第1話 夜に沈む賞金と、声を失くした王女

夜の町外れ、誰もいない丘の上。 冷たい風が頬をなでていく。 少し離れた場所に、エレナシアが立っていた。 銀の髪が揺れ、淡い月光を反射している。 何度も旅を重ね、危険を潜り抜けた。 それでも――この一言を告げる方が、よほど怖いと思った。 「……お前と旅を続けて、随分経ったな」 声をかけると、エレナシアは静かに振り向いた。 手にはいつもの筆と紙。けれど今は、何も書かずにただこちらを見つめている。 「最初は……ただの仕事だった。けど、今は違う」 息を呑む音が、自分の中だけで響いた。 喉が乾いて、言葉が詰まりそうになる。 「俺は、依頼を放棄した」 エレナシアのまつげが揺れ、わずかに目が開く。 だが何も言わない。 「お前を引き渡す気は、もうない」 その瞬間、彼女の指が筆を動かすが、途中で止まり、そっと胸元を押さえた。 「……お前は、俺にとって特別だ」 こんな想いを抱くこと自体、赦されないことはわかっていた。 けれど、気付いてしまった。 気付いてしまったら、もう止められなかった。 ルードは、拳を握る。 「――俺は、お前が好きだ」 この言葉がどれだけ自分を苦しめることになるか。 その予感は、とうにあった。 きっとこの先、何度も後悔する。 けれど、それでいい。 その苦しみこそが、自分に許された、たったひとつの救いなのだから。 ◇ この国では、魔法は火を灯すための道具で、 貴族は、“力を持たぬ者たち”を囲い込み、静かに支配し、 王は、すべてを知った上で、沈黙していた。 薄暗い酒場の一隅。 揺れる灯りの下で、ルードは無言のままグラスを傾けた。 琥珀色の液体がゆらぎ、灯を映す。 その色は、彼の瞳とよく似ていた。 年齢にしては、少し早すぎる酒。 最初は、ただ“大人の仲間入り”がしたかっただけだった。 いつの間にか、それは寒さを誤魔化す癖になり、 荒んだ街で舐められないための道具になり、 今では、考え事をするときの“習慣”になっていた。 左耳の軟骨に引っかけた太めのリングが、かすかに揺れる。 小さな刃のついたチェーンが、音もなくきらめいた。 琥珀の瞳は冷たく細まり、まるで獲物を狙う獣のようだった。 誰もルードの方を見ようとはしない。 彼の周囲だけが、妙に張り詰めた空気を漂わせている。 この街に長居するつもりはなかった。 だが、なぜか胸の奥に引っかかる感覚があった。 予感ってやつは信じちゃいないが、無視もできなかった。 それでも足は自然と、この酒場へ向かっていた。 「……おい」 低く響いた声に、ルードはグラスを傾けたまま、ちらりとカウンターを見た。 無愛想な顔をした、髭の男が腕を組んで立っている。 この酒場のマスターだ。 昔、少しだけ世話になったことがある。 それでも互いに干渉するような関係ではなかった。 そんな距離感のまま、何度か顔を合わせてきた。 「いつからだ、ガキが酒を覚えたのは」 「……いつまでもガキ扱いすんなよ」 その言葉を聞いて、マスターが鼻を鳴らす。 その仕草に、特別な感情は見えない。 誰に対してもそうするように、軽くあしらっただけの調子だった。 しばらくして、ふと思い出したように言う。 「そういや、お前に名指しの依頼が来てんだ」 その声には、さっきよりわずかに弾んだ響きがあった。 ルードはグラスを置き、眉をひそめる。 「……名指し?」 「“お前にしかできねぇ”ってさ。ま、出世したじゃねぇか」 マスターは笑みを浮かべ、封筒を無造作に放った。 ルードはそれを拾い、ざっと目を通す。 依頼主の名はなく、報酬だけが妙に高い。 「……俺がここに来ることを、知っていたのか?」 思わず口をついた言葉に、マスターがわずかに眉をひそめる。 