第30話 狗急にして牆を跳ぶ
ミリィは「じゃあアタシは寝るから」とだけ言って、さっさと布団に潜り込んだ。
ほどなくして、遠慮のない寝息が聞こえはじめる。
ルードは床に座ったまま、剣を抱え直した。
横になる気にはなれなかった。
ふと、ベッドのほうを見る。
ミリィがいる。
それだけだった。
エレナシアはいない。
静かなはずの部屋が、妙に落ち着かない。
紙をめくる音も、筆の擦れる音もない。
ルードは剣の鞘に指をかけたまま、じっと動かなかった。
前はどうやって夜を潰していた。
飯を食って、適当に壁にもたれて、朝になっていたはずだ。
それだけのことが、ひどく遠い。
目を閉じても眠気は来ない。
ただ、時間だけがじりじりと過ぎていった。
◇
首筋と額の痛みで目が覚めた。
寝るつもりなんてなかった。
それなのに、気づけば意識を失っていたらしい。
重い頭を上げる。
昨夜まであれだけ遠慮なく寝息を立てていたミリィの姿は、もうベッドになかった。
代わりに、机の上に小さな紙切れがある。
『いい子で“待て”してなきゃダメだからね♡』
「……うぜえ」
吐き捨ててから、ルードは浅く息をついた。
別に、ミリィに言われたから待つわけじゃない。
外へ出たところで、どこをどう探せばいいのか見当もつかなかった。
森へ戻るのか、街を探るのか。
そもそも、エレナシアが自分から向かいそうな場所がひとつも浮かばない。
ずっと一緒にいたはずなのに。
宿を決めるのも、道を選ぶのも、立ち止まる場所を決めるのも、いつも自分だった。
今すぐ飛び出したい衝動と、飛び出したところでどうにもならない現実が、足を鈍く縫い止めていた。
(……あいつが、俺から離れたくて離れたんだとしたら)
好きだから大事にしたいんだと、ちゃんと言えればよかった。
あんな風に追い詰めるんじゃなくて。
(そりゃ、嫌にもなるだろ)
けれど、そうだとしても。
あいつに、行く当てなんてあるのか。
結局、俺がいなかったら――
そこまで考えた瞬間、ルードは舌打ちして壁に拳を叩きつけた。
鈍い音が、狭い部屋に響く。
「……っ、クソが」
俺がいなくて、どこかで途方に暮れてれば良いのに。
それで、戻ってきて、俺に縋れば良いのに。
そんなことを考えた自分に、吐き気がした。
荒い息を吐いたとき、不意に別の顔が浮かぶ。
手入れの行き届いた金色の髪。
優しげな碧い目。
あの場に似つかわしくないほど洗練された王族らしい佇まい。
(あいつが関係してんのか……?)
「僕がここに来た理由は――君を自由にするため」
あの言葉の意味を、まだ飲み込めていない。
それに、あの男の声が妙に耳に残っていた。
聞き覚えがある気がするのに、思い出そうとすると靄がかかったみたいに掴めない。
だが、考えるほど別の苛立ちが混じってきた。
(なんか、ムカつく)
自分の知らないエレナシアを、あいつが知っているということも。
(……ああいうのが、好みだったりすんのかよ)
そんな想像が浮かんだ瞬間、頭の奥が熱くなった。
(……余計なこと考えてんじゃねえ)
乱暴に息を吐き、窓の外を見る。
まだ日は高い。
ミリィが戻るのは、どうせ夜だろう。
長い。
長すぎる。
「クソ……」
低く吐き捨てて、ルードは壁を蹴った。
◇
気づけば、夜もすっかり更けていた。
至っていつもの日常だ。
わざわざ仕事を早めに切り上げて帰ってやるような優しさは、あいにく持ち合わせていない。
たとえ腐れ縁のガキが女に逃げられて、捨て犬みたいな顔をしていようと。
アタシのツケが勝手に消えてくれるわけでもない。
……まぁ。
あの辛気くさい面が、まったく頭をよぎらなかったかと言われると、嘘になるけど。
(ペット飼うって、こんな気分?)
そんなことを考えながら、宿舎へ向かう。
収穫は、ちゃんとあった。
宿舎の近くまで来たところで、隣の部屋を借りてる女に声をかけられた。
「ねえ……あなた、動物でも飼い始めた?昼のあいだ、すごい音してたんだけど」
ミリィの眉がぴくりと動く。
「ごめぇん。今ちょぉっとデカめの犬、預かってんだよねえ〜。ちゃんと躾けとくからさ」
「……いいけど。あんまりうるさいと追い出されるわよ?」
「はぁい、気をつけま〜す」
それだけ言って、ミリィはさっさとその場を離れた。
(あいつ、アタシがいない間に何してんの?)
