばかりだしな) 別に気を遣ったわけではない。ただ、また面倒事になるのを避けたかっただけだ。 買い物袋を片手に持ちながら、ルードはふと広場の方へ視線を向けた。 (……ん?) 妙な違和感を覚えた。 エレナシアが座っているはずの場所に、見知らぬ男が立っている。 しかも、彼女のすぐ隣に座り込むようにして、何か話しかけていた。 ルードは足を止めた。 (……なんだ、あいつ) エレナシアを一人にしていたのは、彼女を気にしながら歩くのが、単純に面倒だったからだ。 人ごみを抜けるなら、一人のほうが手っ取り早い――そう思った。 それに、ルード自身が村の人間の目を気にしていた。 あまり目立たないように行動するために、エレナシアと少し距離を取るのも悪くない判断だった。 もちろん、完全に放置したわけではない。 魔力の鎖があるから遠く離れることはできないし、異常があればすぐに察知できる。 ――だが、まさかその隙にナンパされるとは思わなかった。 (……うぜぇ) 舌打ちを噛み殺し、ルードは無言で歩き出す。 男の横に立つと、低い声で言った。 「……なぁ、何してんだ?」 男は一瞬、気づかずにいたが、ルードの存在を意識すると、にやりと笑った。 「お前、この子の連れか?」 「……ああ?」 ルードは冷めた目で男を見下ろす。 「くだらねぇことに時間使わせるなよ」 そう言いながら、エレナシアの腕を軽く引いた。その仕草は自然だったが、どこか男への牽制のようにも見えた。 男は一瞬表情を曇らせたが、すぐに余裕の笑みを浮かべる。 「別に、ただ話してただけだぜ?無理矢理どうこうってわけじゃない」 「そうか」 ルードは相変わらず無表情のまま、買い物袋を持ち直した。 「なら、これ以上話すことはねぇな」 淡々と告げると、男は肩をすくめ、つまらなそうに立ち上がる。 「……チッ、つまんねぇ」 吐き捨てるように言い、男はそのまま去って行った。 ルードはその背を一瞥すると、特に何かを言うでもなく、エレナシアの方へ顔を向ける。 エレナシアは無言で筆談用の紙を取り出し、筆を走らせた。 『ありがとう』 ルードはちらりとそれを見て、肩をすくめた。 「……お前な」 「いちいち礼とか、いらねえよ」 エレナシアは、少しだけ筆を迷わせたあと、また書き加える。 『……言いたいの』 ルードは息をひとつ吐いて、顔を逸らす。 「……なら、好きにしろよ」 文字のあとに続く余白が、やけに重く感じた。 言葉にするってことが、こいつにとっては――たぶん、ただの“感謝”以上の何かなんだろう。 そのくせ、どこか誇らしげに筆を握ってるようにも見えて、ルードは舌打ちしたくなるのをこらえた。 『それに……』 『どうしたらいいか、わからなかったから』 「適当にあしらっとけよ、あんなの」 『どうやって?』 エレナシアは少し首をかしげながら紙を見せてきた。 真正面から返され、ルードは一瞬言葉を失った。 「……」 (まぁ、喋れないし、あしらうもクソもねえか……) 「俺を呼ぶとか……」 (いや、だからそれができねぇってことだよな……) エレナシアの横顔が、じっとこちらを見ている気がした。 「……まぁ、離れないようにするしかねえな」 それだけ言って、ルードは視線を外した。 まるで、その言葉の意味に気づかれたくないかのように。 『わかった』 エレナシアはそう紙に書いたあと、小さく頷いた。 その仕草が妙に素直で、ほんの一瞬だけ、何かが引っかかった。 「ったく、無駄に時間食ったな」 短く言い捨て、ルードは歩き出す。 エレナシアは彼の背を見つめたあと、静かに紙をしまい、黙ってその後を追った。 ルードはそのまま商店街を抜けながら、なんとなくエレナシアの足音を聞く。 (……なんか、妙な気分だ) 頭の片隅でぼんやりと思いながらも、すぐにその考えを振り払い、次の目的地へと足を進めた。 ◇ ――朝早くから歩き続け、太陽が頭上に差し掛かる頃。 ルードとエレナシアは、険しい山道を進んでいた。 