「さあな。使いの女が来て、封筒を置いてった。それだけだ」 ルードは短く息を吐き、封筒を指先でひっくり返す。 胸の奥に、鈍いざらつきが残ったままだ。 「受けるのか?」 ルードはしばらく無言のまま封筒を見つめた。 「……話を聞いてからだ」 「だろうな」 マスターはグラスを拭きながら笑い、その声に少しだけ硬さが混じる。 「……まあ、言っとくが。名指しで来る依頼ってのは、えてしてロクでもねぇ」 ルードは何も返さず、封筒を懐にしまう。 席を立つと、マスターが背中に向かって軽く言った。 「気をつけろよ。せっかく“いい仕事人”になったんだ。変なとこで名を落とすな」 ルードは短く頷き、静かに酒場を後にした。 外に出ると、夜風が頬をかすめる。 灯りの揺らめきが遠ざかるにつれ、胸の奥のざらつきだけが、 妙に長く、尾を引いていた。 ◇ 酒場を出たルードは、指定された路地へと向かった。 夜の裏通りはひどく静かで、風が吹くたび、霧が足元を這うように流れていく。 粗雑に積まれた木箱と、打ち捨てられた瓶。 昼間なら人が行き交う一角も、今は人気がなく、ひんやりとした空気だけが残っていた。 建物の隙間に生まれた影の奥――そこが、“依頼人”との接触場所だった。 ルードは壁にもたれ、腕を組んで気配を探る。 軟骨に差したピアスに指先が触れる。 ひやりとした金属の感触に、昔の痛みがほんの一瞬よみがえった。 やがて、もうひとつの気配が現れる。 黒いフードを深く被り、音を殺すように歩いてくる影。 だが、ルードの耳には靴底が小石を踏む音すらはっきり届いていた。 「ルード。君にしか頼めない仕事がある」 低く、よく通る声だった。 落ち着きすぎていて、どこか不気味に感じられた。 「……仕事の内容は?」 「ある少女を――指定の場所まで連れてきてほしい」 一瞬、空気が止まった。 言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。 「……誘拐か」 「呼び方は任せる」 その声には、感情の起伏というものがまるで感じられなかった。 ただ、事実を淡々と並べているだけのように聞こえた。 ルードはほんの一瞬、言葉を探すように沈黙し―― 「……なんのために?」 自分でも、なぜそんなことを聞いたのかわからなかった。 ただ、妙な寒気がした。 それを確かめるように、低く問いを投げた。 男は少しの間を置いて、淡々と答える。 「理由を知る必要はない。ただ、確実に“引き渡す”こと。それだけでいい」 「……そりゃ随分と一方的だな」 男はその言葉にわずかに口角を動かし、懐から小さな袋を取り出した。 「君はそれで構わないだろう?」 中で金貨が触れ合い、澄んだ音を立てる。 「……ま、そうだな」 続けて、もうひとつ、小ぶりな木箱を取り出す。 金属の留め具が月光を受けて、かすかに光った。 「これも渡しておく。標的を――“目立たずに運ぶ”ためのものだ」 ルードは答えず、箱の重みを確かめてから懐にしまう。 無言のまま数歩進み――ふと足を止めた。   「……一つ、聞いていいか」   返事はない。肩越しにぼそりと続ける。  「なんで俺なんだ」   わずかに空気が動いた気がして、ルードは肩越しに耳を澄ませた。 「――君は、“情”で動かないからだ」 その言葉に、ルードの眉がぴくりと跳ねる。 だが何も言わず、背を向ける。 無言の視線を背に感じながら、霧の中へと歩を進めた。 ◇ ルードの過去は、語るほどのものじゃなかった。 何を失ったのかも、もう思い出せない。 いや――思い出す意味がない、と言い聞かせているだけかもしれない。 気づけば一人だった。 