第8話 未知の途上に遊声

夜の静寂が、部屋を満たしていた。 窓の外では風が微かに吹き抜けている。 宿の部屋は、蝋燭の灯りがぼんやりと揺れ、淡い影を壁に落としていた。 外の通りはすでに静まり返り、宿の下の酒場も、客はほとんどいなくなっている。 かすかに聞こえるのは、店主が片付ける音くらいだった。 ルードは椅子にもたれかかりながら、無造作に耳元へ手をやった。 指先でピアスのチェーンをつまみ、何気なく揺らす。 カチャ、と微かに金属が触れ合う音がする。 特に意識しているわけではない。 手持無沙汰のとき、気づけばこうして触れていることが多い。 向かいに座るエレナシアは、筆談の紙を弄びながら何かを考えているようだった。 ルードはちらりと視線を向ける。 黙っているが、何か言いたげなのは分かる。 (……なんで黙ってんだよ) そう思いながらも、自分から話を切り出す気にはなれなかった。 エレナシアの指が、紙の端をかすかに摘んでいる。 筆を取るか迷っているのか、それともただ手持ち無沙汰なのか。 沈黙が続く。 なんとなく気まずい。 ルードは、舌打ちをする代わりに、無言でピアスを指で弾いた。 小さく揺れる金属の感触が、微かに冷たい。 どこか落ち着かない夜だった。 「……お前、何か言いたそうだな」 エレナシアがピクリと反応し、少し迷ったように目を伏せた。 「黙ってても伝わらねぇぞ」 エレナシアは短く息を吐き、ゆっくりと筆を走らせた。 『……ルードは、私のことをどこまで知ってる?』 ルードは目を細める。 「……知ってるのは、お前が訳ありだってことくらいだな」 エレナシアは再び視線を落とし、少しだけ考え込むように指先で紙の端をなぞった。 その仕草に、ルードは微かな違和感を覚えた。 「なんだ」 エレナシアは迷うように筆を握り直し、ゆっくりと書き加えた。 『私の力について、何か思ったことは?』 ピアスを弄ぶルードの指が、ぴたりと止まる。 「……まぁ、普通じゃねぇな」 エレナシアの魔力が暴走しかけた時のことを思い出す。 あの時感じた、異質な力。まるで災厄そのものが解き放たれたような感覚。 「制御できないのか?」 その問いに、エレナシアの指が一瞬だけ止まる。 そして── 『今までは、できた』 ルードは眉をひそめる。 「今までは?」 エレナシアの筆が、ゆっくりと動いた。 『感情を抑えていたから』 「……」 ルードは、その言葉を黙って読み返した。 感情を抑えることで、力の制御をしていた? それが、自由になった今は抑えきれなくなってきている、ということか。 「……それじゃあ、今は?」 エレナシアは紙をめくる。 『分からない』 ルードは短く息を吐く。 「……つまり、お前が感情的になったら、また暴走する可能性があるってことか」 エレナシアは静かに頷いた。 ルードは腕を組み、少しだけ考えるように視線を落とす。 「……で、それをどうにかする方法はあるのか?」 エレナシアの指先が、わずかに緊張したように震える。 「……?」 ルードはその反応を見て、何かを察した。 「あるんだな」 エレナシアは、わずかに頬を赤らめながら、筆を握り直す。 そして、ゆっくりと書いた。 『契約』 ルードは目を細める。 「契約?」 エレナシアは少しだけ視線をそらした。 『魔力を安定させる方法』 「……詳しく聞かせろ」 エレナシアの筆が、静かに紙の上を滑った。 『魔力を共有することで、力を安定させられる』 ルードの眉間にしわが寄る。 「共有……?」 エレナシアの指が、紙の上で一瞬止まり、次の言葉を書くのを迷っているようだった。 「……何を迷ってんだ」 ルードは微かに苛立ちを滲ませながら促した。 「どうやって共有するんだ」 エレナシアは筆先を見つめたまま、ほんの少しだけ迷った。 