道は狭く、鬱蒼と茂った木々が視界を遮る。 乾いた風が吹き抜け、遠くで鳥の鳴く声が微かに響く。 頭上の木々が陽射しを遮り、足元にはまだ朝露が残っている。 だが、日が高くなるにつれて、空気は次第に乾き、汗ばむような暑さが体にまとわりついていた。 ——ガサリ。 突如、茂みが揺れた。 静寂を切り裂くように、不穏な気配が漂う。 「下がってろ。」 低く警告する。 だが、次の瞬間。 「——グルルルル……!」 獣の低い唸り声とともに、森の闇から巨大な影が飛び出した。 狼のようなモンスター——通常の倍以上の体躯を持ち、鋭い牙と爪を光らせている。 「……チッ!」 ルードは素早く剣を抜く。 鋼の刃が日差しを反射し、一瞬、鋭い光を放つ。 わずかに動いた黒髪の隙間から、銀のピアスがちらりと覗いた。 重みのある武器を片手で支え、素早く構える。 モンスターは迷いなく襲いかかってきた。 凄まじいスピード。まさに「狩る」ための動き。 「っ!」 ルードは咄嗟に横へ飛びのき、ギリギリで回避する。 だが、モンスターはすぐに軌道を変え、再び鋭い爪を振り下ろしてきた。 ルードは剣を両手で構え、迎え撃つ。 鋭い金属音とともに、爪と剣がぶつかり合い、火花が散った。 衝撃が腕を痺れさせる。 「クソッ……」 モンスターの力は想像以上だった。 ルードは体勢を立て直し、反撃の機会をうかがう。 しかし、モンスターが急旋回し、ルードではなく—— エレナシアに向かって跳びかかった。 「——ッ!」 本能的に駆け出す。 そして、ルードの口から、無意識にその名が漏れた。 「エレナシア!」 ——その瞬間。 ルードの体が、彼女の前に飛び込む。 巨体が襲いかかる寸前、モンスターの鋭い爪を受け止めた。 ズシャッ! 鋭い痛みが腹部を貫いた。 深く抉られた傷口から、一気に血が溢れ出る。 (クソ……) 視界が揺れる。 体が崩れ落ちそうになるが、それでも—— 剣を振り上げた。 最後の力を振り絞り、一撃を叩き込む。 重い剣がモンスターの首筋を捉え、鋭く切り裂いた。 血飛沫が舞う。 ドサッ……! モンスターは低く唸りながら、ついに地面に倒れ込んだ。 ——静寂。 ルードは膝をつき、傷口を押さえながら荒い息を吐く。 (……やばいな……) そんなとき、目の前に静かに膝をつく影があった。 エレナシアだった。 彼女は無言のまま、ルードの傷口に手をかざす。 「おい、何を——」 次の瞬間、微かな光が彼女の掌から溢れた。 「……!」 ルードは息を呑む。 光は温かく、そして——異質だった。 普通の治癒魔法とは決定的に違う、根源的な「何か」。 傷口が瞬く間に塞がり、血の跡すら残らず、まるで初めから傷などなかったかのように消え去る。 ルードは驚愕し、思わず後退した。 「……おい、お前……」 エレナシアは何も言わない。ただ静かに立ち上がり、ルードを見つめていた。 ルードは、自分の腹部に手を当てる。 間違いなく、さっきまで致命傷に近い傷を負っていたはずだった。 「……何だよ、今の……」 その問いに、エレナシアは何も答えず、視線を逸らした。 ルードは彼女を見つめる。 ただの治癒魔法ではありえない。この異常な速さ。完全な修復。 (……何者だ、こいつ。) 戦慄が走った。 エレナシアが見せた「片鱗」。 それは、ルードが今まで見たこともない種類の「力」だった。 ルードが息を整える間もなく、エレナシアは筆談用の紙を取り出した。 ほんの少しだけ筆先が震えているようにも見えた。 『……ごめんなさい』 表情は読めなかった。 目の奥に何かが宿っているようにも見えたが、それが怒りか、悲しみか――判断はつかなかった。 たぶん、彼女自身も、その感情に名前をつけられないでいる。 しばらくの沈黙の後、ルードは静かに剣を納めた。 だが、エレナシアはまだこちらを見ている。 そして、ゆっくりと筆談用の紙を取り出した。 筆が紙を走り、彼女の思いが綴られる。 『名前』 ルードは紙の文字を見て、眉をひそめる。 「は?」 