寒さと飢えに耐えながら、生き延びる術だけを探していた。 剣の振り方だけは、誰かに叩き込まれた。 それが誰だったかなんて、もう忘れた。 いや、忘れずにいるには、あまりにも痛かった。 ……けれど、今さら思い返すような話じゃない。 情は切り捨て、孤独を当たり前にして、ただ依頼をこなす。 それがルードの生き方だった。 感情は足かせだと、ずっと思っていた。 だからこそ、ただ淡々と依頼をこなすだけの日々。 ……そのはずだった。 この時の依頼が、誰かとの関わりを通して自分でも気づかないうちに、 心の奥を揺らがせていくことになるとは。 彼はまだ、それを知らなかった。 ルードは、封蝋を指先で軽く弾き、封を切った。 黒い蝋に刻まれた紋章は、細工が細かく、上等な印章の証だった。 見覚えはないが、少なくとも貴族筋のものなのは間違いない。 「……随分と格式ばってるな」 この金額の依頼なら納得だが、それにしても丁寧すぎる。 封筒も紙も、あまりに上等だ。 雑な裏仕事で、こんな手回しをする依頼人はまずいない。 (……少し慎重すぎやしないか?) ルードは、封筒から手紙を引き抜く。 中には、簡潔にして直截な指示が記されていた。 「……王女を攫え、ね」 紙には、標的の名前と簡単な特徴も添えられていた。 名は――エレナシア。 銀髪に紫紺の瞳、華奢な体格。 喋れないらしいが、原因までは記されていない。 (……喋れないってのはどういうことだ?) 人形でもあるまいし。 ……まあ、お姫様らしいっちゃらしい。 だが、別にどうでもいい。 実際に会ってみれば、ただの箱入り娘にすぎないだろう。 それより―― 問題は、この依頼そのものの“異質さ”だった。 これが本当なら、とんでもない話だ。 王族絡みとなると、下手をすれば指名手配どころでは済まない。 だが、ルードはすぐに思考を切り替える。 (こういうやり口には、覚えがある) こんなふうに“表沙汰”になりたくない連中がよく使う手だ。 証拠を残さず、口外も許されない。 裏向きに、静かに終わらせる――そんな依頼だ。 そういう依頼は、たいてい成功すればすべてが闇に消える。 そして失敗すれば、最初から“いなかったこと”にされる。 「……割に合うかどうかは、やってみりゃわかる」 ルードは紙を折りたたみ、懐にしまう。 椅子を押しのけ、無言で立ち上がった。 夜の静けさが、やけに遠く感じた。 ◇ 夜の闇が、静かに城を包んでいた。 ルードは街路の影に立ち、ひとつ息を吐く。 依頼を受けて数日。 すぐに動ける案件ではなかった。 王城への潜入は、準備を怠れば即座に命を落とす類の仕事だ。 今夜はそのわずかな隙―― 地下水路の点検にあわせ、裏門が一時的に開放される時間。 警備の目が散るこの数分が、侵入のために選ばれたタイミングだった。 (……問題は、情報がどこまで正しいかだな) 依頼人の言葉を鵜呑みにする気はない。 だが、今のところ状況は想定通り。 ルードは視線で壁の継ぎ目を探る。 薄く刻まれた石の隙間に指を掛け、無音でよじ登った。 「……よし」 低く短く呟くと、影の中に身を滑り込ませる。 壁の角度、風の流れ、衛兵の視線―― すべてを計算し、音を殺す。 力ではなく、経験と技術がものを言う場面だ。 王宮の中庭。 月明かりが芝生を薄く照らし、静けさが空気に染み込んでいる。 ルードは壁沿いの陰を選び、警備の間隙を縫うように進んだ。 (……静かすぎる) 通常より警備が薄い。 わざとか、それとも偶然か。 足を止め、数秒だけ耳を澄ます。 次の瞬間、風向きがわずかに変わった。 足音――背後。 ルードは即座に柱の陰へ飛び込む。 衣擦れの音さえ残さず、呼吸を落とす。 「……ん?」 衛兵が一人、足を止めて周囲を見回した。 