『……身体を重ねること』 その一言に、ルードの背筋がぴくりと反応する。 「……は?」 視線を伏せたまま、エレナシアは続きを書いた。 『――男女としての関係になることで、契約は成立するの』 重たい沈黙が、ふたりの間に落ちた。 (……おいおい、マジか) ルードは喉が詰まるのを感じながら、無意識に視線を逸らす。 エレナシアは、そんな彼の様子をじっと見つめていた。 指先が紙の端をなぞる仕草は、僅かに迷いを孕んでいるようにも見える。 それでも、目は逸らさない。 「……で、誰とでもできるもんなのか?」 エレナシアはゆっくりと筆を走らせた。 『……前に聞いたことがある』 書き終えたあと、一瞬だけ間を置いて、 また紙に視線を落とす。 『契約には相性があって、魔力を持つ側が、どれだけ相手を信頼してるかが大事って』 そして最後に、わずかに筆の動きを迷わせながら、もう一言。 『信じてないと、魔力が拒絶することもあるって』 エレナシアの筆談を読みながら、ルードは鼻を鳴らした 「……相性ねぇ」 言葉の意味を考えながら、無意識にエレナシアへと視線を向ける。 彼女はじっとこちらを見つめていた。 蝋燭の灯りが揺れ、エレナシアのアメジスト色の瞳に、淡く光が映り込む。 その視線を受け止めながら、ふとした想像がよぎる。 (たとえば、俺と――) イメージが広がる前に、ルードは目を閉じ、強く息を吐いた。 (……バカか。何考えてんだ) 契約って、そういう話なんだろうけど。 でも、こいつをそんな目で見てるわけじゃ―― (いや、違うな……そう思った時点で、もうダメだ) (自分で「仕事」とか言っといて、心の中じゃそれかよ) 思考がぐるぐると回り出す。 (……最悪だな、俺) そもそも。 「信頼」なんて、されてるわけがなかった。 こいつを連れてきたのは、金のためだ。 助けようとしたわけじゃない。 あいつにしてみりゃ、自分なんかただの―― (……“運び屋”でしかねぇよな) 胸の奥が、わずかにざらついた。 どうにか気持ちを切り替えるように、ルードはそっけなく言い放つ。 「……まあ、その話は置いとけ」 視線を逸らしたその顔には、普段より少しだけ、影が差していた。 エレナシアは少しだけ驚いたように瞬きをしたが、何も言わずに頷いた。 そして、夜は静かに更けていった──。 ◇ 朝の冷たい空気が、まだ肌に残る。 昨夜、契約の話を聞いたあとも、エレナシアとは多くを語らなかった。 無理に向き合うこともなく、それでもどこか距離は近くなったように思う。 (……少しは、マシになったか) けれど―― 心のどこかでは、まだ引っかかっている。 昨日、「仕事だ」と言ったときの彼女の顔。 あの静かに失望するような目が、今も頭から離れない。 (……余計なこと言ったな) 自分でも分かっていた。 けれど、その時にはもう遅かった。 それでも少しは歩み寄れたのだと、思いたい。 ただ、それで完全に割り切れたわけではない。 (……迷ってるのか?俺は) 彼女の手の温もりが、まだ指先に残っている気がした。 無意識に手を開いたり閉じたりしながら、ルードは僅かに息を吐く。 依頼を果たさなければならない。 エレナシアを、依頼人のもとへ引き渡す。 それが、最初から決まっていたことだった。 だが、それならば── なぜ、あんなにも焦って彼女を探してしまったのか。 なぜ、荷物じゃないと言ってしまったのか。 ルードはふっと目を伏せる。 (……考えても仕方ねぇ) 期限まではまだ余裕がある。 それに、物資も減ってきている。 だから── 「……寄り道でもしておくか」 誰に言うでもなく呟くと、ルードはエレナシアを促し、小さな村の方へ歩き出した。 小さな村の市場は、朝の活気に満ちていた。 パン屋から漂う香ばしい匂い。 行商人たちの威勢のいい声。 