『……呼んでくれたよね、さっき』 「……そうだったか?」 『うん』 「……覚えてねえよ」 エレナシアは少しだけ筆を迷わせたあと、また書き加える。 『少し、嬉しかった』 『もうずっと、呼ばれてなかったから』 ルードは紙を見つめたまま、何も言わなかった。 「……呼ぶだろ、名前くらい」 ルードは紙を見て、ふと眉を寄せる。 その言葉が、なぜか妙に心に引っかかった。 それが何なのかは、うまく言葉にできなかった。 それ以上何も言わず、ルードはそっぽを向いた。 だが、胸の奥に、ほんの少しだけ違う感情が芽生えかけていた。 あのとき、自分の体を“書き換えた”ような、妙な力。 背筋が冷えるような、不気味な感覚。 ――本来なら、距離を取りたくなるはずだった。 (……なのに、なんで……) 名前を呼んだだけで、あんな顔を見せるなんて――。 その素直さに、調子を狂わされたような気がした。 (……やっぱ、変な女だ) 無意識のうちに、そう思っていた。 ◇ モンスターとの戦闘を終えた後も、二人は足を止めなかった。 ルードは自分の傷が完全に消えたことに違和感を抱きながらも、その疑問を頭の片隅に押しやり、エレナシアを連れて森の中を進み続ける。 辺りはすでに夕暮れの色を帯びていた。 木々の間から差し込む光は赤みを増し、長く伸びた影が地面に揺れる。 昼間よりも気温が下がり始め、静かに吹き抜ける風が汗ばんだ肌を冷やしていった。 エレナシアの足取りが、わずかに重い。 無言ではあるが、彼女の歩き方や呼吸の浅さから、明らかに疲労が見て取れた。 そして、森の中の開けた場所にたどり着いたとき—— ルードはようやく足を止めた。 「ここで休むか」 エレナシアは小さく頷き、ルードの示した岩に腰を下ろす。 すると―― 微かに顔をしかめた。 一瞬だったが、ルードはそれを見逃さなかった。 「……怪我したか?」 問いかけるが、エレナシアは目を逸らす。 牙も爪も、彼女には当たっていないはずだった。 だが、森の中を歩いてる最中、何度か足元を取られた。 そのときにでも、枝か岩に引っかけたのかもしれない。 無言のまま、ルードは彼女の近くに寄る。 「見せろ」 そう言って、スカートの裾を軽く引き上げようとした。 途端、エレナシアの手が彼の手を押さえる。 ルードはわずかに眉をひそめた。 (……どんだけ抵抗するんだよ) まるで、「見られたくない」と言わんばかりの仕草。 だが、傷の手当てが先だ。 彼は強引に彼女の手を振り払い、スカートの裾をめくる。 途端、目に飛び込んできたのは、太ももに刻まれた深い傷。 「……これか」 太ももの内側にかけて、鋭い切り傷が走っている。 すでに血は乾きかけていたが、傷口の周囲は赤く腫れ、痛々しさが残っていた。 エレナシアは無言のまま、僅かに顔を伏せる。 ルードは冷静を装いながらも、包帯を取り出し、傷の消毒を始めた。 しかし——その時、初めて気づいた。 彼女の肌は、驚くほど滑らかだった。 傷の周囲に指が触れるたび、柔らかく、温かい感触が伝わってくる。 ——白く透き通るような肌。 陽の光を受けると、ほのかに淡い光沢を帯びる。 普段、服の下に隠されていたせいか、妙に無垢な印象を与える。 (……ダメだ、見るな) それでも、視線は勝手に吸い寄せられていた。 傷のある部分には注意を払っているはずなのに。 どうしても 傷のない部分の肌 の滑らかさが目についてしまう。 包帯を巻きつけながら、ふと指先が彼女の素肌に触れた瞬間—— わずかに温もりが伝わる。 ルードは微かに 心臓が跳ねるのを感じた。 (……チッ、何考えてんだ) わずかに力を込め、包帯をきつく巻く。 すると、エレナシアが僅かに肩を揺らした。 「……悪い」 反射的に口をついて出た言葉に、自分で驚く。 普段なら、こんな謝罪はしないのに。 ルードは そっと視線を上げた。 エレナシアは岩に腰かけていた。 片足を上に、もう片方を崩すように下ろした、あまりにも無防備な姿勢。 