こちらを向く気配に、指先で床の小石を弾いた。 反対側の壁で音が響く。 「……?」 「おい、何か聞こえたか?」 「ネズミだろ」 「……だといいが」 数秒の沈黙の後、足音は遠ざかっていく。 じっと気配を読み取りながら、完全に離れたのを確認して次の影へ移動した。 王宮の廊下。 冷たい石造りの床に、わずかに足音が反響する。 壁に背を沿わせながら、警備の目を避けて進んでいく。 やがて、目の前に一際大きな扉が現れた。 (ここか……) 依頼人の話によれば、標的はこの部屋にいる。 ルードは耳を澄ませる。 物音は一切ない。 (……妙だな) 気配も、音も、まるで何もない。 (本当に、ここにいるのか?) (もうとっくに移されたか。もしくは――) 呼吸ひとつにも、無駄な音を立てないよう意識する。 (……仮に罠でも、まだ切り抜けられる) ルードは扉に手をかけた。 ——静寂。 軋む音が、静かな部屋の空気に染み込んだ。 そこは奇妙に“がらんどう”な部屋だった。 王族の住まいとは思えないほど、飾り気がない。 色の褪せた絨毯、くすんだカーテン、壁の燭台だけがわずかな灯を落としている。 まるで「誰かを閉じ込めておくための場所」――そんな印象だった。 そして、部屋の中央。 月光の下、少女が立っていた。 銀の髪が静かに揺れ、細い影が足元に落ちている。 背筋を伸ばし、微動だにせず佇むその姿は、まるで彫像のようだった。 ルードは、その異質な静けさに足を止めた。 「……お前が、エレナシアか」 声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げる。 アメジストのような瞳が、こちらをまっすぐ射抜いた。 怯えてもいない。 かといって、挑むような敵意もない。 ただ、確かに“見ていた”。 ルードは眉をひそめる。 依頼人によれば、ターゲットは”喋れない”って話だった。 もしそれが嘘だとしたら? ここで叫ばれたら、それこそ終わりだ。 だが、彼女は一歩も動かず、声を上げる気配もない。 (……驚きもしないとはな) ルードの中に、静かに違和感が芽生える。 状況は理解しているはずだ。 それなのに、一歩も動かず、何も言おうとしない。 「……お前をここから連れ出す。それが俺の仕事だ」 言ってから、ルードは少しだけ自分の声に違和感を覚えた。 言葉が空気に吸われていくような沈黙。 エレナシアは、ただじっとルードを見つめていた。 そして、ほんの一瞬だけ――目を伏せる。 だがすぐに、また視線を戻す。 その瞳は、まるで何かを“問う”ようだった。 (……拒んでるわけじゃない。けど、従う気でもねぇ) ルードは小さく舌打ちする。 「従う気がねぇなら、それなりのやり方もある」 「……どういうことか、わかるな?」 間。 だが、エレナシアは動かない。 何かを恐れるわけでも、拒絶するでもなく。 ただ静かに、こちらを見ていた。 ルードは、わずかに眉をひそめる。 (こいつ……ただ黙ってるってわけじゃない) ルードを見つめるその瞳には、明確な”意思”のようなものが宿っていた。 ただ捕まえて連れていくだけ。 それだけの仕事だったはずなのに、妙にすんなり割り切れない。 この沈黙の奥にある“何か”が、ルードの本能に引っかかっていた。 それでも、考えるのは後だ。 彼はすぐに思考を切り替え、エレナシアのもとへと静かに歩を進めた。 ルードが扉を開いてから、ほんの数十秒の沈黙。 その静寂を破るように、廊下から複数の足音が迫ってきた。 ——警備が来る。 ルードは即座に警戒を強め、素早く背後を確認した。 部屋の入り口に、数名の武装した兵士たちが殺気を纏って立っていた。 