朝露に濡れた野菜や果物が、並べられた木箱の上で輝いている。 それに混じって、元気な子供たちの声があちこちから響いていた。 市場の片隅では、数人の子供たちが木の棒を剣に見立ててチャンバラごっこに興じている。 賑やかな声が響き、笑い声が弾ける。 村の人々は、そんな子供たちの喧騒にも慣れているのか、微笑ましそうに見守りながら朝の買い物を続けていた。 ルードはそんな光景を横目に見ながら、ため息をつく。 (……やけに子供が多いな) 市場の喧騒の中、ルードは手にした紙袋の重さを確認する。 保存のきく干し肉、乾いたパン、携帯用の水袋。 予備の布と薬草も、それなりに揃った。 (……ひとまず、こんなもんか) 荷物を肩にかけ直し、ちらりと隣を歩くエレナシアに目をやる。 変わらず無言のまま、律儀に歩幅を合わせている。 「……次、鍛冶屋行くぞ」 エレナシアはこくりと頷いた。 剣の手入れを後回しにしていたのは、最近、刃の重みが微妙に変わったように感じていたからだ。 いつも通りに振っていても、切っ先がわずかにズレる感覚がある。 (……研ぎ直しくらいで済むといいが) 細い路地を抜け、鍛冶屋の看板が見える通りへと出る。 すでに鉄を打つ音が響いており、開店しているらしい。 ルードは足を止め、剣の柄に軽く触れた。 「ちょっと見てもらうだけだ。すぐ終わる」 そう言って、鍛冶屋の軒先をくぐる。 扉を開けた瞬間、金属と油のにおいが鼻をついた。 扉を開けると、店の奥で火が赤々と燃えていた。 鉄を打つ音は止み、年配の男が顔を上げる。 「いらっしゃい」 ルードは無言で腰の剣を外し、鞘ごと台の上に置いた。 「研ぎと、バランスの調整。最近ちょっとズレを感じる」 職人は手慣れた様子で刃を見て、すぐに答える。 「芯に歪みがあるな。癖が出たんだろ。夕方までに仕上げとく」 「頼む」 短く言い残し、店を出た。 店の外では、エレナシアが静かに待っている。 「夕方までかかるらしい」 扉の外では、エレナシアが静かに待っていた。 特に変わった様子はない――はずだったが、どこか違和感があった。 足取りが、わずかに遅い。 普段ならもう少しシャキッと動くはずの彼女が、今日はどこかおとなしい。 (……具合でも悪いのか?) とっさにそう思った。 「……とりあえず、宿取っとくか」 ルードがそう声をかけると、エレナシアは少しだけ目を見開いた。 だがすぐに、静かに頷いた。 ◇ 宿屋は市場通りから少し外れた場所にあった。 木の壁に古びた看板、質素な造りだが、手入れは行き届いている。 「……ここでいいか」 ルードが短く言うと、エレナシアは黙って頷いた。 中に入ると、店番の中年の女性が笑顔で迎えてくれる。 手続きを済ませ、簡素な部屋の鍵を受け取ったルードは、エレナシアを伴って階段を上がった。 二階の角部屋。 窓からは村の広場が見渡せる。 扉を開けると、室内には木製のベッドと小さな机、それに椅子がひとつだけ。 明かり取りの窓から、淡い日差しが差し込んでいた。 ルードが荷物を机に置くと、エレナシアは無言のまま椅子に腰を下ろした。 その仕草が、どこか緩慢だった。 いつものように機敏な動きではない。 背を丸めるように座り込み、腕を膝に預けるような姿勢でじっとしている。 (……やっぱ、調子悪いのか) ルードは立ったまましばらく見ていたが、何も言わず、窓際に寄ってカーテンを少し閉じた。 光が部屋に優しく落ちる。 「……ちょっと、休んどけ」 エレナシアは顔を上げ、ゆっくりと頷いた。 だがベッドには向かわず、椅子の上でそのまま身を丸めるようにして座っている。 ルードは小さく息を吐いた。 (ベッドで寝りゃいいのに……) ふと、かつての記憶が脳裏をかすめる。 かつてミリィと仕事をしていたときのこと。 