スカートの裾が少しだけ乱れて、布の隙間から白い太ももがちらりと覗いた。 (……だから、見るなって) 自分に言い聞かせるように、そっと視線を逸らす。 (隠せよ、頼むから……) 本人はまったく気にしていないらしい。 けれど、こっちはそうもいかない。 エレナシアが筆談用の紙を取り出し、さらさらと筆を走らせた。 そして、こちらに差し出してくる。 『ありがとう』 ルードは少し面食らったように返す。 「……またそれかよ」 だが、エレナシアはどこかきょとんとした表情で、また紙に筆を走らせた。 『……それだけ、助けてもらってるってこと、かも』 見間違いかと思うほどの、かすかな表情の変化。 その“揺れ”が、なぜかルードの胸をざわつかせた。 (……なんなんだよ、その顔は) ルードは視線を逸らし、わざとぶっきらぼうに言った。 「……つーか、さっきの力で治せばいいんじゃねえのか」 エレナシアは紙を動かさず、黙ってうつむいた。 (まずいこと言ったか?) 筆が震えるでもなく、表情も変わらないのに――どこか、空気が変わった気がした。 やがて、静かに一文が綴られる。 『……治癒の力は、自分には使えないの』 「は?」 ルードは紙を見つめ、言葉を失った。 (……こいつ) 無理をしていたのか、それとも最初から言うつもりがなかったのか。 傷を癒やす力があるのに、自分には使えない。そんな理不尽があるのか―― だが、それよりも。 「……だったら、なんですぐ言わねえんだよ」 ほんの一瞬、声が強くなったのを自分でも感じた。 すぐに、ぶっきらぼうな調子に戻す。 「傷がひどくなったら、俺が困るんだよ」 無意識に、言葉が続いていた。 「……次からは、ちゃんと言えよ」 「また足止めくらうのは、ゴメンだからな」 エレナシアは、ぽかんとしたような顔でルードを見つめ、 それから、ゆっくりと頷いた。 自分を癒やした、得体の知れない力。 それを持つくせに、自分がどれだけ異質か気づいていない。 手当した傷に目をやると、その隣に白い肌がのぞいた。 ……こいつは、いろんな意味で厄介だ。 ◇ 夜の冷気が、ゆっくりと肌を撫でる。 森の奥深く、葉擦れの音がささやくように響き、遠くで小さな獣が動く気配がした。 ルードとエレナシアは、粗く積んだ石の上に腰を下ろしていた。 近くでは、小さなランタンの灯りが淡く揺れ、橙色の光がふたりの影をぼんやりと地面に落としている。 エレナシアはランタンの灯をじっと見つめ、筆談用の紙を手元に置いたまま、しばらく手を動かさなかった。 ルードもまた、特に話すつもりはなかったが、こうして長い時間を共にしていると、沈黙を気にしなくなっていた。 風がそっと吹き抜ける。 夜の静けさが、ゆるやかに場を包んでいた。 エレナシアは、その様子をじっと見つめていた。 少し考えるような仕草の後、彼女は筆を走らせる。 『……ルードは、ずっと一人なの?』 「……は?」 唐突な問いに、ルードは眉をひそめる。 『ずっと一人で、賞金稼ぎの仕事をしてるの?』 (急になんだよ……) めんどくせぇ。 心ではそう思いながらも、その問いを無視することはできなかった。 筆で書かれた、真っ直ぐすぎる問いが、妙に目を逸らしづらかった。 「そりゃ、他のやつとつるむことだってある」 一緒に動く相手の顔を、頭の中でいくつか思い浮かべる。 でも、そこに“名前”が浮かぶことはなかった。 「けど、仕事の関係だからな。終わればそれっきりだ」 ただ、それだけの話。 話すほどのことでもない。 そう、自分では思っていた。 エレナシアは、紙の上に視線を落としたまま、少しだけ筆を迷わせた。 そして、静かに書き出す。 『……寂しくないの?』 その文字を見た瞬間、ルードの眉がぴくりと動いた。 (……あ?) (……どういう意味だよ) 考えたこともなかった。 いや、考えないようにしてきた。 けれど、今。 その言葉が、まるで隠していたものをこじ開けるように、 胸の奥に触れてきた。 『誰にも頼らず、誰とも関わらず、一人で生きてきたの?』 