どうやら大人しく“待て”してるわけではなさそうだ。
◇
ドアを開けると、ルードは壁に寄りかかったまま項垂れていた。
ミリィが出たときと、ほとんど同じ場所。
ほとんど同じ格好で。
「……おせえよ」
顔を上げるなり、そんな声が飛んできた。
「アンタってさ」
ミリィは眉を寄せる。
「束縛激しいタイプ?」
「あぁ……?」
「ちょっ〜と帰りが遅いだけで、そんな態度とるんだぁ……って。そりゃ、逃げ出したくもなるかもねえ?」
ルードの眉間がぴくりと寄る。
何か言い返しかけて、結局、口をつぐんだ。
(効いてる効いてる)
危うく口元が緩みそうになるのを、なんとか堪える。
「あと、人の部屋で暴れるのやめてくれる?」
部屋の壁に残った痕を顎で示すと、ルードは視線を逸らしたまま、軟骨のピアスを指先でいじった。
「……で?なんかわかったのかよ」
声は低いが、落ち着いてはいない。
指先だけが、妙に忙しない。
「ん〜? まぁ、ちょっとはね?」
わざと含みを持たせると、ルードの目つきが変わった。
次の瞬間、立ち上がった彼の手が、ミリィのすぐ横の壁を打つ。
「教えろ」
ミリィは小さく息をついた。
昔からこうだ。
苛立つと、まず威圧してくる。
舐められたくないガキの延長みたいなもんだ。
今さら付き合いきれない……で済ませたいところだけど、昔と違って無駄にでかくなってる分、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、圧があるのが癪だった。
「あのねえ。女の子にそういうことするの、どうかと思うよ?」
「うるせえ」
「エレナシアちゃんにも、そういうことしてんの?」
「……」
返事がない。
(あ〜……したんだ)
ミリィは、なんとも言えない顔になった。
図星ついたのはこっちだけど、ちょっとくらい誤魔化すとかしてほしい。
軽く肩を押し返すと、ルードはふらついて壁に背をぶつけた。
昨日からまともに寝てもいないんだろう。
見た目ほど余裕はないらしい。
「で、アンタが言ってた金髪の貴族。見かけたって人がいたよ」
その一言で、ルードの顔つきが変わる。
「貴族がうろつくような町じゃないでしょ。そりゃ目立つよね。 気になって、少し後つけたらしいんだけど」
ミリィはそこで一度言葉を切った。
「角を曲がったと思ったら、もういなかったんだって。 まるで空気に溶けたみたいに。跡形もなく」
ルードは黙ったまま、何かを考えている。
「瞬間移動、みたいなもん? そんな魔法、アタシは聞いたことないけど」
ベッドの縁に腰を下ろしながら、ミリィは肩をすくめた。
「ま、今回の件と関係あるかは断言できないけどさ。 アンタの話じゃ、エレナシアちゃんが消えたときも、何も残ってなかったんでしょ?」
ルードはゆっくり頷く。
「だったら、“そういう力”が使われたって考えても、おかしくはないよねぇ」
ミリィがそう言ったところで、ルードの指が止まった。
さっきまで忙しなく動いていたピアスのチェーンが、ぴたりと揺れを止める。
「……ドアの外に、誰かいる」
◇
ルードは剣の柄に手を置いたまま、ドアに近付く。
ミリィは少し後ろでそれを見ているだけだった。
「……誰だ」
少し間があった。
「武器を構えているなら降ろしてください。危害を加えに来たわけではありません」
聞き覚えがあった。
王族の近衛騎士だとか言っていた女の声だ。
反射的に剣を抜きかける。
「騒ぎを起こして困るのは、そちらの方ですよ」
淡々とした声だった。
ミリィの方を見ると、目を細めたまま黙り込んでいた。
(巻き込むな、……ってか?)
剣に添えた手は、まだ離さない。
「エレナシア様を攫ったのが誰か、知りたくないんですか?」
何を言われたのか、瞬時に理解できなかった。
「……なんでそんなことお前らが知ってんだよ」
「気付いてなかったんですか? 私はずっとあなたを尾行していました」
血の気が引いた。
尾行?いつから?全部、見られていたのか?