なんの因果か、あいつとは妙に一緒に仕事する機会が多かった。 ミリィは「今日はだるいから行かない〜」と当日になって寝転がったまますっぽかす日が何度かあった。 最初は気まぐれだと思っていたが、どうやら定期的に“そういう日”があるらしい――と、あとになって気づいた。 (……あー、そうか) ルードは少しだけ目を細め、エレナシアの様子を横目に見る。 理由を訊くつもりはなかったし、訊いたところで彼女は答えないだろう。 ただ、いま無理をさせるべきじゃない。 それだけは分かる。 「……しばらく外出る。何かあったら、紙に書いとけよ」 そう言い残し、ルードはそっと部屋を出た。 ◇ 夕暮れが近づくにつれ、村の通りは少しずつ静けさを取り戻していた。 宿を出たルードは、時間を潰しながら市場を抜けて鍛冶屋の方へ足を向けていた。 (そろそろ、できてる頃だろ) 歩きながら、道端に転がる小石をつま先で弾いた。 遠くで行商の片付けが始まり、カゴを下げた婦人たちが足早に帰路を急いでいる。 鍛冶屋に着くと、店先にはもう人影はなかった。 扉を押して中に入ると、奥から顔を出した職人が手を振った。 「いいタイミングだ。ちょうど終わったところだよ」 ルードは黙ってうなずき、差し出された剣を受け取る。 そのまま鞘から少し抜き、研がれた刃をひと目で確かめた。 (……上出来だな) 柄を軽く持ち直し、腰の位置で剣を横に構える。 右手のスナップで、刃をなぞるように回す。 ――飛んでくる矢を受け流すような、横払いの動き。 斜めに刃を立て、そのまま力を逃がすように手首を返し、滑らかに1回転。 重さのバランス、反動の流れ、手の中の納まり。 すべてを確かめるには、ちょうどいい動きだった。 「……悪くない」 満足げにそう呟いた、そのときだった。 「うわっ……なにあれ!」 「今、回したよね!? 剣、くるって!」 「へぇ〜、やるじゃん。ちょっとカッコいいかも?」 店の外に、三人の子供が顔を寄せ合うようにして立っていた。 目を輝かせてルードを見つめるその視線に、思わず眉をひそめる。 (……なんだこいつら) 一番背が高くて元気そうな少年が、ずいと前に出る。声は大きく、勢いもある。 「ねぇねぇ、もう1回やってよ! 今のどうやったの?」 その横で、ぽつんと立つ小柄な子が、おずおずと続ける。 「うわぁ……本物の剣だぁ……」 そしてもう一人。腕を組んでふんぞり返った態度の、小さな男の子が鼻で笑う。 「ちょっと俺に教えさせてやってもいいぜ?」 ずかずかと近寄ってくる三人に、ルードは思わず一歩退いた。 (……うるせぇ) 夕暮れの静かな空気は、あっという間に台無しだ。 「一生のお願い!もう1回見せて!」 「いいなぁ……すごいなぁ……」 「ほら、早くしなよ。見せてくれたら、感想くらいは言ってやるって」 (……めんどくせぇな) ルードはひとつ舌打ちすると、ぐるりと視線を巡らせて言い放った。 「見せもんじゃねえ。……散れ」 「そんなぁ~」 「残念……」 「つまんないヤツ……」 三人がそれぞれ文句を言いながらも食い下がる。 一番前にいた少年が手を合わせ、真剣な顔で頼み込んだ。 「じゃあ……見せなくていいから!教えてくれるだけでいいから!」 (……はぁ) 本来なら、さっさと追い払って終わりのはずだった。 だが、ふと思い出す。宿の部屋で、椅子にうずくまっていたエレナシアの姿を。 (……あいつ、ちゃんと休んでるよな) もう少し、一人にしてやったほうがいいのかもしれない。 「……仕方ねぇな」 ルードは無言のまま、気弱な子の手にあった棒切れを取り上げる。 軽く肩を回し、息をついてから端を持ち直す。 そして、腰を落とした。 「まずは――足を開け。肩幅より、ちょい広め」 三人がそれぞれの癖で真似をする。 やたら前のめりなやつ。