「侵入者か——」 一人が声を上げかけた、その瞬間。 迷いなくエレナシアの腕を掴み、ナイフを当てた。 「動くな」 低く鋭い声が部屋に響く。 警備兵たちの動きが、ピタリと止まった。 エレナシアは瞬きはしたが、それ以上の反応はない。 ——怯えても、抵抗してもこない。 (……こいつ、状況わかってんのか?) わずかに疑問がよぎるが、それを考えるのは今ではない。 警備兵のひとりが、剣を構えたまま言葉を吐く。 「王女を盾にする気か」 「盾じゃねぇ」 ルードは冷静に応じた。 「それ以上近づくな。王女が傷物になってもいいのか?」 警備兵たちが一瞬視線を交わし、ためらいを見せる。 その隙を、ルードは見逃さなかった。 一瞬の静寂——そして、次の瞬間。 「——武器を捨てろ」 ルードの声が、氷のように冷たく響く。 ためらう警備兵たちを見据えながら、さらにナイフの刃を押し当てる。 その緊迫した空気に、兵士のひとりが舌打ちしながら剣を床に落とした。 「……くそっ」 続くように、他の兵士も武器を下ろしていく。 ルードはその様子を確認すると、迷わずエレナシアを担ぎ上げ、窓際へと向かった。 軽い。まるで羽のようだ。 (……今はそれどころじゃねぇ) 窓枠に片足をかけ、一瞬だけ視線を巡らせる。 暗闇が広がる夜の景色——そして、眼下には深い水面が待っていた。 「……っ」 エレナシアが微かに動き、ルードを見上げる。 その表情には、恐怖はない。 ただ、何か言いたげに口を開きかけ—— 「悪いな、お姫様」 言葉と同時に、ルードは夜の闇へと飛び込んだ。 冷たい水が、ルードの全身を包み込む。 (……クソ、冷てぇ) 肺が悲鳴を上げるが、そんなことは気にしていられない。 ルードはしっかりとエレナシアの体を抱えたまま、闇の中を沈んでいく。 一瞬、エレナシアの顔を確認する。 目を閉じたまま、驚いた様子もなく――ただ、静かに呼吸している。 (……妙に落ち着いてるな) だが、それを考えるのは後回しだ。 ルードは水面を蹴り、力強く浮上する。 冷たい風が吹き抜け、夜の静寂が再び広がった。 「……っ、ハァ」 一息に空気を吸い込み、息を整える暇もなく岸へと泳ぎ出す。 (……今のうちに、できるだけ遠くに移動した方がいいな) この闇の中なら、追手を撒くのはそう難しくない。 ルードは静かに、だが確実にエレナシアを連れ去っていった。 ――冷たい夜の波が、岸辺に静かに打ち寄せる。 息を切らしながら、ルードはようやくエレナシアを抱えたまま浅瀬へと足を踏み入れる。 砂利が混じる地面に膝をつき、ずしりとした疲労を感じながら腕の中の少女を見下ろした。 「……おい、生きてるか?」 返事はない。 エレナシアは目を閉じたまま、頬にわずかに水滴を残し、息一つしない。 ルードは舌打ちし、素早く彼女の脈を探る。 ――脈が、弱い。 呼吸も、ほとんど感じられない。 (……マジかよ) ルードはためらうことなく、エレナシアの肩を平らな場所に下ろし、手早く意識を確認した。 顔を覗き込みながら、小さく息を吐く。 「……めんどくせぇ」 そう呟きながらも、指で彼女の顎を支え、迷いなく口を開かせる。 知識としては理解している。手順も頭に入っている。 だが、実際にやるのは――たぶん、初めてだ。 彼はエレナシアの唇にためらいなく口を重ね、息を吹き込んだ。 一度。 もう一度。 その合間に、彼女の胸元に手を当て、的確なリズムで圧迫を繰り返す。 寒さのせいか、それとも単に彼女の体が小さいせいか――息を吹き込むたび、ほんのわずかに冷えた感触が伝わる。 「……っ!」 次の瞬間、エレナシアの指がかすかに動いた。 そして―― 「……っ、けほっ……!!」 エレナシアは突然むせ込み、勢いよく水を吐き出す。 