「関係ないだろ、お前に」 言い返した声が、少しだけ硬くなった自覚があった。 「そういうお前はどうなんだよ」 まるで言い返すように、そう口にした。 けれど、彼女は怯むでもなく、ただ筆を取り直した。 『私は……』 『……わからない』 その文字を見た瞬間、ルードの喉の奥が詰まるような感覚に襲われた。 しっかり書かれているのに、なぜか震えているように見える筆跡。 感情を隠しているはずの表情。 けれど――そのどれもが、妙に儚く映った。 どこまでが本音で、どこまでが嘘なのか。 彼女自身にも、たぶんわかっていない。 「……お前は」 「一体、何者なんだ?」 それは問いというより、 自分でも気づかないうちにこぼれた、独り言のようなものだった。 エレナシアは筆を取り、ゆっくりと何かを書いた。 『……囚われの身』 ルードは眉をひそめる。 「……どういう意味だ」 エレナシアは視線を落とし、再び筆を走らせる。 『私は、幼い頃から喋ることを禁じられていた』 ルードは無言で続きを待つ。   『声を出すことも、気持ちを伝えることも許されなかった』 ランタンの光が静かに揺れる。 『……だから、誰とも分かり合えなかった』 彼女の筆跡は、ひどく静かだった。 ルードは短く息を吐く。 「……それで?」 エレナシアは、少し迷うように筆を握り直し、続ける。 『でも、あなたも――』 エレナシアの筆が、ふっと止まる。 ルードは、そこで初めて彼女の意図に気づき、低く笑った。 「おい、待てよ」 エレナシアが顔を上げる。 ルードは、鼻で笑いながら肩をすくめた。 「お前と俺を一緒にするなよ」 「俺は、誰とも分かり合えなかったんじゃない」 「……他人と分かり合う必要がなかっただけだ」 その言葉を聞いて、エレナシアは静かに筆を握る。 『……本当に?』 その問いかけに、感情はこもっていない。 けれど、なぜか否定しきれなかった。 ルードは、視線を逸らす。 「……くだらねぇこと聞いてんじゃねえよ」 ルードはランタンの芯に手を伸ばし、静かに灯を調整した。 かすかに炎が揺れて、二人の影が足元に伸びる。 なぜか、胸の奥に少しだけ苛立ちが残る。 この会話に意味なんてない。 でも―― (……なんで、こんなに引っかかるんだ) エレナシアの静かな眼差しが、どこか居心地が悪かった。 ◇ ルードは指先でピアスのチェーンを弄びながら、何とはなしに空を見上げた。 ──静かすぎる。 先ほどまで微かに吹いていた風が、ぴたりと止まっていた。 遠くで何かの羽音が聞こえたかと思えば、それすらもすぐに消える。 湿った土の匂いが、冷たい夜気の中に微かに滲む。 静寂が、まるで夜そのもののように深く沈んでいた。 ルードは違和感を覚えた。 ──風が、止んでいる。 鳥の鳴き声も、虫の羽音もない。 まるで世界が息を潜めたかのような、不気味な静寂。 ルードは無意識に剣の柄を握る。 (……これは、まずいな) ゆっくりと視線を巡らせた、その時だった。 夜闇に溶け込むように、何者かが忍び寄ってくる音がした。 ガサリ── 闇の中に紛れ込んだ、かすかな気配。 気配の数は──少なくとも三人以上。 「ッ……伏せろ!」 ルードはエレナシアの腕を引き、地面へと倒れ込ませる。 次の瞬間、矢がランタンのすぐ脇へと突き立った。 「ははっ、やっぱ避けられたか。……聞いてたとおりだな」 闇の中から、男たちが姿を現す。 黒ずくめの軽装に、獣の皮を巻いた粗野な格好。 だが、その動きには素人ではない洗練された気配がある。 「二人組って聞いてたが……まさか本当に見つかるとはな」 男のひとりが、エレナシアの首元に目を留める。 月明かりを受けて、精巧な銀の首輪がきらりと光った。 「……その首輪、間違いねぇ。こいつが“例の女”か」 「おいおい、お前がルードってやつか?まだガキじゃねえか」 男の一人が嘲るように笑う。 「アンタがしくじったら、俺たちが回収しろって話だったんだがな」   その言葉に、ルードは冷笑を浮かべた。 