ビクビクして動けないやつ。形だけ決めてるつもりのやつ。 少しだけ目を細めながら、ルードは遠い記憶に思いを巡らせた。 (……なんか、俺もこうやって教わったっけな) 酒くさい笑い声。気まぐれな声。 あの中年男の、ふざけた教え方。 でも、なぜかあの言葉だけは、妙に頭に残っている。 「剣を振るなら、ちゃんと立て。それができねぇ奴は、斬られる前に転ぶ」 (……ったく。クソジジイ) ルードは口元をわずかにゆがめ、子どもに棒を返した。 「――ほら。もう1回、やってみろ」 夕暮れの空の下、子どもたちの歓声がまたひときわ大きく響いた。 ◇ 子供たちの騒ぎをなんとか振り切り、ルードは市場の外れへと足を向けた。 夕暮れの空気が肌をひやりと撫でる。 (……やれやれ、騒がしい連中だ) 剣を腰に収め直しながら、ひとつ息を吐く。 その足で向かったのは、市場の片隅にある湯茶屋の屋台だった。 ルードは黙って代金を置き、木製のカップを片手に市場を後にする。 宿へ戻る道すがら、ふと、足元の影が夕日に長く伸びていた。 手に持ったカップから立ちのぼる湯気が、冷えた空気にやわらかく溶けていく。 (……あったかいもんのひとつでもあれば、多少マシになるか?) 湯気越しに、さきほどのエレナシアの顔がぼんやりと浮かぶ。 (……別に、気にしてるわけじゃねぇけど、あんまり不調でも困るしな) そんなふうに、心の中でぼそっと言い訳してみる。 ルードは静かに、宿の扉を開けた。 ◇ 部屋の空気は静かだった。 窓際の椅子に座りながら、エレナシアは薄く目を閉じる。 体の芯にひんやりとした重さがあって、どうにも思うように動けなかった。 慣れてるとはいえ、やっぱりこの時期は苦手だ。 腹のあたりが鈍く痛み、まぶたも重い。 椅子に背を預けているだけで、どこか夢の中に沈んでいくような感覚になる。 それでも、ベッドに入る気にはなれなかった。 寝てしまえば楽なのかもしれないけれど、何かを“投げ出す”みたいで―― そうするのが少し、悔しいような気がしていた。 ルードは何も言わなかった。 気づいていたのかどうか、それは分からない。 けれど、何も言わずに出ていったことが、少しだけ気になった。 かといって、自分から理由を言うつもりもなかった。 説明したところで、うまく伝えられる自信がなかった。 ――というより、どう伝えていいか分からなかった。 窓の外には、茜色がにじみ始めていた。 ルードは、もうじき戻ってくる頃だろう。 静かに息を吐いて、エレナシアは指先を重ねる。 冷たくも温かくもない、自分の体温が、妙に頼りなく感じられた。 ドアの向こうで、小さく鈴の音が鳴った。 その音に反応して顔を上げると、ルードが静かに部屋へ入ってくるところだった。 彼は何も言わず、片手に持っていた木のカップを、こちらに差し出した。 ふわりと湯気が立ちのぼり、ほんのりとした香りが空気に混じる。 「……飲めるか」 ぶっきらぼうな声。 けれど、その声の奥にある温度を、エレナシアは見逃さなかった。 少し迷ってから、カップを受け取る。 両手でそっと包み込むように持つと、手のひらに温かさがじんわりと広がっていく。 さっきまで冷えていた指先が、じわじわと熱を取り戻していくのがわかった。 「……ベッド使えよ。寝てたほうがマシだろ」 ルードは短くそう言うと、すぐに視線を外し、荷物の方へと歩いていった。 エレナシアは少しだけその背中を見つめて、それから視線を落とす。 温かい。 その事実だけで、体の緊張がほんのわずかにほどけた。 無理に優しくしようとしているわけではない。 でも、たぶん彼なりに、気づいて――気にしてくれたのだろう。 それだけで、十分だった。 湯気の立つカップを両手で包み込みながら、 エレナシアは静かに目を伏せた。 