「あなたがエレナシア様から離れたとき、何が起きたのかを私は知っています」
指先で剣の柄をひと撫でしてから、手を離した。
「どーすんの?」
「……」
(こいつらが俺を殺す気なら、とっくにどうにかなってる)
軽く息を吐いてから、ドアを開けた。
ドアの外に立っていたのは、案の定先日の二人だった。
男の方はポケットに手を突っ込んだままで、武器を構えるそぶりすらなかったが、女の方はレイピアに手を添えていた。
人数は同じ──だが、勝ち目はないだろう。
「あまりジロジロ見られるのは気分がいいものではないですね」
別に、ジロジロ見ていたわけじゃない。
相手の出方を確認していただけだ。
「人目につきたくないんです。中に入っても問題ありませんよね」
「お邪魔しますよ、っと」
二人が一歩踏み出した。
「ちょっとちょっと。ここアタシの部屋なんだけど?」
その声を無視して部屋に入ってくる。
「無駄話する気はねぇ。 さっさと情報を出せ。 出したら消えろ」
腕を組み、壁にもたれる。
「敵意丸出しだな〜」
眠たげに壁にもたれている男を、女が苛立ったように一瞥した。
「先輩は黙っててもらえますか? 緊張感がなくなるので。……私達がタダで情報を渡すとでも?」
舌打ちしながらピアスのチェーンを引くと、無意識に力が入り皮膚がかすかに痛んだ。
「ちょいちょい、アタシを無視しないでくれる?情報ならこっちだって持ってんだからね?」
思わず目を見開く。
(俺のため……ってわけじゃねえな)
女は物言いたげな顔をしたあと、すぐに興味をなくしたようにミリィから視線を外す。
「子供が首を突っ込んでいい話ではありません」
ミリィの目がスッと細まる。
この後ロクでもないことが起きるのは、身をもって知っている。
「ふ〜ん……」
ミリィは女を見上げるようにしながら、ゆっくり視線を下に移動させた。
「……アンタってさ、処女?」
ミリィの言葉に一瞬だけキョトンとした後、女の顔がみるみる赤くなった。
「な、なな、何を言い出すんですか!?」
「え〜、人のこと子供扱いするくせに"まだ”なんだ〜♪」
「勝手に決めつけないでください!」
「じゃあ、経験済み?」
「そ、それはっ……」
「そっちのチャラチャラしたおにーさんの目見て言ってごらん?」
ミリィが女の顔を覗き込む。
「……っ!」
「まぁ、そっちのおにーさんは経験済みみたいだけどね♡」
「急に矛先を変えないでくれよ」
さっきまで半分閉じていた男の目が全開になっていた。
「そうなんですか? 先輩」
女の目がわずかに鋭くなると、男は露骨に目を逸らした。
「え〜っと……」
「……おい、いつまでも遊んでんじゃねえよ」
女と目が合うと、何かに気づいたらしくバツの悪そうな顔をした。
「……失礼しました」
咳払いする。
「まず自己紹介しますね。私は王国第一近衛隊隊長のリゼットです。……そしてこっちは副隊長の……レイヴン」
妙な間が空いて、男が苦笑した。
ルードは何も言わなかった。
「……あなたのことは調べさせてもらいましたよ、ルードさん」
眉がぴくりと動く。
知られて困ることなんかないはずだったが、なんとなく気に入らない。
「とはいえ流れ者の賞金稼ぎのようですから、せいぜい歳の割に腕利きだ、ということくらいしか」
肩透かしを喰らって思わず鼻で笑った。
「あとは……通り名が"ブラック――"」
「その話はすんな」
ミリィが吹き出すのが見えて、思わず奥歯を噛み締める。
「……単刀直入に言います。私たちと協力しませんか?」
そう言ったリゼットの口調からは少しだけ圧が消えていた。
「はぁ……?」
ちらりとレイヴンの方を見ると、特に否定する素振りはなかった。
「するわけねえだろ」
「では情報を渡すことはできません」
舌打ちしそうになるのを堪えた。
「だったら、なんで俺のところに来た」
「……私たちが助け出したところでエレナシア様は城に戻る、とは言わないでしょう」
一拍置く。
「ですが、あなたの説得があればもしかしたら……と言うのが私の考えです」
沈黙が落ちた。
「あなたが断ると言うなら、多少強引な手を取らざるを得なくなります。……それは本意ではありません」
あいつが強引に連れ戻されることを考えただけで、勝手に拳に力が入る。
「あなたはこのままエレナシア様を放っておけるわけがない。違いますか?」
「……お前に何がわかる」
「お二人の関係を詮索するつもりは今はありません。いずれにしても、私たちに協力するしかないんです」
ルードは黙ったまま、軟骨のピアスを指でなぞった。
「……ま、助け出したあとのことは、そんとき決めたらいいんじゃないか?」
リゼットがレイヴンを軽く睨んだ。
「……先輩」
信用なんてできるわけがない。
でも、情報を探すのにここから何日かかる?
その間にこの二人に先を越されたら――多分、エレナシアは二度と自分の元に戻ってくることはない。
「……わかった」
ルードはピアスのチェーンを指で弾いた。
「でも、協力するのはあいつを取り戻すってことに関してだけだ」
リゼットが無言で頷いた。
自分だってエレナシアを誘拐したくせに、取り戻すためだなんて。
(……笑えるな、本当)