洞窟の奥は、ひんやりとした静寂に包まれていた。 湿った岩肌が冷気を帯び、時折、天井の隙間から水滴が落ちる。 ぽつん、と小さな音が響くたびに、エレナシアはわずかに肩を震わせた。 手首を抱え込むようにして、じっと座り込む。 寒い。 だが、それ以上に、心が冷えていた。 首元に触れるたび、ざらりとした感触が指先に伝わる。 ――首輪。 動くたびに、それが存在を主張する。 まるで「お前は囚われの身だ」と言い聞かせるように。 ――どれくらい経ったのか。 時間の感覚が曖昧になる。 瞳を伏せると、耳に届くのは静かな水音と、自分の心臓の鼓動だけだった。 (……どれくらい、待ってる?) 男は「すぐ戻る」と言って外へ出た。 食料と水を調達すると言っていたが、もうどれくらい経ったのか分からない。 けれど、彼はそう遠くへは行けないはずだった。 魔力の鎖――エレナシアの首と、あの男の手首を繋ぐ、目に見えない鎖。 距離が離れすぎると、互いに締め付けられる。 一定の距離を超えれば、彼は手首を、エレナシアは首を――痛みとともにぐいっと引かれる。 (……だから、大きく動ける範囲は限られてるはず) 彼自身もその影響を受ける以上、無闇に離れることはないだろう。 なら、もう戻ってきていてもいい頃だった。 ──考えても仕方がない。 エレナシアはふっと息を吐き、焚き火へ手をかざす。 暖をとるためではない。ただ、指先の冷たさを誤魔化したかった。 その時。 静寂を破る足音が、洞窟の入口から響いた。 「おい、見ろよ。ひとりで待ってるみたいだぜ?」 先頭の男が、獲物を見つけた獣のように唇を歪める。 エレナシアはゆっくりと顔を上げた。 薄暗い炎が揺れている。けれど、不思議と胸は静かだった。 ただ、静かに彼らを見つめていた。 「なんだ? こいつ……まるで人形みてぇだな」 「おいおい、もしかして声も出せねぇのか?」 「へへっ、それなら話が早ぇ。好き放題できるってわけだ」 男たちの視線が、エレナシアの体をなめるように這う。 にじり寄る足音。 洞窟の冷えた空気とは裏腹に、粘りつくような熱が空間に満ちていく。 「つれねぇな、お嬢ちゃん。ちょっとくらい楽しませてくれよ?」 一人の男が手を伸ばす。 エレナシアの腕を掴み、無遠慮に引き寄せた。 力に抗うこともせず、ただ身体を揺らされる。 男はもう片方の手をスカートの裾へと滑らせた。 指先が布をかすめた瞬間―― ビリ、と嫌な音が響く。 「おっ……これは、いいもん見れそうだな」 男が嗜虐の笑みを浮かべ、破れた布の隙間に手を伸ばしかけた、その時だった。 轟音とともに、何かが洞窟の中へ飛び込んできた。 「……ッ!?」 何が起こったのか、男たちが理解するより早く―― 刃が、沈黙のうちに彼らを裂いた。 鮮血が舞い、男の喉元が裂ける。 声にならない悲鳴を上げ、最初の男が膝をついたその瞬間。 “影”は、すでに次の標的に向かっていた。 踏み込み、肘を一閃。 鈍い音が響き、男の顎が砕けた。 呻き声を上げる暇もなく、追撃の剣が横薙ぎに閃く。 首筋が、深々と裂けた。 最後の一人が、恐怖に顔を引きつらせながら逃げ出そうとする。 だが―― 刃が、その背に突き立った。 「——ッガ……!」 喉の奥で何かを噛み殺すような声。 男が崩れ落ちる、その瞬間。 血飛沫が空気を裂き、赤い雫が宙に舞った。 何かが頬をかすめ、ぬるりとした感触が残った。 静寂が訪れた。 焼けた血の匂いが、洞窟に満ちる。 返り血をまとった影が、剣をひるがえす。 刃から滴る血が、地面に黒い染みを作った。 彼は、倒れた男たちを一瞥もせず、エレナシアへと視線を向ける。 「……無事か」 冷たく、何の感情も滲ませない声。 エレナシアは、震える指先で頬をなぞった。 血の感触。生ぬるい赤。 拭おうともしないまま、目の前の男を見上げる。 その瞳には、何の動揺もなかった。 ただ、「当たり前のことをしただけだ」と言わんばかりの、冷ややかな光が宿っている。 返り血に濡れた服が、肌にじっとりと張りついていた。 それでも、エレナシアは動けずにいた。 男は、その姿を一瞥した。 「……行くぞ」 少しの沈黙のあとで、そう言い残し、彼は踵を返した。 ◇ 襲撃から数日後。 ルードとエレナシアは、山道を進んでいた。 すでに洞窟を出てから二日ほどが経過している。 