ルードはすぐに手を離し、彼女の背を支えた。 「ほら、起きろ」 エレナシアは荒く咳き込みながら、ゆっくりと目を開ける。 その紫水晶のような瞳が、ぼんやりとルードを映した。 ルードは彼女の無事を確認すると、すぐに立ち上がり、疲れたように額をこすった。 「……生きてんなら歩け。ここに長居はできねぇ」 吐き捨てるように言い、濡れた前髪を払いながら周囲を見渡す。 城からはだいぶ離れたようだが、追手が来ない保証はない。 (とりあえず、身を隠せる場所を探すか) 歩くこと数分、崖のくぼみに洞窟のような空間を見つけた。 「今日はここで野宿だな」 ルードは焚き火を起こし、湿った服を脱いで乾かす準備をする。 自分の服をまず適当に絞り、焚き火のそばに投げたあと、エレナシアをちらりと見やった。 「……お前も脱いどけ。風邪ひくぞ」 エレナシアは黙ったまま、ルードを見つめている。 「……別に全部脱げって言ってるわけじゃねえだろ」 それでも彼女は目を伏せたまま動かない。 ルードは舌打ちし、「もう知らねぇ」とばかりに手を引っ込めた。 「風邪ひいても、看病する気はないからな」 焚き火に枯れ枝をくべながら、ルードはため息をつく。 (食いもん、どうするか……) 持ってきたはずの荷物はほとんど捨ててきた。食糧はゼロ。 仕方なく、洞窟の入り口近くで目についた草を数本抜き取る。 (……まぁ、腹の足しにはなるか) 火にかざして炙り、軽く焦げ目をつけた。 焚き火の赤い炎がゆらめき、苦味を含んだ匂いが漂う。 ルードは一本つまみ上げ、雑に齧った。 「……苦いな」 だが、空腹には勝てない。 もう一本取って、そのままエレナシアの前に差し出す。 「ほら、お前も食え」 エレナシアはじっとそれを見つめたまま動かない。 「……食わないのか?」 そう尋ねると、無言で首を横に振った。 「食わないと、この先持たねえぞ」 彼女は視線を落としたまま、ゆっくりと顔を背ける。 ルードは肩をすくめ、苦い草を無理やり胃に押し込んだ。 エレナシアは、焚き火の光の中で膝を抱えたまま、静かにルードを見つめていた。 ◇ 焚き火の前に座り、ルードは手元の野草を無造作に火にかけていた。 炎がぱちぱちと音を立て、焦げた匂いが鼻をつく。 煙がゆらゆらと立ちのぼる向こう側。 エレナシアは無言のまま、じっとルードの手元を見つめていた。 その瞳には、どこか問いかけるような色がある。 ルードはふと、顔を上げた。 「……なんで、って顔だな」 言いながら、目を細める。 そして、あっけらかんと口にした。 「お前には、賞金がかかってる」 エレナシアの瞳がかすかに揺れる。 「依頼主は俺も知らねぇ。ただ、金になる仕事だった。それだけだ」 彼女は目を伏せる。 長い銀髪がさらりと揺れ、焚き火の光を受けて淡くきらめいた。 ルードは一瞬だけ彼女に視線を向けたが、すぐに手元の野草へと戻す。 炙ったそれを、炎の中へ放り込んだ。 「……自分で、心当たりあるんじゃねぇのか?」 少しの間が空く。 「まぁ……どう思ってようと、俺には関係ねぇけどな」 吐き捨てるように言って、焼きあがった野草を取り出す。 エレナシアの様子をちらと見ると、彼女は唇を噛んでいた。 その仕草に、ルードはわずかに眉をひそめる。 「……食え」 無造作に、手にしていた野草を彼女に差し出した。 手渡された焦げた草を、エレナシアは黙って受け取る。 そしてゆっくりと口に運び、噛んだ。 苦味にわずかに眉を寄せたが、それでも一口、また一口と咀嚼する。 ルードはそんな彼女を特に気にする様子もなく、懐から小さな箱を取り出した。 箱の蓋を開くと、中には銀細工のように精巧な首輪と腕輪が収められていた。 