「名指しで依頼しといて、保険までかけてたってことか?」 「……気に入らねぇな」 依頼主の思惑が、読めない。 最初から信用されてないって話か、それとも…… ルードの視線がわずかに鋭くなる。 「……で?」 皮肉げに唇を歪めながら、ゆっくりと剣の柄に手をかける。 「回収ってのは、どういう意味だ?」 静寂の中、緊張が張り詰めていく。 ルードは剣をゆっくりと抜く。 それを合図に、男たちは一斉に間合いを詰めてきた。 「……悪いが、こいつは渡さねぇ」 言い終わる前に、ルードの剣が閃いた。 一人の男がギリギリで後退するが──遅い。 ルードは追撃を仕掛ける。 だが。 「おっと、動くなよ」 背後から冷たい声がした。 ルードはわずかに剣を止め、振り返る。 ──エレナシアの首にナイフが突きつけられていた。 「っ……!」 いつの間にか、別の男が彼女を捕らえていたのだ。 「ほう、冷静だな」 男はニヤリと笑い、刃をさらに肌に押し当てる。 「いい子だ。その剣を捨ててもらおうか」 ルードは舌打ちしつつも、仕方なく剣を地面に落とした。 カチャリ、と無機質な音が響く。 「さて……お前の役目は、ここまでだ」 男のひとりが、冷えきった声で言った。 「証拠隠滅ってやつだ。悪く思うなよ」 ルードの眉がぴくりと動く。 背後で、もう一人が弓を引いた音がした。 (……クソッ) だが、反応するより早く。 ──空気が、震えた。 「……っ!!?」 ランタンの灯がかすかに揺らめき、辺りの草木が不自然にざわめく。 「……なんだ?」 男たちが訝しげに周囲を見回す。 ルードは瞬時に悟った。 (……これは、まずい) エレナシアの体が、微かに震えている。 彼女の内側から、何かが膨れ上がるような、強大な魔力が渦巻いていた。 「っ、おい……!」 ルードが声をかけるよりも早く。 ――ドンッ!! 凄まじい衝撃が辺りを襲った。 まるで爆発のような衝撃波。 「ぐ、ああっ!?」 賞金稼ぎの男たちが吹き飛ばされる。 そのうちのひとりは、木に叩きつけられて呻き声を上げた。 肩口に裂けた傷が走り、血がにじむ。   近くに置かれていたランタンが横倒しになり、揺れる光が不安定に影を踊らせる。 その中心に立つのは──エレナシアだった。 彼女の足元から、淡い光が波紋のように広がる。 髪が風に舞い、身体を中心に、淡い光が揺らめいている。   だが、目は大きく見開かれ、恐怖と混乱に染まっていた。 自分自身でも制御できていないことが、一目でわかる。 「おい……ッ!」 ルードは、瞬時に彼女へと駆け寄った。 しかし、その瞬間。 (ッ、動けねぇ……!) 空気が軋む。 目に見えぬ圧力が身体にのしかかり、肺を締め付けるような感覚が襲う。 ルードは足元が崩れそうになるのをこらえながら、手を伸ばす。 「……やめろ……エレナシア……ッ!!」 必死にエレナシアの身体を抱き寄せる。 だが、その手の中にあるのは、まるで何かに囚われた人形のような、ただ震える身体だった。 「戻ってこい!!」 その叫びが、彼女の耳に届いた瞬間。 びくり、とエレナシアの体が跳ねた。 光が一気に収束し、暴風が静まる。 ルードの腕の中で、エレナシアの体がぐったりと力を失う。 そのまま、彼女はルードの胸へと倒れ込んだ。 ルードは彼女を支えながら、荒い息を吐く。 「な、なんだこの女……!」 「こんな奴相手にするのは……命がいくつあっても足りねぇ!」 賞金稼ぎたちは、青ざめた顔で武器を放り投げ、逃げるように森の奥へと消えていった。 ルードは、エレナシアの体を抱え込むようにして座り込み、静かに彼女を見つめる。 彼女の顔色は悪く、呼吸は浅い。 震える指が、ルードの服の端をぎゅっと掴んでいた。 しばらくの沈黙の後、ルードはわずかに息を吐き出した。 そして、そっと彼女の頭を押さえ、低く呟く。 「……大丈夫だ」 その言葉に、エレナシアは小さく震えながらも、ルードの服を離さなかった。 夜は静寂に包まれたままだった。