途中で森を抜け、川沿いを歩き、ようやく人の気配がある方角へと向かっていた。 「……そろそろ、村が見えてくるはずだ」 ルードはぼそりと呟き、前方を見やる。 昼間の太陽はすでに沈みかけ、夜の気配が辺りを覆い始めていた。 エレナシアは、黙ってついてくる。 (……あれだけ血まみれになったんだから、早めにどうにかしねぇとな) 裾のあたりは裂け、乾いた血と土がこびりついている。 途中には水場もなく、乾いた血は黒ずんで固まり、見るからに目立っていた。 このまま村に入れば、嫌でも注目を集めるのは確実だった。 ルードは湖のそばに腰を下ろし、返り血を落とすために無造作に水を掬う。 手の甲にこびりついた血は、ゆっくりと水に溶け、赤黒い筋を作りながら消えていった。 隣では、エレナシアがじっと水面を見つめている。 彼女の顔や服にも、まだ血の跡が残っていた。 ルードはちらりと彼女を見やると、手を止めた。 「……お前も洗え。顔、血だらけだぞ」 エレナシアは小さく瞬きをして、ゆっくりと湖に手を浸した。 指先が水に触れた途端、びくりと肩が揺れる。 ――冷たいのか。 ルードは何気なく思ったが、彼女が無言で顔を拭い始めたので、それ以上何も言わなかった。 湖面に落ちる返り血が、夜の水に溶けていく。 彼女の指先が頬をなぞるたびに、白い肌が一瞬だけ覗く。 濡れた髪が頬に貼り付き、肩を小さく震わせながら血を洗い流していくその姿を、ルードは無意識に目で追っていた。 ――こんな細い体で、よく無反応でいられるもんだな。 普通の女なら、こんな状況に怯えて震えてもおかしくはない。 だがエレナシアは、ただ静かに血を拭い続けるだけだった。 ルードは興味をそそられるような、微妙な違和感を覚えながら、再び自分の手を洗い始める。 やがて、エレナシアの返り血はほとんど流れ落ちた。 しかし、服のあちこちにはまだ赤黒い染みがこびりついたままだ。 ――これじゃあ、村に入る前にまた怪しまれるな。 ルードはそのまま湖の水をすくい、顔を洗う。 冷たい水が肌を撫で、返り血と泥を流していく。 水面に映る自分の顔を見つめながら、ふと口を開いた。 「お前の服、血が落ちきってないぞ」 エレナシアはピクリと肩を揺らした。 彼女自身もそれに気づいているのだろう。 ルードは当たり前のように言い放つ。 「脱いで洗っとけ」 ――その瞬間、エレナシアの動きが止まった。 じわじわと視線が上がり、紫水晶の瞳がルードを見つめる。 まるで、「今、何て言った?」とでも言いたげな表情だった。 「……」 ルードは一瞬だけ、彼女の視線の意味を理解できずに黙り込む。 そして、すぐに自分の言葉の意味に気づいた。 ――あぁ、そういうことか。 彼女は言葉を発せない。 だからこそ、無言の抗議がその瞳に浮かんでいるのだろう。 「別に全部脱げとは言ってねぇ。必要なところだけだ」 そう淡々と告げたものの、エレナシアは小さく首を横に振る。 かすかに頬が赤い――寒さのせいか、それとも。 「……勝手にしろ。ただし、村に入る前に血の跡はどうにかしとけよ」 そう言い残して、ルードはわざと目を逸らした。 湖の水面をぼんやりと見つめながら、気だるげに息を吐く。 横目で気配を追うと、エレナシアがゆっくりと腰を上げ、湖の縁に膝をつくのがわかった。 濡らさないようドレスの裾を少したくし上げ、水をすくって丁寧に布を洗い始める。 ときおり、濡れた布が肌に触れるたび、かすかに衣擦れの音がする。 それが妙に耳についた。 ルードは思わず、耳のピアスを指先でいじる――無意識の癖だ。冷たい金属の感触が、妙に現実的だった。 (……めんどくせぇ) だが、やけに静かなこの夜は、そういう音ばかりを拾ってくる。 やがて、エレナシアの動きが止まる。 洗い終えたのだろう。服は濡れているが、血の跡はだいぶ落ちたようだった。 ルードは立ち上がり、軽く溜息をつく。 「……風邪ひかれても面倒だからな」 そう言って、自分の外套を脱ぐ。 無造作に放ったそれを、エレナシアは少し戸惑いながらも受け取り、そっと肩に掛けた。 その仕草を、ルードは一瞥するだけで見ないふりをする。 そして、夜空に浮かぶ月を仰ぎ、もう一度、深く息を吐いた。 ◇ 夜が明け、二人は再び歩き始めていた。 森の中を進む道。風は冷たく、朝の空気は肌を刺すようにひんやりしている。 