ルードはそれを手に取り、しばらくじっと眺める。 (……悪趣味なもんだな) 依頼主が用意したものとはいえ、王族にこんなものをつけさせるとは、どんな意図があるのか。 ルードはため息をつき、感情を押し殺したように言った。 「……じっとしてろ」 焚き火の光が金属に反射する。 エレナシアは一瞬だけ眉を寄せたが、それでも抵抗することなく、静かにルードを見つめたまま動かない。 ルードは首輪を手に取り、その冷たい金属を彼女の細い首へとあてがう。 小さな音を立てて、留め具が締まった。 エレナシアの肩が、ほんのわずかに震えた。 しかし、彼女は何も言わない。ただ、紫水晶の瞳を伏せるだけだった。 次に、ルードはもう一方の腕輪を自分の手首にはめた。 装着した瞬間―― 腕輪と首輪の間の空気がわずかに揺らぐ。 ルードは腕輪を軽く叩きながら、面倒そうに呟く。 「……試しに動いてみろ」 エレナシアはわずかに迷ったように見えたが、言われた通りゆっくりと歩を進める。 焚き火の灯を背に、音もなく距離を取っていくその背中を、ルードは黙って見送った。 首輪は何の反応も見せない。 光るでも、唸るでもなく、ただ空気が揺れたまま沈黙している。 (……壊れてんじゃねえだろうな?) 数歩、さらに数十歩。 やがて、彼女の首輪が見えない力に引かれたようにぴくりと揺れる。 足が止まり、エレナシアは静かに首元へ視線を落とした。 (思ったより長距離だな……) エレナシアはそのまま踵を返し、また静かに歩いて戻ってくる。 焚き火の灯が彼女の姿を再び照らしはじめたころ、ルードはふっと目を細めた。 「逃げようなんて、考えるなよ」 その言葉に、エレナシアは小さく肩をすくめた。 逃げるつもりはなかったのか、それとも諦めているのか。 ルードは箱を無造作に放り投げ、焚き火に視線を戻す。 エレナシアは静かに首輪を指先でなぞった。 その動きには、外そうとする意図はなかった。 ただ、その仕草が、ほんのわずかに物悲しく見える。 焚き火の光の中で、エレナシアは静かに座っていた。 首輪と腕輪で繋がれたまま。 動ける範囲は限られているものの、彼女は何も言わず、ただ夜の静寂の中で、そっと目を閉じる。 ルードが洞窟を出て行ってからも――彼女は、じっと動かなかった。 ◇ 焚き火の炎が、小さく揺れていた。 あの男が洞窟を出て、すでにしばらく経つ。 エレナシアはじっと座ったまま、炎を見つめていた。 静寂。 この静けさには、どこか馴染みがあった。 部屋に閉じ込められ、誰とも言葉を交わすことなく過ごした日々。 目の前の炎を見つめながら、エレナシアは指先で首輪をそっとなぞる。 冷たい金属が、皮膚に馴染まない。 (……今までと、同じ?) 自分の意思とは関係なく、決められた枠の中で生きること。 閉ざされた世界の中で、ただ流れる時間に身を委ねること。 それは、かつての自分と何が違うのだろう。 (……ちがう) エレナシアは、かすかに首を振った。 確かに、ここでも自由はない。 首輪が示す通り、彼から一定の距離以上は離れられない。 だが―― (……私は、あの城に戻るつもりはない) その意思だけは、明確だった。 どれだけ縛られようと、どこまで行ける範囲が狭かろうと、 あの場所へ帰るよりは、ずっといい。 エレナシアはそっと、焚き火に手をかざす。 燃え盛る炎の熱が、冷えた指先をじんわりと温める。 さっきの言葉を思い出す。 『逃げようなんて、考えるなよ』 逃げるつもりなどないのに。 彼は、本当に何も知らないのだ。 エレナシアはゆっくりと膝を抱えた。 火の揺らめきをじっと見つめながら、静かに、静かに、息を吐く。 焚き火がぱちりとはぜる音だけが、夜の静寂に響いた。