胸の奥のざわつきも、痛みも―― ほんの少しだけ、遠くなった気がした。 ベッドに体を預け、まぶたを閉じる。 小さな温もりが、夜の静けさの中に溶けていった。 ◇ 朝の空気はひんやりとしていて、けれど昨日よりも、少しだけやわらかかった。 エレナシアは静かに目を開ける。窓の隙間から差し込む淡い光が、部屋の木床を照らしていた。 身体の重さは、昨夜よりもずっと軽い。 痛みも、まだ名残はあるものの、なんとか動けそうだと思えた。 隣の椅子には、畳まれた上着と、空になった木のカップ。 あのあと、ちゃんと寝付けたのか覚えていない。けれど、目覚めた今、心は静かだった。 「起きてるなら、そろそろ行くぞ」 低い声がして、返事をする代わりに、エレナシアは椅子の背から筆と紙を取った。 『もう、大丈夫』 それをルードに見せると、彼は少しだけ眉を上げ、いつも通りのぶっきらぼうな調子で答えた。 「ならいい。無理すんなよ」 無愛想だけど、優しさがにじんでいた。 エレナシアは何も書かずに、そっと頷いた。 外の空気は冷たかったが、朝の光が市場に差し込み始めていて、昨日よりも活気があった。 物資はすでに揃っている。 鍛冶屋での用事も終わっていた。 それでもルードは「少し歩くか」と言って、村のはずれまで足を伸ばしていた。 エレナシアは、その後ろを静かに歩く。 時折風が吹き、彼の黒髪が揺れる。 しばらく歩いたところで、ふいに元気な声が響いた。 「いた! 剣のお兄ちゃんだー!」 草陰から、小さな影が次々に飛び出してくる。三人の子供たちだ。 手には木の棒を剣のように構えていて、駆け寄る勢いに、ルードはわずかに眉をひそめた。 「ねえねえ、また剣教えてよ!」 背の高い少年が真っ先に駆け寄り、ルードの腕をぐいと引っ張る。 ルードは面倒くさそうにため息をつくと、ぼそりと呟いた。 「……ガキに付き合うほど、暇じゃねえんだよ」 「えぇ〜〜! お願いだよ~!」 「……昨日、楽しかったのに」 子供たちがそれぞれ抗議するが、ルードはそっぽを向いて、動こうとしない。 すると、1人の男の子がひょいっと首を傾げた。 「……じゃあ、そっちのお姉さんに聞いてみようぜ」 「ちょ、やめろバカ、勝手に――」 ルードが止める間もなく、子どもたちはエレナシアのもとに駆けていく。 エレナシアは目を瞬かせ、子どもたちに囲まれながら筆を取った。 『少しだけなら、大丈夫』 そう書いた文字を見て、ルードは肩をすくめる。 「……ったく。勝手に決めてんなよ」 ぼやきながらも、木の棒を手に取ると、ゆっくり腰を落とした。 「……ほら、足。肩幅よりちょい広めな」 「こうだ。ちゃんと握れ」 そう言って、手本を見せるように、剣を構えたときと同じ型をなぞる。 片膝をわずかに落とし、肩の力を抜きつつ、棒の先端だけをすっと構えるように――まるで、体が自然に覚えているかのようだった。 エレナシアは、その様子を少し離れた場所から見ていた。 子供相手に無表情なまま接しているルード。 けれど、その所作はどこかやわらかくて、優しかった。 (……なんだか、意外) ぶっきらぼうで、近づきがたい人だと思っていた。 それなのに、子供たちの真剣な顔に、ちゃんと付き合っている。 剣を握るときの彼とはまた違う、どこか素の表情。 そんなルードの横顔を静かに見つめていた。 すると―― 「ねえ、お姉さん。もしかして、アイツの“女”?」 ませた調子で問いかける声が、すぐ近くから飛んできた。 ルードはわずかに肩を揺らし――すぐさま顔をしかめる。 「ちげぇよ」 ぶっきらぼうな否定。だが、その語気はどこか早口だった。 「……マセたこと言ってんじゃねぇよ」 エレナシアは驚いたようにルードを見上げたが、すぐに視線を逸らす。 その頬には、ほんのりと照れくさそうな色が差していた。 (……ちょっと、びっくりした) 否定されたのが悲しいわけじゃない。 ただ、彼の反応が思ったよりも強くて――なんだか、おかしくなった。 「だったら、おれの女にならない?」 自慢げに胸を張り、堂々と言ってのけた子供に、エレナシアは小さく目を瞬かせた。 そして、静かに微笑む。 その瞬間、ルードの手が無言でその子の頭に乗った。 「……調子に乗んな、ガキ」 「え、なんで? 本気で言ったのに」 生意気な口を利きながらも、その表情はどこか誇らしげだった。 その様子に、エレナシアはふっと口元を緩めた。 そんな彼女の笑顔をちらりと見たルードは、視線を逸らし、何かをごまかすようにため息をついた。 ◇ 子供たちと別れ、2人は再び通りを歩いていた。 通りの角に、小さな生活用品の露店があった。 調理器具や雑貨が並ぶ中で、エレナシアがひとつの鍋に目を留める。 その視線に気づいたルードが、ちらりと視線を向けた。 「……欲しいのか?」 突然の問いに、エレナシアは少しだけ戸惑い、筆を取る。 『……念のため』 ほんの少し間を置いて、そう書いた。 ルードはその文字をじっと見てから、わずかに息をつく。 「……そうか。じゃあ、小さいのにしとけよ」 それだけ言って、手持ち無沙汰な様子で隣に立ち尽くす。 エレナシアは静かにうなずき、小ぶりな鍋を手に取った。 そこから先は、特に会話もなく。 二人は並んで歩きながら、ずらりと並ぶ露店を眺めていく。 夕方の空気が、ゆるやかに流れていた。 昼間の賑わいは少しずつ和らぎ、村の通りにも落ち着きが戻り始めている。 そんな中、エレナシアがふと足を止めた。 目に映ったのは、小さな髪飾りが並ぶ露店。 シンプルなものから繊細な細工が施されたものまで、さまざまな種類が並んでいる。 その中のひとつに、自然と視線が留まった。 銀細工のバレッタ。 小さな紫の石が埋め込まれていて、夕日を受けて淡く輝いている。 指先でそっと触れ、静かに見つめる。 「……それがどうした?」 隣から、ルードの低い声が聞こえた。 エレナシアは少し考え、筆を走らせる。 『……綺麗だなと思って』 ルードはその文字を見て、一瞬だけ視線を止めた。 エレナシアはそれに気づかないまま、もう一度だけ小さくバレッタを見つめる。 (……でも、買ってもらうほどのものじゃない) そう思い、手を離す。 彼は「ふぅん」とだけ言い、特に何か言うこともなく歩き出した。 エレナシアも、何事もなかったかのようにその場を後にした。 ◇ 空はすっかり夕焼けに染まっていた。 昼間の喧騒とは打って変わり、人々の足取りはゆったりとし、どこか落ち着いた雰囲気が漂う。 エレナシアは、村の通りを静かに眺めた。 (……もうすぐ、出発か) 短い滞在だったが、この村での時間はどこか心に残るものだった。 静かにひとつ息をつき、エレナシアは歩き出す。 しかし、数歩進んだところで、ふと足音がないことに気づく。 (……?) 小さく首をかしげて振り返ると、ルードの姿が見当たらない。 あたりを見回すと、少し離れた場所――露店の前に、彼が立っていた。 先ほど通りかかった髪飾りの店。 エレナシアは、自分がその前でほんの少し足を止めたことを思い出す。 ……ただ目に入っただけだった。欲しいだなんて、思っていない。 ルードは何かを考えるようにしばらくその場に立ち、やがて店主にひとことだけ声をかける。 そして、小さな包みを手にすると、さりげなくポケットにしまった。 エレナシアが声をかけるより先に、彼はいつもの調子で口を開く。 「……なんでもねぇよ。行くぞ」 そう言って、もう振り返ることなく歩き出す。 エレナシアは、小さく瞬きをする。 何をしていたのか、わからない。 けれど、ほんのささいな違和感だけが、胸の中に残った。