ルードは、ふと横を歩くエレナシアを見やった。 (……なんか、様子がおかしくないか?) エレナシアは、いつも通り黙ってついてきている。 だが、どこか動きが鈍い気がした。 肩をすぼめ、時折小さく震えている。 「……寒いのか?」 問いかけても、エレナシアは返事をしない。 だが、一瞬だけ目を伏せた。 (……やっぱり寒いんじゃねぇか) ルードは小さく舌打ちしながら、すでに掛けてやった外套の前を無造作に引き寄せ、彼女の体にしっかり巻き直す。 「歩くぞ」 エレナシアは、ふっと視線を上げる。 けれど、すぐにまた俯き、小さく頷いたように見えた。 エレナシアの肩が、ふるりと小さく震えた。 ルードは何気なく横目で見やる。 頬が赤く染まり、額にじわりと汗を滲ませている。 「……おい」 呼びかけても、返事はない。 普段なら黙ってついてくるエレナシアが、今は足取りが遅い。 ルードは立ち止まり、彼女の腕を掴んだ。 脈を確かめる。 ――明らかに速い。 舌打ちが漏れた。 「……熱があるな」 水に浸かった後、濡れた服のまま夜風に晒されていたせいか。 破れた布地から冷気が入り込み、体温を奪っていたのかもしれない。 あまり強そうには見えないとは思っていたが、これほど脆いとは。 額に触れると、じんわりと熱が伝わってくる。 (くそ……) ルードは、ため息混じりに思考を巡らせた。 このまま無理に歩かせれば、余計に悪化する。 (さっさと目的地に行きたいってのに、面倒な……) だが、頭では「面倒だ」と思っているのに、体は勝手に動いた。 ルードはためらいなくエレナシアを抱き上げる。 驚いたように、彼女の体が小さく震えた。 だが、抵抗する力はない。 ただ、フードの奥の紫水晶の瞳が、ぼんやりとルードを見つめているのが分かった。 「……軽いな」 思わず、口に出た。 華奢な身体。 こんなに細くて、どうやって生きてきたんだか。 (……いや、どうでもいい) ルードは思考を振り払い、歩き出した。 行くべき場所は決まっている。 依頼の引き渡し場所は、王都から街道を数週間かけて進んだ先にある、辺境の大都市。 しかし、そこに辿り着くまでに山岳地帯や小さな村々をいくつも通過しなければならない。 道中で危険な魔物や盗賊が出ることも珍しくない。 だからこそ、依頼主はルードを雇ったのだろう。 だが、今はそんなことを考えている場合ではない。 目的地に向かう前に、まずはエレナシアの体調をどうにかしなければならなかった。 このまま歩かせれば、余計に悪化するだけだ。 (仕方ねぇ……今日は途中の村で一泊する) ルードは村へ向かう道を選び、足を速めた。 ◇ 部屋に入るなり、ルードはエレナシアを寝台に下ろした。 彼女の額に手を当てる。 ──まだ熱い。 フードを外し、銀の髪を乱雑に払いのけた。 汗に濡れた髪が額に張り付いている。 ルードは少し考えた末、ため息をついた。 「……くそ、手間のかかる奴だ」 椅子を引き、懐から買っておいた薬草を取り出す。 先ほど宿の主人に「高熱にはこれが効く」と教えられたものだ。 湯に溶かして飲ませるか、湿布のように額に当てるか、そのどちらでもいいらしい。 ルードは無言のまま、薬草をすり潰し、湯に溶かした。 「……起きてるか?」 エレナシアは薄く目を開けた。 焦点の合わない瞳が、ぼんやりと宙を彷徨う。 「飲めるか?」 器を差し出すが、エレナシアの指は布団を握るだけだった。 「……仕方ねぇな」 ルードは無造作に彼女の上半身を抱え起こし、支えるように器を唇へ寄せた。 エレナシアはわずかに顔を背ける。 「……毒なんざ入ってねぇよ」 苦い冗談を呟くと、エレナシアは観念したように口を開いた。 一口、また一口とゆっくり薬を飲み込む。 飲ませ終えた後も、彼女の瞳は半ば虚ろなままルードを見つめていた。 「……なんだ?」 問いかけても、エレナシアは何も言わない。 ただ、目を伏せると再び布団の中に身を沈めた。 ルードは深く息を吐き、濡らした布を額に乗せる。 「さっさと寝ろ。……明日には動けるようになってもらわないと困る」 投げやりな言葉を残しながらも、ルードはしばらくその場を動かなかった。 エレナシアの浅く緩やかな呼吸を確認すると、ようやく椅子に腰を下ろす。 窓の外を見つめながら、ふと考える。 (……妙な仕事に手を出しちまったかもな) 暗い森の向こうに、夜の静寂が広がっていた。 ◇ 静かな部屋に、薪の燃える微かな音が響く。 ルードは椅子に腰掛け、窓の外へ視線を向けていた。 エレナシアの体調がすぐに戻るかどうかは分からない。 だが、放っておくわけにもいかない。 高熱が続けば、まともに動けなくなるどころか、最悪命に関わる。 (……面倒なことになった) 依頼の途中で足止めを食らうのは本意ではない。 それに、ここで彼女が倒れたままでは話にならない。 動けるようになるまでは、とりあえず世話をするしかない。 「……」 視線を寝台へと向ける。 エレナシアは布団の中で小さく身じろぎし、浅い息を繰り返していた。 上気した頬に、先ほど濡らした布を乗せたまま、微かに眉を寄せる。 (……もう冷めてるな) ルードはため息混じりに立ち上がり、器を手に取った。 冷たい水に布を浸し、もう一度固く絞って額に乗せる。 その瞬間、エレナシアの身体が僅かに震えた。 冷たさに反応したのかもしれない。 特に気にすることもなく、ルードは布を額に固定し、元の椅子に座り直した。 しばらくの間、部屋には静寂が流れる。 窓の外は暗く、村の家々の灯りもまばらだ。 ルードは腕を組み、改めて思考を巡らせた。 (……手間のかかる仕事になったもんだ) 依頼としては、ターゲットを目的地まで運ぶだけのはずだった。 だが、実際はこうして病人の世話までしている。 賞金稼ぎとしての仕事に、こんな余計な手間は想定していなかった。 (まあ、ここでくたばられても困るしな) 彼女が動けなくなるのは、ルードにとっても不都合だ。 そう割り切ることで、ルードは自分の中に湧き上がるわずかな違和感を押し殺した。 「……」 再びエレナシアの方を見る。 寝苦しそうに、かすかに布団を握りしめるその姿。 何かを求めるような無意識の動きにも見えたが―― (……ただの熱のせいだ) ルードは余計な考えを振り払うように、窓の外へ視線を戻した。 夜は長い。 とりあえず、朝までは様子を見るしかない。 ◇ 翌朝── (……ん) 意識が、ゆっくりと浮上してくる。 重たいまぶたの向こう、微かに光を感じた。 (寝……てたのか) 浅くうなだれた首に、鈍い痛みが走る。 ルードは小さく舌打ちしながら、慌てて顔を上げた。 まず確認するのは、ベッドの上。 布団の下にあるはずの、彼女の存在。 (……逃げてない、か) 胸の奥で強張っていた何かが、少しほどけた。 息をつく──そのとき、袖口に微かな違和感。 (……?) 視線を落とす。 ベッドの上から伸びた細い指先が、彼の袖をそっとつまんでいた。 驚いて顔を上げると、エレナシアの瞳が静かにこちらを見ていた。 「……起きてたのか」 返事はない。けれど、その瞳はまるで最初から全部見ていたとでも言いたげだった。 寝起きの声は少し掠れていたが、すぐに意識をはっきりさせる。 「……熱は?」 エレナシアは首を軽く振る。 もう平気だ、と無言で伝えるように。 ルードはしばらく彼女の顔を見つめた後、ふっと視線を逸らして頭をかく。 「……なら、問題ない」 そう言いながら、大きく伸びをする。 身体がこわばっていたのか、肩を回しながら軽く溜息をついた。 「……逃げなかったんだな」 独り言のように低く呟く。 昨夜、疲れ果てて眠りに落ちてしまった自分。 エレナシアが本気で逃げようと思えば、鍵を奪って首輪を外すこともできただろう。 だが、彼女はここにいる。 「……変な女だな」 ぼそっと呟くが、エレナシアは何も言わない。 ただ、じっとルードを見つめている。 (……こいつ、何考えてんだか) いつも通りの無表情。 けれど、昨夜の熱に浮かされた姿を思い出すと、ほんの少しだけ、その無言が違う意味を持っているように感じた。 「さっさと支度しろ」 そう言いながら、ルードは立ち上がる。 それが、自分に余計な考えを抱かせないための行動だと、自分でも分かっていた。 「お前のその服じゃ旅向きじゃねぇし、新しく買ってやる」 エレナシアは一瞬驚いたようにルードを見た。 だが、すぐに何も言わず頷く。 (……少し、違うな) 昨夜までのエレナシアとは、どこか。 そう思ったが、ルードは深く考えるのをやめた。 目的地はまだ遠い。 この旅は、まだ始まったばかりなのだから。